第2話 毛受愛沙

 そのとおりだった。

 相手の子は同じ調子で歩き続けているので、景子けいこはすぐに追いついた。

 横に並ぶタイミングで、景子から声をかける。

 「おはよう」

 「あ、おはようございます!」

 甘い声!

 口ごもったような、子どもっぽい発音の声だ。

 でも、それはこの子が幼いからではない。

 たぶん。

 その子は景子を見上げた。

 「先生ですよね?」

 「あ」

 学校に通う大人ならば、先生なのか。

 それはそうだな。

 「先生じゃなくて、事務。事務職員」

 「ああ。事務のおばさん?」

 はいっ?

 いや。

 「おばさん」と呼ばれてショックを受けるのは、もう、専門学校一年生、進学したばっかりの年に体験済みだから、いいけど。

 もう二年近く前の話だ。

 でも、その子は

「おばさん、って歳じゃないですよね?」

とふしぎそうに景子の顔を見ている。

 「おばさん、って歳」じゃないと、学校の事務に就職してはいけないと思っているのだろうか?

 悪意はなさそうだけど、でも、わからない。

 「ま。二十歳はたちだけどね」

 その先を相手に言われるとあんまり気分がよくないので、先回りして言う。

 「大学に行ってるとしたら、三年生ってとこ」

 「そうですよね!」

 言って、その子は笑う。

 とろけそうな笑顔。

 小さい子のようなむじゃきな、同時に、ひとをトリックにかける大人の女のような。

 その二つがが一つの表情に混じっている。

 釣りこまれるように景子はきいた。

 「よかったら、名まえ、教えてくれる?」

 この学校で知り合った、最初の生徒なのだ。名まえくらいきいていいだろう。

 「毛受めんじょ愛沙あいさです」

 ささっ、と、答えて、景子の顔を見上げ、笑って見せる。

 景子は背の高いほうではない。だから、この子はもっと小さいのだろうけど。

 よく聴き取れなかった。

 その子は、右手で自分の巻き気の強い髪の毛をすくって景子に見せる。

 「髪の毛の毛」

 つづいて、体の前で両手を合わせて、水をすくうようなかたちを作った。

 「受ける」

 少しおいてから女の子は言う。

 「けるで毛受めんじょ。「」とかじゃなくて「」」

 ここまで言われて、この子が自分の名まえの説明をしているということがやっとわかる。

 「毛」と「受ける」で「めんじょ」と読む。そういうことらしい。

 「そう読むのか」と思った。

 恥ずかしながら、その苗字みょうじの人にははじめて出会った。

 「それで、愛する」

 目を軽く閉じて、両手を前に回して、くちびるをちゅっととがらせる。

 愛する人を抱き寄せてキスしているところを表しているのだろうけど。

 表現が微妙にリアルだ。

 「すな」

 右手を顔の前にあげて親指と人差し指と中指をすりあわせる。

 砂を少しずつ指から落として撒いている感じ?

 「……で、愛沙あいさ

 ということは、この子の名は「毛受めんじょ愛砂あいさ」?

 あっ!

 その名まえを思い浮かべただけで、おなかの底から「この子を抱きたい」という衝動が上がって来た。

 その衝動が体のなかで乱反射して煙のようになって漂う。

 毛受愛砂というらしい子はその甘い声を続ける。

 「砂って言っても、さんずいの「すな」ですけど」

 「さんずいの「すな」」がすぐにはわからなかったけど。

 少女が景子を見上げ続けている目線でわかった。

 この子は目のコンタクトで考えていることを伝えられる? たぶん「愛」なのだろう。

 「愛砂」ならもっと「抱きたい」感があってよかった。

 抱いていないと砂のようにこぼれて行ってしまいそうで。

 でも。

 「ああ」

 毛受愛沙あいさ

 「愛沙」でも、ほうっておくと水のように流れて行ってしまいそうで、それを抱き留めなければ、と思えるから、それもいい。

 体のなかに、この子を抱きたい、という感覚を漂わせたまま、自分も言わなければいけない。

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