第21話・三月二十日の変事、そして再びの算用

 明くる日、大和へ急いで帰国した高虎が直面したのは、人の噂の早いものであった。

 既に奈良町を中心に、城の移転の話で持ちきりだ。

 城作りは銭と人が大きく動く。僧侶から商人、木っ端侍に至るまで、聡い者もそうでない者も皆が行く末を案じ、そして金儲けを窺う者もあった。


「こりゃ、如何いかにするかね」

 郡山に帰城するなり、杉若に声をかけられた。彼も丁度紀州から上ってきたばかりで、困惑しきっている。子息や手塩にかけて育てた家臣団が再びの渡海を控える中で、親心に無駄な心配をかけたくないと思っていた。無論、それは高虎も同じことだ。


「兎角、留守居の衆に子細を打ち明ける他ありませぬ。下手に隠しても、疑心が生まれる。ならば開いておきたい」

「抗うかね」

「や、抗うことは無けれど、上手いこと折り合いはつけたいと」

「律儀者だな」

「太閤殿下と若君に両属の御身、一つを選ぶわけには参りませぬ。上手いこと、こう郡山を残そうと思案をしておるところ」


 杉若との会話と同じようなことを留守居の大身たいしんから小身しょうしんに打ち明ける。

 全ては唐突な物言いであること、把握している主な原因はここ数年郡山で病が相次いでいること、そして聚楽第側も反対していないこと。

 何よりも高虎自身は全ての移転に反対であり、特に奈良町との関係を荒立てるような真似には応じることはできず、様々な手を尽くし誠意を以て反対すると宣言した。

 その上で、奈良町を刺激しない、無闇に秀吉方ならびに聚楽第方といさかいを起こさないこと、何かあるなら小堀か横浜、桑山か羽田藤堂の家老・宿老を通せと改めて厳命した。

 何かがあれば、その咎は自らが負うという覚悟である。


 急ぎの会合を終えた後、再び上京するために急いでいると多賀秀種に呼び止められた。


「佐州殿」

「雲州殿、如何に」


「前に殿下が呟いたことを思い出しまして」

「はて」

「かように京都みやこも伏見もすべて土で構えたのだから、他国も是非に構えるべき也、と」


 総構そうがまえ。

 城を外郭、つまりは城下町から土塁などで囲ってしまうもので、古くは荒木村重が有岡で、北条氏が小田原で構えたことで有名だ。

 畿内でも大坂、聚楽、そして建造が進む伏見の城は総構えとなっているように、太閤殿下の心に響くものがあったのだろう。

 高虎自身も総構えの利こそ認めているが、郡山に構えることは今ひとつの心持ちであった。何よりも城が出来上がった今、郡山に住み給えと募った町人を追い出して土塁を構えるのは誠実では無いし、亡き宰相ひでなが様の遺志にそぐわない。それに総構えは奈良町を刺激する可能性もある。

 ただ自身が考えることは太閤が真っ先に考えるところと思え、ならばこその城移築命令であったのではないか。どちらにせよ何が目的であるのか、確たる証拠は無い。証拠は無いが自身を納得させるためには、秀種の助言は良かった。



 同じ頃、これは三月二十日の事であるが、洛中で変事が起きた。

 太閤秀吉は、唐突に関白秀次と聚楽第が管理する「御蔵入地おくらいりち」の算用を欲した。

 御蔵入地とは政権の直轄領で、この当時の代表的事例には尾張国内に伊勢国内、高島郡内などがあった。謂わば政権の財政を下支えする地である。

 太閤側は前年より秀次と父が経営する尾張に介入したが、いよいよ御蔵入地にも手を出した。元々は秀次の関白就任に際して譲渡したものであるから、実権を元に戻そうと試みたのだろうか。

 更に淀城の設備に加え「関白様御書院」を伏見に移築するために破却することも通達する。淀城は秀次附の重臣木村常陸の居城である。彼は本来であれば前年に甲州へ転じた浅野長吉から若狭を引き継ぐことになっていたが、諸般の事情から若狭入りが立ち消えとなり、越前から淀へ移されていた。「関白様御書院」というのは聚楽第の書院を指すのだろうか。

 

 ここに豊臣政権が動いたのである。

 

 こうした政権の地殻変動は高虎を更に悩ませる。

 確かに太閤と関白の二重権力が生む軋轢には帰朝以来警戒していたものだが、よもやこうした時期に起きるとは想像もしていなかった。そして郡山移城についても、太閤殿下が大和を試しているのではないかと訝しんでしまう。

 何れにせよ繊細で高度な判断が求められる。

 しかし若い秀保にも、それを支える高虎も羽田も、決することができなかった。国の行く末を左右する重大な決断は、不可能であった。


 それからの数日、彼ら大和主従は注意深く推移を見守るしか無く、郡山のことも内々に伺うほか無かった。表だって反対はせず、菱屋ら商人の伝手を用いて「大和衆は異議を唱えているらしい」と囁くに留まった。郡山の留守居に対し、あの様に言ってしまった申し訳が高虎の内面を刺していく。

 穏やかならずは高虎だけでは無い。秀保や桑山法印、羽田正親たちにとって、もどかしい時間が続く。その時間は遂に七日を超えていた。


 事が動いたのは二十八日の話だ。

『駒井日記』によれば、この日太閤は大和算用欲する旨を所司代前田玄以を通し秀次・聚楽第側へ直々に申し上げたとある。

 これを受けて二十九日には、秀保に対し桑山法印(重晴)・大蔵法印(横浜一庵)・羽田長門守の右三名と大和の算用帳を持ち登城せよとの朱印状が発行された。また紀州に下向した高虎に対しても同様の朱印状が発行されたらしい。

 そして聚楽第方の御蔵入算用の一件から、日が浅いうちに大和の算用を探るという発案は何に依るものなのか定かでは無い。同月に郡山移城の話が出ている以上、そこに関連はあるのかもしれない。しかし堀越祐一氏が『豊臣政権の権力構造』で述べるように、秀保の後見人こそ兄で関白の秀次である。秀吉側には兄弟の間を切り離すとの疑いが持たれても致し方なかろう。


 この時代を代表する博多の茶人神屋宗湛の日記を読むと、秀保はちょうど二十九日に、畿内に上っていた宗湛と茶会を行っている。その場所について大正十年の『麻渓山本寛編』では大坂、戦後の『茶道古典全集版』では場所が書かれていないため、畿内何処で行われたのか定かでは無い。恐らく大坂か洛中や伏見界隈であろう。

 秀保と宗湛は名護屋城で二度の茶会で面識があるから、旧交を温める茶会だろうか。


「御歴々がお忙しいとのことで、この茶会を催すか迷いましたが、何とか中納言様だけでも御越しになられ、真に嬉しきこと」

「ご心配のほど申し訳なく存じます。どうにも忙しいもので、何とか内衆に無理を言って御師匠との時間を取らせた次第にて」

 この日、秀保は名物「楢柴肩衝」を持参していた。これは元々宗湛の先輩で同じ博多の茶人島井宗室が秀吉に献上し、秀吉から秀保に下賜されたものだ。

 本来であれば大和の宿老たちを招いて、博多との商いや渡海の苦労話に花を咲かせるつもりであったが、城の一件で台無しになってしまった。


「いやはや藤堂佐渡守殿と、ついぞ対面できると楽しみにしておりましたが。こればかりは致し方ないものでしょう」

「今しがた、あの者は算用帳を取りに紀州の南東へ下向しております。まあ茶会には疎いもので呼んでも来るかと思っては居りましたが。ついでに言えば桑山法印は和歌山へ、羽長州うちょうしゅうは大和から北十津川にかけてを回っております」

 この時代、高虎が茶会に顔を出した記録というのは僅かで、今となっては何故高虎は茶会と無縁であったのか知るよしも無い。

 秀保の他に大和で宗湛と面識があるのは羽田と池田、疋田ぐらいだ。宗湛も高虎や桑山といった宿老、横浜や小堀といった家老と会う場が、今後のためにも欲しかった。


「ともあれです。此方から働きかければ、何方からも向こうに与したと疑いをかけられてしまう。そのような状況にある中で伯父、太閤殿下側から声をかけていただいた。これならば兄関白も文句を言うことは出来ますまい」

「しかし斯様にまで御兄弟の先行き悪しからずとは、宜しくはありませんな」


 今しがた秀保は兄弟の仲というもの良し悪しがわからなかった。思い返せば身近な兄弟、例えば秀吉秀長兄弟であったり、尾藤兄弟、石田兄弟、保田兄弟など、兄弟仲悪しきものというのは例が無かった。だからこそ、若い彼にとって前例の無い「兄との不和」は困ったものだ。


「もちろん郡山の一件だって此方おとうと側から言うべきことは御座います。しかしながらいたずらに反発しては何を言われるかわかりませぬから。もどかしいですが兄に嫌味を言われるぐらいなら、今は両殿下の間で解決を図るが先決と見え、そこに我らが関わる余地は無かったのです。それが私ができる最大の誠心と言えましょう」


 道を知らぬ秀保にとって、まつりごとの話をしながら入れる茶という物は、正しいのか疑問である。だが今の彼には、己にできることに全力を注ぐしか無かった。

きお手前」

「これで宜しいか御師匠。少し、心の濁りというものが混ざっては」

「いえ。苦きこと未だ心熟こころじゅくさずと見え、なればこそ若き主、そこにある御姿のままで善きお手前。斯様に申し上げた次第」


 和州の算用が整ったのは月末のことである。

『駒井日記』には四月朔日に、大和の算用について年寄共が差し上げ中納言様は二日に上洛すると御返書が来た、と記されている。

 「年寄共」とは宿老衆を指すもので、彼らとその内衆たちは大和や紀州の野山を早馬飛ばし、忙しなく三日ほどで回収を終えた。


 しかし高虎たち大和宿老衆が苦労して用意した算用帳が、その後の政権運営でどのように役立てられたのか、この時はまだ誰にもわからなかった。


 この三月二十日の出来事を境に、大坂と伏見の太閤秀吉、聚楽第の関白秀次、大和中納言秀保の三人の関係は、誰もが想像もしていなかった方向へと進む。

 藤堂佐渡守高虎を生温い春風が包み込む。この国の行く末に対するやり場の無い不安そして違和感が、妙な気怠さを生む。「人は季節の変わり目に不調が訪れる」と奈良町人は呟く。


「不調となった人をどうにかする術を持つ仁は居る。しかしこの国そのものが不調となったとき、その術を持つ仁などあったであろうか」


 高虎の問いに、物言わぬ古都の風が通りすぎた。

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