書かないということ

短いものはいい。単純に時間コストがいい。書く側も読む側も。けれどただ短いだけというのは陳腐になる。なぜ書くか、なぜ読むかについてはそれぞれであるけれど、そこに意味も目的もないことを敢えてやるのは酔狂だ。
草さんの書かれた『きょうだい』について読む側としてはこの余白をどう考えるかである。書かれていないことがあまりにも多く推察の余地に溢れている。弟が亡くなった時、兄或いは姉はどこに存在したのか。「私の腹」とはどういう意味か。語り手は何者なのか。解釈に幅がある。答えを置かないことでその文章を何度も読み返す。何度も字を咀嚼する。そして実はこの短い文は短くないのではないかと思い至る。人を幻惑させるための絶妙な文字と意味の配置は鋭い皮膚感覚の為せる技だと感じた。