第35話・中納言高野とて

 現在国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る『多聞院日記(三教書院版、角川書店)』では文禄三年九月四日条に「中納言高野トテ中坊へ来了」とある。

 一方『大日本史料データベース(史料編纂所データベース)』では「大和郡山の羽柴秀保、放鷹す」とある。これは『史料綜覧』の記述で、元は『多聞院日記畧(略)』に依るという。

 つまりここで「翻刻」に差違が生じている。

 前者は興福寺所蔵の写本を翻刻し、後者は東京大学史料編纂所蔵の写本「多聞院日記略」を引用したものであろう。


『国書データベース』によると、この『多聞院日記略』の注記として「前田氏尊経閣図書記」とあるから、この同写本は加賀前田家に伝わったものと思われる。同写本は同データベースや国立公文書館デジタルアーカイブ、史料編纂所データベースで閲覧することが出来る。


 筆者は物好きなので、本作を書く以前に国会図書館デジタルコレクションの『多聞院日記(辻善之助・興福寺写本)』で秀保の動静をまとめていた。まずそこで九月四日条の「高野トテ」を収拾。

 後日、別件で『日本庶民文化史料集成 別巻 総合芸能史年表(芸能史研究会・三一書房)』で秀保を探していると、同日に多聞院日記を出典として秀保が「放鷹」とある。(史料綜覧を参考にしたとも考えている)

 その当時はメモだけして放置していたのだが、今年に入って話を起こすにあたり「高野」と「鷹野」で頭を抱えることになった。

 二つの出来事は、恐らく写本の過程によって差違が生じたのであろう。

 筆者は「高野山」へ赴いたとすることは物語として、実に魅力的であると思う。

 振り返ってみると秀保は祖母の死に目にも会えず、秀吉の高野供養にも同道していない。

 だからこそ大和の国主たる秀保が、高野へ赴くことに何の違和感があろうか。


 最もこの日秀保一行がとった行動に関する史料が見られない点は、大きな障壁である。

 だが、考えてみればこれは小説、歴史物語なのだから、史料的制約とか翻刻の差違などは、創作の材料にしてしまえば良いのである。イマジネーションは自由な発想なので、誰にも文句は言われまい。


 大和へ戻ってからの高虎は急ぎ「多門の古塔」を伏見へ移送する作業に取りかかる。

 無事に伏見へ届けると、同地から秀保の高野山行きの前支度を始めていた。

 先年身罷った祖母天瑞院の追善が主目的ではあるが、秀保そして高虎周辺の息抜きも兼ねている。

 息抜きを兼ねているのに、支度で忙しいというのは自分でもおかしいと感じる。

 だが行き先の高野山が、高虎の領する地域に接しているのだから致し方の無いことでもあった。

 むしろ藤堂家中は先の汚名を雪がんと、一同乗り気で支度に取り組んでくれるのは有り難い。それは心地よい忙しさでもあった。


「遊び、ですか?」

「そうです」

「……能の稽古では何か足りませぬか」


 秀保の申し出に当惑した高虎は、思わず口を滑らせてしまった。根っからの武官である高虎は、文化芸事に疎いところがある。


「う~~ん。能や芸事は、それは遊びでは、無いんですよ。楽しげに見えるけどもね、これはれっきとしたことで……」

 誰に似たのか凝り性の秀保は、能を芸の道であると言う。

「いいですか、能というのは必ずしも私一人のものではないのです。能楽師たちの生業があって、能面を彫る職人や着物を拵える職人、舞台を手がける大工、沢山の人たちが居る。それに佐渡も舞ってみればわかるけれど、この舞いは足や腕の上手く力を抜いて、それでいて身体の芯には力を込めないといけない。これは侍の動きに通じるところもあると、私は思うのですよ」


 昔、何処かでそんな話を聞いたことがある。

 あれは物心ついた頃か、何かで中郡を訪れた浅井久政が斯様に申していた。まだ六角義賢が全盛の頃だ。


「一体、能に何の効用がありましょうや。舞う事など戦場には不要と存じまする」


 この言葉を誰が放ったのか、兄か姉か、多賀の人間か、尼子の者かは覚えていない。しかし京極六郎に唆され、六角に敗北した久政に対する嘲笑の言葉であったのは確かであろう。

 実直な久政はその言葉を受け止めた。そしてこう述べた。


「これは何ら戦場の役には立たぬ。だがな、心を整えるには有用であるし舞う動きは身体の深いところを刺激するのだ」


 後に聞けば、久政は死に臨み、一つ舞って魅せ、腹を切り果てたという。彼の寵臣で舞楽の師でもあった鶴松大夫は追い腹を切ったらしい。


「ええ、心得ております。佐渡守としては、珠には侍の遊びは如何に御座いましょうや」

「侍の遊び? 博打は打ちませんよ?」

「鷹狩りなどは如何に、と思うております。や、佐渡めも、なかなかやらぬものですが」

「鷹ですか!」


 高虎の提案に秀保は目を輝かせる。

 だが、秀保は近々鷹狩りを行うことを存じていた。内衆の紀の国人保田某から、良い鷹が手に入ったと知らされていたのだ。

 そして、高虎はその保田の父親から鷹を自慢されている。


「……何だか保田親子に仕組まれたみたいですね」

「まあ内衆共の渇望ということにしておきましょう」


 笑い合う二人に、宮内少輔が口を挟む。


「父上、せっかく黄門様を高野山まで御案内するのですから、どうでしょう、紀の国一円を巡見し、和州へ戻るという旅は如何御座いましょう」

「名案だがな宮内。それは大変なことだぞ」

「それは承知のことです。次代の者共に、父上の仕事というのを見せ、処務というものを心得て貰わねばなりませぬ」


 暫くの内に高吉も立派になってきた。流石は亡き宰相様が見込んだ逸材だ。彼自身、何度も和州と紀の国の道を通行した経験もあるから、言葉の通り若い内衆たちに同じ苦行を味わせてやりたいのだろう。高虎も、その気持ちは良くわかる。

 人間五十年。

 明くる年には齢四十であるから、四十九で横死した信長卿を思えばあと十年、長く生きても二十年ぐらいの人生であろう。かつて六角義賢が嫡男に家督を譲ったうえで出家し抜関斎承禎と号したのは、四十二歳の頃であった。

 それに対し秀保や宮内少輔、そして若い内衆たちは、あと三十年、四十年は生きる前途有望の侍である。今のうちから老としての仕事を、見せて学ばせておかねばなるまい。


「私は紀の国の土を踏み、空気を吸い、水も雲も、風も、何も知りません。なればこそ国の主として渡海によって、紀の国が如何相成って居るか、この目で確かめたい。そして、宮内少輔が申すように、佐渡の巡見路を辿ってみたい。斯様に思います」

「……然しながら、今は紀の国の衆は渡海の最中にて、大勢を迎える人数が居りませぬ。それにだ宮内。このような儀は事前に根回しをせねばならぬ。お主だけが手廻りで道を駆け、海をゆくぐらいなら問題は無い。然れど国の主を動かすのであれば、それに見合う人数が求められる。渡海の衆の村々に、それを課すは、為政者の横暴と思え」


 彼らの気持ちがわかるからこそ、苦言を呈するのは大人の役割だと高虎は心得ている。諫言せぬ臣は、存在意義に欠ける。


「まま、紀の国衆も遠からず帰ってくるのです。国を廻るのは、それからでも間に合いましょう。荘厳な熊野道、鮮やかな大海、岩に波しぶき。怪獣の跳躍等々、案内したい景色は多く御座います」

「それは仕方がありませんね。楽しみに待つとしましょう。」


 この時点で高虎には気懸かりなことがあった。

 それは羽田正親との打ち合わせの最中での事で、供養に行く道中で鷹狩りに興じて良いのか、との懸念である。

 常識的に考えれば高野山は聖域であるからして、清浄な場に鷹狩りの血を持ち込むのは如何と思った。

 慎重な高虎に対し正親は楽観的であった。


「入山する前に雪いでおけば、そこは大丈夫ではないかね。それに保田の翁だって、元は花王院なる高野山の坊さんだ。わかってやっておるだろうから、どうにかなるのではないかね」


 だが、どうしても気に掛かって仕方が無い。そこで高虎は幾人かの仏僧に問い合わせた。

 すると、やるならば下山後でしょう、と答えがあった。


 斯様にして旅支度は具体的な形となる。


 九月三日頃に伏見を出て、四日に中坊、郡山へ入る。両地で付き従う内衆を列に加え入れ、八木を経由、堺道を経て高野山へ向かう。

 高野山では青厳寺に数日滞在し祖母天瑞院の供養を行う。

 その後下山し、某村で鷹狩りを行い、夜半郡山へ戻る。そのような計画である。



 同寺の英俊は自記にて

「中納言高野トテ、中坊へ来了(多聞院日記・興福寺写本・辻善之助編)」

「中納言鷹野トテ、中坊へ来了(多聞院日記略・史料綜覧)」

 と記した。


 伏見を出た頃には、そこまでの列では無かったのだが、方々で人数を列に吸収したため、中坊を出る頃には、それなりに見応えの或る隊列となり、秀保や一高に歓声が飛ぶ。両人共に一々手を振り返して答えるものだから、奈良町はさながら祭りの如き賑わいであった。



「留守居の皆々には迷惑をかけます。その分、何処かで皆々が休めるように取り計らう所存ですので、どうか宜しくお願い致します」


 郡山に入ると秀保は横浜や小堀といった留守居の衆に挨拶をした。

 丁重な秀保の仁徳か、高虎の威厳に依るのか、こうした行いを誰も咎むる者は無い。

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