四 飛脚

 厩で寝ていた鹿毛を起こし、藤はその背に跨って駆け出した。

 家の周りの竹林を抜けると、開けた街道に出て、いっそう疾走する。白々とした月の光が辺りを照らしている。月光がなければ、鹿毛を夜に走らせることは不可能だった。

 六堂へ向かうには、街道を抜けた先にある、険しい間楼山けんろうざんを超える必要がある。山を超えた先にも街道が続くため、六堂に図面が届くまでには、どんなに急いでも三日はかかる距離だ。普通の飛脚であれば五日はかかる。

 しかし、藤が急いでいる理由は、その山にあった。飛脚が山に入ってしまったら、もう馬で追いかけることはできない。

 後は足で追うしかないが、いくら元忍の藤であろうと、この辺りの地形に精通し、俊足を誇る飛脚に追いつくことは不可能だ。

 つまり飛脚が山に入る前に追いつかねばならないが、飛脚はすでに一刻も前に出発している。常識的な感覚で言えば、号が最後に言ったように、間に合わない。

 けれども、藤は諦められなかった。

 藤と浄の居場所が六堂に伝わったら、確実に何らかの形で追手が来る。それが浄を殺そうとするものであれ、浄に殺しの依頼をするものであれ、藤の切願を邪魔するものに他ならない。

 嶋にあの家を建ててもらうまで、藤と浄は一年にわたって、松柏各地の宿屋を点々とする生活を送っていた。浄を他人に接触させないように気を張って過ごす生活は、藤にとって負担の大きなものだった。

 あの家があるのは、人に悟られにくく、生活の利便性もある至高の立地。さらに、他言無用を承知し、たった一人で一から建築を行ってくれた嶋がいたからこそできた家だ。藤には、あの家を捨てて居住地を移すという判断はできなかった。

 前方に人影が見えて来ないかと、夜の街道をひた走りながら、目を凝らす。しかし、藤の願いは届かなかった。

 山の入り口が見えた。手綱を強く引くと、鹿毛はいななきながら足を止め、その場で数回足踏みをする。辺りを見渡しても人影はなく、藤は奥歯を噛みしめた。

 深く茂りだした木々が山道を覆い、闇に沈んだ山の中には月光も届いていない。もう無理だとわかっていながら、すぐに引き返す踏ん切りがつかず、その場でやり場のない思いを籠め、握りしめた拳を鞍に当てた。

 と、ちょうどその時だった。山の中から複数人の怒声が聞こえた。

 藤はハッとして顔を上げると、急いで鹿毛から飛び降り、山道へと走り出す。

 足音を立てずに素早く野山を駆ける技術は、藤の身に叩き込まれたものだ。木の根に足をとられないように跳躍を繰り返しながら駆けると、前方で物音が大きくなった。

 刃が打ち合う音が続き、今度響いたのは、男の悲鳴。

 人影が見え、藤は咄嗟に近くの木の幹に隠れて様子を伺う。

 毛皮とぼろを身にまとった男が五人。一人が松明を掲げ、他のものはめいめいに刀や棍棒を手に、一人の男を囲んで立っていた。中央の男の姿から、彼が飛脚だということが分かる。

 飛脚はガクリと膝をついて、地面の上に倒れ伏す。彼の正面に立っていた男は、飛脚の腹部に刺した刀を引き抜いた。今まさに飛脚が山賊に襲われ、殺された場面であることが一瞬で見て取れた。そこまでを確かめると、藤は静かに刀を抜いた。

 無意識に寄せられた藤の眉は、微かに滲んだ悔恨の現れ。自分の到着があと少し早ければ、飛脚の命を助けられたのではないかと。

 元より乱れていない呼吸をいっそう整え、一声も発さずに躍り出る。

 鎌を手にした山賊の一人が、飛脚の荷物をあらためようと腰をかがめた瞬間。その背から刀を振り下ろすと、袈裟斬りにする。斬られた男は、声を発することもなく絶命した。

「兄貴!」

「貴様ァ! いったい何もんだ!」

 山賊は仲間の一人が倒れ、ようやく藤の存在に気づいた。突然の襲撃に慌てて声を上げるが、藤は彼らの声を気にかける様子もなく、再度踏み込む。

 振り下ろした刀を切り返し、こちらへ向かってきた二人目の山賊の鳩尾から喉元までを一息で斬り上げる。松明が照らすチラチラとした灯りの中、鮮血が吹き出した。

 瞬間、横に回り込んだ三人目の男が藤の脳天めがけ、棍棒を振り下ろす。

 それを軽く背を反らして避けると、反動で振り上げた足で、三人目の男の横面を蹴り、吹き飛ばす。地面へと倒れゆく背を、刀で刺し貫いた。藤の結い上げた長い髪が、彼の動きに合わせて、どこか優雅に靡く。

「ひ、ひぃっ!」

 鬼神のごとき藤の立ち回りに圧倒され、松明を持っていた男が悲鳴を上げる。

 そこから、すっかり意気を失った二人の命が絶えるのに、呼吸三つ分もかからなかった。後に残されたのは、飛脚一人と、山賊五人の無残な骸。

 藤は山賊のまとったぼろで刀の血を拭って、鞘に納める。山火事にならないようにと地面に落ちた松明を拾い上げ、静かに息を漏らすと、飛脚の担いでいた木箱から手紙を取り出した。

 裏には号の署名に、表には『えん先生』の宛名。中を確かめれば、嶋の手掛けた二四番目の家の図面も入っている。

 手紙を懐に収め、視線を下ろすと、恐怖に歪んだ飛脚の顔が視界に入った。藤は見開かれた瞼を指先で降ろし、立ち上がる。踵を返すと、足早に山道の入り口まで戻った。

 どこにも繋がれずに放置された鹿毛だが、彼はどこに行くでもなく、下草を食みながら、藤の帰りを待っていた。

 その呑気な姿を目にして、藤はほんの僅かに表情を緩める。

「お前は大物だな」

 藤は松明の火を消して鹿毛に近づくと、声をかけながら首元を撫でる。鹿毛はブルブルと鼻を鳴らして、藤の首筋へと鼻先を擦り付けた。

 手綱を手に取り鞍に跨ると、来た道を戻る。

 不本意な形にはなったが、目的のものは手に入れた。鹿毛の体力にも限界がある上、もう急ぐ理由もない。鹿毛の蹄が立てる軽快な足音を聞きながら、往路の倍近い時間をかけて、竹林へと辿り着いた。白々と夜が明け始めている。

 竹林には、縛り上げたまま放置していた号の姿はなかった。いくら藤には力量では劣るとは言え、号もれっきとした忍。見張りがいなければ、地上で縄抜けをするのは、たいして難しいことではない。

 藤は逃げた号のことを気にかけなかった。号が再び、浄の元へと向かった心配をしていなかったからだ。

 どこへ行ったかは知れないし、己の成そうとしていることの全てを理解してもらえたとは思えない。だが、藤がどういう思惑で浄と暮らしているかは、伝わったと感じていた。嶋にしたことを藤は許せないが、号も元来、悪人ではない。

 藤はそのまま家へは戻らずに、別の道を通って竹林の奥へと向かう。

 しばらく進むと、断崖に面した湖に出た。沢が小さな滝のように注ぎ込んでいる。湖の広さは、一般的な一軒家が二軒ほどすっぽり収まってしまう程。朝靄が立ち込め、柔らかな日の差し込む穏やかな湖面が美しい。

 鹿毛から降りると、無造作に着物を脱いで、湖の中へと入っていった。結い上げた髪も解くと、足先から浸し、そのまま深みに向かって、頭の先まで浸かってしまう。

 キンと冷えた水に肌が強ばる。しかしその冷たさが、返り血に汚れていた体を、精神的にも清めてくれるようだ。

 藤はそのまましばし、水の中をたゆたっていた。

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