第23話・文禄三年の政変(二)近衛信輔の配流

 二つ目の事件が起きたのは、間もなくのことだった。

 四月十一日、大坂方は聚楽第に対し、ある申し入れを行った。前右大臣近衛信輔さきのうだいじんこのえのぶすけの配流についての申し入れである。

 十二日には配流を右大臣菊亭晴季、勧修寺晴豊、中山親綱の両大納言へ告げる朱印状が、十三日には前田玄以と木下吉隆を使者に天皇へ奏上される。

 誰も彼も信輔の配流を止めることは無く、ただ淡々と行われた。


 信輔は父である龍山と叔父の道澄から配流を告げられた。近衛龍山、元は近衛前久さきひさという戦国末期に暗躍した曲者であるが、果たしてどのようなやり取りがあったのか定かでは無い。

 信輔の配流先は近衛家代々の家領のある薩摩国坊津で、家の荘園地でもあった。

 そうした関係で屋敷から東寺口までは薩摩の島津忠恒に送られ、東寺口から淀までは知音の長岡幽斎によって送られた。幽斎は同じく知音の里村紹巴と共に龍山、道澄へ配流を命じることを、秀吉・秀次から指示されていたという。

 多聞院英俊は五月七日、近衛殿は海上にて生害との風聞を記す。しかし薩摩の島津は往古より近衛家と昵懇という事もあり、慶長元年(一五九六)七月に薩摩を発つまで、信輔は悠々の暮らしを過ごしたとされる。(ここまで『流浪の戦国貴族近衛前久・谷口研語』による)


 そして近衛信輔が薩摩へ向かった明くる日、四月十五日に奉行前田民部卿法印玄以、長束大蔵大輔おおくらのたいふ正家、石田治部少輔三成、増田右衛門尉長盛から、四月二十一日に御ひろい様を伏見へ御移徙おわたましすると通告が成された。



「いやはや、このみやこは何時の日も騒がしうて、飽きひんもんやわ」

「そは言いますけどな兄上よ、わしらも何時累いつるいが及ぶかわからへんもんやて」

 そらそやな、と笑いながら徳利を飲み干す。


 近衛卿の配流から間もなくのこと、高虎は奈良での礼がしたいと日野卿に呼び出された。

 軽いご挨拶程度のつもりだったが、彼らは否応なしに酒を注ぐので困った。高虎は酒を嗜まない珍しい男であった。

 この日は日野輝資の実弟で広橋家を継いだ中納言広橋兼勝が居た。

 間近で拝するのは初めてではあるが、何度か遠巻きに眺めたことがある。逆に兼勝本人は、かねて噂は聞いていたし大きうてようわかる、と笑われた。


「して、この席にそれがし藤堂佐渡守が呼び出されるは、如何なる儀に候や」

「まあ呑みなはれや佐渡守殿。この酒はよう出来た酒やでな、何ちゅうたって、この酒麹さけこうじの役(税)は、その昔広橋の家が代々担っておってな。京中馴染みの酒屋、ええ酒屋を知っとる。せやからな、この酒は上物じょうもんやで、佐渡守殿に呑まんちゅう選択肢はありゃしまへんで」

「然れど広橋様、某は酒を嗜まぬ性分にて、御容赦の程をば」

「まあ苛めてやるな中納言かねかつ。人には向き不向きというものがあるから、仕方の無いこと。無理は強いてはならぬ」


 助け船を出す輝資卿にかたじけないと思う高虎であったが、側に控える速水なる広橋の侍は「高虎の不興を買って両殿下の耳に入れば、次に配流されるのは自分たちにあると、輝資は考えた」と、その心中を見抜いていた。だからこそ、流れるように近衛信輔への軽口を始める兄弟は、相も変わらず上手いものであると感じる。


「まあな御殿おとのはんも、やり過ぎたんやで。兄者、そうは思わんか」

「せやのぉ。親父おとうはんの龍山様はあっちゃこっちゃ行って迷惑なおっさんやったけど、御殿はんも変なところで翁に似てもうたな」


 龍山翁近衛前久は、永禄初頭に越後上杉と親しく、遂には何もかも放り捨て、東国で武家になろうと戦った男だ。更には元亀争乱では足利義昭と対立し畿内や丹波を流浪。本能寺の変では明智方に通じたかのような動きを見せたため織田信孝と秀吉に疎まれ醍醐山へ登り剃髪のうえ龍山を名乗ると、次に遠江の徳川家康を頼った。しばらくして帰洛するも、小牧長久手の戦いが勃発し奈良へ出奔する。ともかく身のこなしが軽い男であった。


 そもそも輝資・兼勝兄弟の父広橋国光は、こうした奔放な前久にあてられて、自らも三好政権に参画した公家であった。遂には松永久秀の盟友・義兄としての立ち位置をつかみ取り、その居城多聞山城に暮らすほどであった。輝資・兼勝兄弟も幼い頃はそのように暮らしていた。

 だが国光は三好三人衆たちが推戴する足利義栄政権とは距離を置き、足利義昭政権の発足に伴い帰洛するも、間もなく没してしまう。

 遺された兄弟は、本来は代々仕える近衛家を頼りたいものであったが、自由奔放で彼方此方で恨みを買う近衛前久のせいで、頼るものにも頼ることが出来ず、手探りで在京公家の生き方を模索せざるを得なかった。

 そうしたところで兄弟は年も近い信輔に期待をしたが、彼は関白の位を巡り口論を起こし、秀吉に関白の位を掠め取られてしまう。更に秀次に対し「若輩無知」と批判したり、内大臣拝賀の列を巡って口を出して、知人であった前田玄以と論争を起こし、仲が劣悪になっていた。(ここまで『流浪の戦国貴族近衛前久・谷口研語』による)


「どっちが若輩無知なんやろな。あの御方は何かにつけて、広橋は我が家来、と言い寄る。家来だと思い従わせたいのならば、それに相応しい、主たる振る舞いを見せねばならぬ。しかし彼方此方と諍いを起こし、挙げ句家を捨て武家奉公したいと名護屋へ下向する。ほんまにようやりますわ」

「それも二回もなあ!」


 興福寺多聞院の英俊は、そうした信輔の行動について「気違い沙汰」と自記に記している。

 全く話を聞いていれば同情の余地も無い。しかしこれは兄弟の主観であり、様々醜聞を漏れ聞いていたとしても話半分に思っていた高虎にとっては、何処までがまことであるか困惑するところがあった。

 一体何のために自分は呼び出されたのか。もしや自分を通すことで、自らの保身、例えば全て悪いのは近衛卿ただ一人の振るまいであるから、広橋へ累が及ばぬように画策しているのか。

 単純に虫の居所が悪いから、部外者の高虎を呼びつけて話をしているのか。

 全く判断がつかぬことには自身を苛つかせ、ついつい酒を舐める。


「私めも数多あまたの狂い人を見てきましたが、やはり何かしらの要因がありて狂うと思うのです。それでいけば近衛様御親子には一体何がそうさせ給うか。お二方は、そうした近衛卿の御気持ちに寄り添わず貶すだけでは、これは如何にと」


 高揚する意識のなかに冷静な自己があり、果たして一体何を言うておるのかと叱る。だがもはや言うてしまったことは取り消す、撤回することなどは出来ずにいた。宴席であっても己の言葉には責任を持たねばならぬ。


「そらな龍山翁おっさんの頃は時代が悪かった。あの頃は御所は無く、京兆家も内乱に継ぐ内乱。仕方の無いものであった。帰洛して直ぐに義輝卿くぼうはんが襲われ、龍山様の叔母上で義輝卿の御生母おかあはんは火に身を投げた。大変な時代を過ごしてこられた、あの御方なりの生き方なのであろう」

 そのように輝資は扇ぐ。


「それでいくとだ! 御殿はんは菊亭卿が悪い!」

「ああ、そや菊亭や。彼奴は悪逆の徒ぞ」


 兼勝の言葉に輝資は同調する。

 天正十三年(一五八五)の関白相論の際、菊亭晴季卿の活躍により秀吉は関白の地位に有りつけたのであるが、どうやらこの兄弟はそれをよく思っていない節がある。

「あの男は大人しく慎ましやかに生きておれば良いものを、何や娘御を今の関白さんに嫁がせおってからに」

「明らかに増長しておる。倅はええ男なんに、菊亭とあの娘や。何かにつけて銭金銭金。我等は誰に仕えておるのか分もわきまえず、武家の言いなりに成り下がりよって。今度の配流は御上からの勅勘であったが、どうせあの男があること無いことを吹き込んだに違いあるまい」


「それでいくとや佐渡守殿。和州家に関しておもろい話があるんやけども、聞きたいか?」


 ふと輝資は高虎の答えを聞くまでも無く、話を始めた。

 彼の幅広い人脈の中には、北野社の普請に関わる大工が居るらしい。

 彼の者は豊臣家中に知己があったが、或る日を境に居所が不明となりて、困りかねた彼は何かのためにと、輝資へ話を持ち込んだ。


「それからまあ伝手で色々探っておったらな、どうもその男は銀子をくすねてしもうてな、それが奉行の知るところとなり彼奴は知行を半分召し上げられた。その後の行方はどうにもわからんかったのだが」

「それで、その者と我等が和州家との関わり合いというものは?」

「わからんか?」

「もしや銀子は……」

「左様、和州様が亡き兄上たる宰相様へ預けていた銀子よ」


 聚楽第の重臣駒井中務少輔重勝は文禄二年(一五九三)閏九月廿八日、次のように記録を付けている。

「山田又右衛門知行半分被召上候、是ハ名護やにて大和中納言様銀子宰相殿被預置候を、私ニ而取与、三郎殿江進之候事、御折檻之由」


 山田又右衛門、諱を吉成という男は、小吉兄こと豊臣秀勝に仕えていたことでも名前が遺る。況や秀勝は岐阜宰相の異名があったから、この宰相とは山田の主にして秀保の兄である秀勝であることは間違いなかろう。

 高虎には全く記憶が無い。

 くらくらと目が回る。はては酒の酔いか。否、これは降り積もり難題を頭が受け入れるのを拒んだのである。

 豊臣家の跡目、奈良町、百人斬り、銀子。一体何から手をつけるべきなのか。

 問題だらけのこの日々に、高虎は重圧から抜け出す術など何も持ち得ていない。

 高虎は何も知らなかったのである。

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