第6話・妻の膝の上で

「やはり草臥くたびれた時は、妻に甘えるに限る」


 髭をよく蓄えた武人が、色白く細身の女人にょにんに心身を委ねている。大和豊臣家の重臣藤堂佐渡守さどのかみ高虎その人だ。

 天下無双に数えられる猛将は今、たった一人の妻に癒やしを求めている。その姿を見た女房のみやこは、

「斯様な御姿、家中には見せられませぬなあ」

 と吹き出していた。少しばかり自尊心を持つ高虎は、軽口の一つ二つ言われると、ついつい脇差に手をかけようとしてしまう。

 しかしながら京様みやこさまと家中で親しまれる彼女には、何も思う事はない。それは彼女が信重の未亡人である事に依る。


「御帰陣の行列も、また伽美きゃびな行列と伺いました」

「ああ、空の具合も良くはない中で、奈良町人ならまちびとの良き歓待を受けた」

 

 十月十五日の帰陣行列は大きな盛り上がりを見せた。

 先導に顔の良い若武者を揃え、仙丸や桑山小藤太が馬に乗る。そして行列の中程に馬印と秀保、その背後には高虎を筆頭に老衆が並ぶ。

 そこで一つ、秀保が右手を高々と掲げ、手を振ってみせると、町人たちの歓呼で波が出来た。思わず高虎は、かつて織田信重も参加した御馬揃や、長崎で教わった遠き国の「ふえすてはる」の行列を想像してしまった。見たことも無いのに、聞いた話は今目の前にある事を指すのだろう、と。



「陣中にて、奈良町は廃れたと聞き及んでいたが。いやはや出陣する以前より、大いに盛り上がっていたように覚えたな」

「それもこれも、中納言様が正月の大詣おおもうでをお許しになられたからこそに御座いましょう。ようやく大和国やまとのくにも落ち着きを取り戻す段に入ったかと」

 

 在国の窮状を鑑みた秀保は、応急的な策として正月大詣を推奨し、大いに商え、大いに楽しめとの札を出させた。

 この秀保の制札の甲斐もあってか、正月の大詣は大いに盛り上がった。井上源五が言うには、二か国中の商人が奈良町に集まり、近江から来た曲芸師が業前わざまえを披露するなど、久方ぶりの活況であったという。

 一行が中坊なかのぼうで休んでいると、町衆が大詣許可の御礼に駆けつける。その御礼の行列も凄まじいものであった。あまりにも膨大であるから、仕方が無いから郡山で御礼を受け付けることを急遽定めた。


 これがいけなかった。

 ただでさえ寺門じもんの御礼参りが予定されているところに、心ある商人、町人の訪問を重ねる意味は酷である。


 猛将が一人疲れきっているのは、訪問客の応対をすべて担った事に依る。

 無論、横浜や小堀といった留守居重臣の配下たちも慌ただしく動き回っていたが、客人を主のもとへ案内するために立ち座り、それぞれの贈物を一瞬で覚え秀保に奏上する。

 一連を朝から晩まで繰り返す。この行事は数多の鎗場以上に、達成感を通り越し疲労だけが残る。


「達成感。ならば今し方、斯様にさいの膝の上に居ります他に、何がありましょうや」

 

 妻の口ぶりに、やや棘を感じた高虎は思わず目をそちらへ向けた。

 改めて見つめると、その顔色には苦労が滲む。


 天正十七年(一五八九)九月、一万石以上の大名衆はその妻も含めて、三年間の在京が命じられた。高虎も石高が一万石以上であるから、妻を伴って在京していた。

 しかし今の秀保体制になってからは、郡山での政務が増えた。その為に妻も郡山の館に呼び寄せ、遂には在陣の留守をも任せてしまった。


「長らく、其方そなたには世話をかけてしまった」

「まあ、御前様おまえさまから左様な御言葉を聞ける日が来るとは。誰ぞ京女きょうおんなの入れ知恵かしら?」


 冗談を言った彼女であったが、すっと息を吸うと、絞り出すように語る。



「御前様は、何時まで郡山に居りましょうや」

「や、明日には粉河へ入り、そこから紀州を廻り、赤木から北山を抜けて、国内を巡検する所存だ」

「忙しい御方。優れたる内衆、新七郎殿や舅様に任せておけば宜しいでしょうに」

「いやな、己の目で確かめねば、わからぬ事もあるのだ」


「悪い癖ね。昔から、御前様のような大きな方が歩いても、民の皆々は怯えるだけです」


 そして妻は悩みを吐露した。

 高虎の留守を守るなかで、彼女の元には北山の罪人に纏わる報告が届く。

 流石に罪人や首の一つ一つが届くわけでは無い。それでも某の理由により捕らえた北山人を、赤木や粉河で裁断、そのまま処刑を行った旨を認めた報告状が届く、といった流れである。

 一連の流れは出陣前に高虎が、妻をはじめ郡山留守居の女房たちを思いやって定めた掟である。裁断と処刑は父白雲はくうん虎高や、新七郎、今井次郎といった留守居の重臣が執り行う。

 しかし彼の目論見は外れた。その積み重なった書状の数だけ、妻や女房衆の心は傷つけられていた。


 妻の悩みはそれだけでは無い。


「この二年、生きた心地が致しませんでした。留守居森半助殿の事、小堀殿の患い、奈良町の騒動。どれも、次はわらわたちに降りかかるのではないかと、心細く。ただただ心細く、早う戦なぞ終わって欲しいと、武家の妻になって十二年、はじめて感じました」

 多聞院の僧英俊の記録『多聞院日記』には、唐入り開始前後の異変が克明に記録されている。 

 天正二十年(一五九二)二月二十六日、まずは秀保本隊の出陣が遅れた。これはちょっとした手違いが積み重なった結果であったが、翌日に大きな地震が発生し雨も降れば、怪奇を覚えるのは自然だろう。

 そして五月七日、郡山城留守居衆の一人である森半介が突如狂い、自ら子を刺し殺すと自らも腹を切り果てた。

 この一件に留守居の重臣たる横浜一晏、小堀新助、桑山重晴は責任を取らせるべく、森の女房を磔で処した。 

 同じ日には中坊に勤める孫右衛門の中間が、宿所で自ら命を絶った。

 一連の事件の収拾に追われた奉行頭の小堀新助は、それから間もなく病に倒れた。健勝を誇る小堀の病臥は国内外に衝撃を与え、未経験の闘病に心を弱くした新助は、その死後は西大寺で弔うよう遺書を認めた。

 幸い大事には至らず、新助は元の通りに政務へ戻った。

 そして八月末から奈良騒動が勃発。留守居衆では収拾が着かず、遂には京都所司代の前田玄以に大坂の太閤秀吉を頼る事となった。

 一連の和州変事で高虎の妻に心労が積み重なるのは、次は自分たちに降りかかるとの懸念だけでは無い。


 何より、天正中期に新参者の高虎が羽柴美濃守家中で足場を固めるべく起こした、縁戚戦略が巡り廻って妻を苦しめる事と相成ったのである。

 つまり、横浜一晏の妻は高虎の養女、小堀新介の側室は一晏の娘である。更に桑山重晴の次男で、家の番頭を務める元晴の妻は高虎妻の妹だ。

 このようにして藤堂佐渡守高虎の妻という立場には、名だたる重臣の「お袋様」としての側面もある。

 だが乱世に翻弄され、自らの出自をも定かでは無い但馬の山里育ちの彼女にとってみれば、一人の武人の妻を務めることだけで限界なのである。


 悪い事をした、とは思うが、然れど武門の常ではないか。そのように口にしようとしたが、それは腹に留めた。

 

 思えば、こうして妻とのんびりと過ごす事は、初めてのことだろう。戦が終われば政務があるし、政務が終われば戦が起きる。

 生まれながらに乱世の動乱を経験している彼女もまた、平時の安らぎというものは、この数年になって初めて味わうものである。その安らぎのなかで、戦時の地獄のような日々が地獄であったと、ようやく気がついた。そして思いを新たに生を歩む最中に、唐入りと奈良町の騒動が勃発した。妻の辛苦を高虎は想像することが出来ない。しかし、細くなった腿から、首元の皮膚が赤くなっているところに、申し訳ないと思ってしまうのだ。


 いつしか京は姿を消し、男と女の二人の時間が出来上がっていた。


「世話をかけて悪かった。どうだ、次はわしが寝かせてやろう」

「そんな、過分に御座います」

「ええ、ええ。宣教師の国では、女人を労る事こそが男の本懐とする向きもあると聞いた。切支丹では無いがな、久しぶりに其方の髪を、撫でてみたいのだ」

 そのように言うと、太い腕で彼女の肩を包み込み体を起こした。思わずして抱き寄せる格好になるのが、今このときに陽が出ている事もあり、赤くなってしまう。


御前様おまえが恥じらうのは、何時以来でしょう」

「こ、これ。女人が左様に申すことは如何に」

「良いのです。良いのですよ」

 妻もまた、細い腕で太い身体を包み込む。その香りは、京風の香具によるものだろう。妻は心細い留守の間、菱屋に香を取り寄せることを密かな楽しみにしていた。その香りは喧騒とは無縁の代物で、どこか但馬の田舎山を思い出す。そして女人の汗、体温と交わることで妙な艶めかしさを覚える。

 そして胸元に、何か沁みるものを感じる。よく耳を澄ませてやれば、妻は涙を流していた。


「妾は、妾は、いつもいつも、このように過ごしとう御座いました。寂しくて、寂しくて、寂しくて。時には人肌を求め京様を抱き寄せた事も御座いました。然れど、妾の心が安らぐ御方は、御前様しか居りませぬ。しばらく、今しばらく、斯様に抱きつかせてください……」

 

 

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