第19話・於岩の祝宴

 三月二日、一行は山を降り和州太田に至る。

 関白秀次の側近駒井中務少輔は、太閤殿下が高野参詣に向かうので、関白は当地にて太閤殿下へ暇を乞うたと最側近駒井重勝は日記に記す。

 この地が何処であるか定かでは無いが、最大の候補は現在の葛城市太田と考えられる。ここからしばらく進めば堺への竹内街道が始まる。竹内街道で国を越え河内に入ると直ぐの古市には高野街道が通るから、関白たちはわざわざ太田まで従い、同地にて亡き母の供養が為に高野へ向かう太閤殿下を見送り、自分たちは婚宴の為に郡山へ歩を進めるのである。


 郡山へ到着した一行とは秀次本人と秀俊の名で親しまれる丹波中納言、そして高虎たち大和衆が盛り立てる中納言豊臣秀保だ。この祝宴に関わる駒井日記の記述を見るに、太閤秀吉正室と浅野長吉の養母である七曲殿も居ることから純粋な木下・羽柴家の宴である。事実、『増補駒井日記』を校訂した藤田恒春氏は付随する内容として、翌日に能を舞った下間仲康の記述「太閤様御意(能之留帳)」を引用するように、本来であればこの目出度い席に太閤殿下の臨席があった筈では無いか。しかし太閤殿下は郡山では無く高野山にあった。

 これを筆者は、吉野の雨による日延べを受けての「ダブルブッキング」で、太閤殿下は母の供養を優先したと解釈している。


 祝宴の謎には「誰の祝宴であるのか」というものもある。

 この点を興福寺多聞院の英俊は「金吾殿へ祝言ノ儀式」「大納言殿ノソハムスメ也、秋篠ノ沙也」と記す。また

 つまり丹波中納言と秀長側室の娘の祝言というものだ。

 秀長の実子は二人、秀保の妻おみやと、おきくのみであるが、おきくが金吾へ嫁いだとされる事実は見られないが、縁組みの案は存在したのかもしれない。

 先の下間仲康は「大和中納言殿と丹波中納言殿御縁辺ごえんぺん之御祝儀」と記しており、秀保と秀俊の間で何かしらの関係性の変化が生じた可能性は高いと言える。


 一方で『岡山県史第二十五巻(津山藩文書)』に収まる「森家先代実録」には、森忠政の後室は文禄三年春に縁組みされた「秀吉の姪・秀長の息女(養女)」たる「於岩」と記されている。

 筆者は多聞院日記の記述よりも、二次史料である後者の説を採った。


 翌三日は郡山城の能舞台で能が行われた。

 秀保も秀次も秀俊も舞った。だが諸人誰しもが、太閤殿下の舞を所望していたので、この三人の能は満足のいくものでは無かった。

 それでも懸命に舞う姿は、見る人の心に響くものがあったのではないかと高虎は思う。概ね満足といった感であり、何よりも森家に嫁ぐ於岩の姉御にとっても、兄弟分の舞う姿というのは心に響いたらしく、後で控えの間に行くと彼女は高虎の妻の胸に抱かれて泣いていた。


 明くる日、関白秀次が郡山城の高虎屋敷を訪ねた。

 帰洛の前に此度の吉野花見や郡山城祝宴の労を労う為である。

 古来より貴人を自らの屋敷で持て成すのは光栄なものであり、信頼の表れでもある。時に夜話で藤堂平介した話によれば、初代三河入道景盛の主人広橋兼宣は景盛の屋敷で朝食を食べたこともあるらしい。まさに藤堂景盛は広橋兼宣に信頼された名誉の話である。


 しかし秀次と高虎の間柄は、何処まで信頼があったのか定かでは無い。

 何よりも最近の聚楽第と郡山の間の信頼は損なわれつつあり、更に伏見城事件の一件もあってか妙な緊張感が漂っていた。

 新七郎は家中の者を集め、くれぐれも粗相の無いように、何を言われても言い返すなと厳命した。今ここで諍いを起こすのは祝い事に水を差すのであるから、当然の行いである。


「佐渡守、此度は妹御が為の祝宴、誠見事な差配。」

「有り難き御言葉にて、此度関白殿下の御臨席賜ること我等大和衆一同、祝着至極に存じ奉りまする」

「うむ、これからも弟を盛り立ててくれ」


「さて、此度佐渡守が屋敷に来たのは、幾つか話があっての事だ。其方そなた、今に太閤殿下を如何思う」


 これはまた深慮要する問いである。

 どうも見聞するに聚楽第は大坂・伏見に対して、幾つか思うところがあるらしい。神経質で気の病に罹る秀次にかける言葉であれば、甘くとも秀次の心に適う言葉をかけるのが良いのかもしれない。しかし、それはそれで媚びを売っているようで高虎は好きではない。


「此度の金吾と弟の御縁辺とは如何いかに? 妹御と金吾の縁談でも無ければ、太閤殿下は如何にお考えであったのか理解が出来ぬ。金吾は太閤殿下の養子であるが、ここに弟との御縁辺となれば、何ぞ弟を太閤殿下は養子にでも為さるおつもりであったのか」


 結局秀次は高虎が答えるよりも先に捲し立てる。


「まあ良いさ。雨は天の答えで、結局は成り得ぬ事であったのだ。それよりもだ佐渡守」

「はぁ」

「貴様、何がやりたいだ。妹御の相手は羽柴右近大夫であるが、何故彼奴きゃつを選んだ」


「はっ、心豊かな御方に相応しき武人と心得ての事に御座います」

「そうではないだろう? 右近大夫は、我が兄弟吉田侍従の相婿であったのだぞ。それを佐渡守、貴様は伺いも立てぬ振る舞い、これは如何に」


 時に秀次の正室若御前の兄は吉田侍従池田照政であるが、照政が当時娶っていた室は中川清秀の娘であり、亡くなった忠政の前妻とは姉妹の間柄であった。


「恐れながら、当方は然るべき御仁と申し上げ相談した次第にて、何よりも中川の御家中にも話はつけて御座います」


 高虎と中川家は天正六年以来の付き合いであり、既に北政所を介して話をつけている。


「貴様は羽柴右近大夫が如何なる男かわかって居るのか?」

「はあ、武門の家に生まれた良き武人と心得ておりまするが」


「あの男、何かにつけて川中島川中島とせっついて来る。義兄や中川の家にも、早う兄の旧領川中島を寄越せと催促して回る品性劣る男ぞ。彼奴を我が一門に加えるとは如何?」

「然は、存じ上げませなんだ。然れど姫君は包愛の女子にて、左様な無骨者もやがては洗練されていきましょう」


 ひとしきり吐き出していくと秀次は満足したように、帰洛の途についた。

 側近白井備後守が、どうもばつの悪そうな顔して出て行くので高虎は気になって引き留めた。



「おい権太夫、ちょっと良いか」

「いやはや此度は我が主が申し訳ない……」

「いやわかっておるなら良いのだ。しかしまだまだ憂いの顔があるが、如何いかん

「あいや、高野山の太閤殿下の御機嫌がな、大政所様の法要に参じなかった事を咎められやせぬか、家中案じて居るのだ」

「それは御苦労だな、まあ太閤殿下の御意で行われた宴だ。そこまで案ずる事は無かろうぞ」

「聞いてきてくれないか?」

「えっ?」


 三月五日、羽田長門守正親は秀保の使者として祝宴が無事終了した報告と御礼を兼ねて太閤殿下を訪ねた。帰ってきた羽田の話に依れば太閤殿下はその日の末刻(午後二時)には山を降り兵庫の寺に居たという。

 兵庫とは此方も定かでは無いが、今の橋本市にある「下兵庫駅」の近辺であろうか。

 そのようにして行って戻ってきた羽田から太閤殿下の機嫌を聞くと、即座に聚楽第へ使者を立てた。その使者が六日に聚楽第に到着し、駒井重勝は斯くの如く記したのである。


「藤堂佐渡方より於高野 太閤様御機嫌之様子申来」


 幸いにも太閤殿下は機嫌が良かった。しかし御機嫌の様子を聞いた聚楽第方は如何に感じたのか、また太閤殿下が秀保と秀俊の間にどのような「御縁辺」を企てていたのかを知る手立ては無い。

 また関白が去った直後は、郡山の城中に大和衆の悪しき空気が漂っていたが、宿老衆の働きと行事の片付けの多忙で、そうした空気は二日の内に消えて無くなった。


 片付けが一段落した日の晩、高虎は妻の膝の上に居た。

 こうも忙しいと、武人の高虎の頭は上手く働かなくなる。だからこそ妻の膝の上で、考えを纏めるのだ。


「しかし於岩様が出立すると寂しくなるな。大坂や京に上れば、変わらず会えるものではあるが」

「ねえ。ずっと一緒に居たものね」


 すると妻は、宴の後に於岩の姉御が涙を流した時の話をしてくれた。

 思い返せば彼女は織田家の親戚筋に生まれ、羽柴家の親戚筋である木下家に嫁いできた。

 あの涙は、感謝と寂しさと、そして外から来た彼女が「羽柴の家族」として受け入れてもらえたことへの、嬉しさを越えた表現しがたい感情の、清らかな涙であったという。

 その話を聞いた高虎も一高も、近侍たちも思わず目頭が熱くなってしまった。


「私めなどの為に、ここまでしてくださるとは」

「貴女はいつも盛り立ててくれた。男女を問わず、老いも若きも、貴賤も問わず、それが貴女の仁の徳であったのでしょう」



 豊臣家の人々に愛された於岩の姉御は嫁ぎ先の森家でも愛された。

 忠政とは共に先の妻、先の夫を亡くした同士という事で気も合ったし、一族で最も苛烈な夫に心を痛めながらも、森家の人々が手を汚さぬ事を祈願して、年の暮れには「きらず粥」を振る舞うことで家中を諭した。

 また於岩は嫁いだ後も妹たちへの愛は変わらず、忠政との間には二男三女をもうけた。特に一番目と二番目の娘にはそれぞれ「おみや」「おきく」と名付けて、妹たち同様に愛を注いだ。

 残念ながら彼女は十二年後の慶長十二年(一六〇七)に三十三歳で亡くなってしまい、嫡男であった忠広も父に先立ち早逝し跡を継ぐ事は無かった。


 忠広の跡を継いだのは重臣で一族の関成次の長子長継であるが、彼の母は忠政が妾に生ませた子であった。

 長継の妻は「おみや」の娘と言われている。

 その事もあり、毎年盆の時期になると於岩を偲び「万灯会」として津山の町から墓所にまで灯籠で彩られたそうだ。この行事は忠政の五十回忌まで続けられたそうなので、於岩が亡くなってから八十年近くも続けられた事になる。

 まさに於岩の仁徳であった。

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