春雷─姫と元魔王と天才魔女、そして勇者になれなかったアル中おじ…おにいさん(36)─

鳥市

第1章「鳥の巣」

第1話「春巡る」

 鳥ノ巣村?あそこは寂れた村だよ。

 なにせ、三つの大国に睨まれた悲惨な立地だからね。それにほら、あの大戦があった舞台だろう?

 少し前までは賑やかなところだったけれど……今では行き場のない変わり者たちが流れ着いて、勝手に住み着く始末さ。

 え、酒場?ギルド?うーん、期待しないほうがいいんじゃないかな。わたしが最後に行ったときなんか、もう鍛冶屋も魔法具屋も畳むって言っていたくらいだから。

 さすがに宿と雑貨屋くらいはあったと思うけれど……ああ、そうなんだよ。今のあそこは本当に、それくらいさみしい村なんだ。


 でも、うん。わたしは、今でもあの村が好きだよ。


 ***


 春の濃霧が水面みなもを滑る。

 数日に渡る船旅は、快適なものだった。初めはどこかよそよそしかった潮の香りも、もはや身体の一部となり、肌に溶け込んでいる。

 海とは縁遠い村で育ったので詳しくはわからないが、この一帯はおそらく、波風の穏やかな海域なのだろう。自分を含め数人の旅人を乗せた白い小船は港を出発したきり、強風に煽られることも、荒波に大きく揺れることもなかった。

 暖かな春の陽気も相まって、乗客も船員も実にのんびりと寛いだ様子である。


 それでもやはり、これだけ霧深い航路に不安を覚えたのか。いかにも旅慣れていなさそうな、あどけない顔つきの少年が言った。「こんな霧のなか進み続けるなんて、危険なのではないか」と。

 だが船乗りは日に焼けた健康的な頬に深いえくぼを作り、少年の憂いを豪快に笑い飛ばした。


「大丈夫。ここは特別な海なのさ」


 目指す異国に鼻先を向け、威風堂々、白い帆を翼のように広げた船は、ゆるりゆるりと紺碧を泳ぐ。

 思えば、海を渡るのは随分と久し振りだった。最後に船に乗り、こんなふうに潮騒に耳を傾けたのは何年前のことだったか。


「パパ。海ってきらきらしてて、とってもきれいだね。またいっしょにお船にのろうね。約束だよ」


 容赦なく網膜を焼く海面の照り返しに、いつかの記憶を幻視した。

 陽光に透ける淡い金の短髪を靡かせ、青年は──ハルチカは、広げた両の掌に額をうずめ、目蓋を閉ざした。


「ああ。約束だ」


 ***


「こんな寂れた村に何しに行くのか知らねえけど……達者でな、兄ちゃん!」

「あんたに海の女神の加護があらんことを!」

「おう、ありがとな。アンタらみたいな腕のいい船乗りに巡り会えて、よかったよ」


 気の良い船乗りたちに軽く手を振り返し、ハルチカは目的の港へと降り立った。トリノス村で下船したのは、自分ひとりだけだった。他の旅人たちはもっと東の、栄えた港町を目指すのだろう。


 潮風に白の長外套ロングコートをはためかせ、何年もの冒険者生活で傷んだ金糸の髪を無造作にかきあげる。真昼の陽射しに蒼玉の瞳を眇めつつ、ハルチカは『鳥ノ巣村』へと歩みを進めた。

 陸地へと伸びる木製の桟橋は所々変形し、歩くたびにカモメの鳴き声のような軋音がする。足元が抜けないよう注意しながら周囲を見回すと、船着き場には錆びだらけの漁船がいくつも繋がれている。彼らは主の不在を嘆くよう、憂鬱に浮き沈みを繰り返していた。


 下船時特有の平衡感覚の乱れを整え、村の大通りを歩く。

 港から続く道には、旅行者向けの店や宿屋が軒を連ねていた。数年前までは、異国から来た旅人や船に乗る直前に装備を整えようとする冒険者たちで、賑やかな通りだったのだろう。しかし今や、その華やぎは見る影もない。


 ───鳥ノ巣村は、正式名称を『トリノス自治区』という。

 この土地は穏やかな港に面した立地と豊かな土壌ゆえに、大昔から三つの大国に狙われ続けてきた。トリノス村は三国にとって、領土拡大の足掛かりになり得る重要な場所だった。

 数年前の戦争で、とりあえずの領有権は『西の魔法大国・アルクレイラ』に渡ったが───アルクレイラ王家はなぜかトリノス村を直接統治せず、自治区として扱った。

 酒場では、「それは人ならざる恐ろしい北の皇帝が、王家に圧力をかけたからさ」と出鱈目な噂話をする者もいた。

 まあ、アルクレイラは最近大きな政変があったというから、大方そちらにかかずらっていて、それどころではないのだろう。


 一目見て営業していないとわかる、朽ちかけた鍛冶屋、防具屋の前を通りすぎる。村の中心には、これまた壊れて使い物にならない噴水と、レンガ造りの広場があった。

 ハルチカはそれらを横目に流し見ながら、村で唯一商いを続けている宿屋を訪れる。道中、泊まりがけでトリノスに来た物好きな来訪者を指差し、数人の村人たちがひそひそと噂話を交わしていた。

 背中に刺さる不躾な視線などどこ吹く風、ハルチカは堂々と宿屋の扉を開き、店主に向かって愛想の良い笑顔を浮かべた。


「よ、女将さん。見ての通り冒険者で、この近くの遺跡の情報を聞いてきたんだが……二泊ほど頼めるか?」

「……あんな小さな遺跡目当てに、こんなところまで?物好きな客だね」

「そうはっきり言うなよ。それに、こういう辺鄙な……失礼。神秘的な村にこそ、俺たち冒険者が求めるお宝が眠ってるんじゃないか?」

「冒険者ってのはいつの時代も変わらないねぇ。……はい、部屋の鍵。そこの階段を上がって突き当たりの部屋だよ。食事は朝と夜の二回。宿代は後払いね」

「ありがとう、助かる」


 外向きの、人好きのする笑顔を振りまいて、受け付けのカウンター越しに鍵を受けとる。あてがわれた二階の部屋に入ると、ハルチカは早速荷ほどきをして、装備品の確認を始めた。

 無愛想な女将は、「何を探しに?」「どこから来たんだい?」だとか、世間話や好奇の詮索はしなかった。今から遺跡探索に行く身としては、ただの会話といえど余計な時間と労力を割かずに済み、ほっとひと安心といったところだ。


 干し肉やナッツ類などの携行食、万一に備え多めに買っておいた飲み水を、部屋の隅に置く。大量に持ち歩いている回復用アンプルも、これから行く小規模な遺跡の探索にはさほど必要ないだろう。持っていく物は、腰に付けた革の道具入れツールベルトに収まる最低限に纏めた。


 ガーディアンとの戦闘になった時、余計な荷物を持っていたせいで攻撃をかわせず大怪我───なんて、新米冒険者の失敗だ。笑い話にもならない。

 ハルチカは旅の荷物を下ろし身軽になった体に、防刃魔法を施した外套を羽織り直す。目的の遺跡は、村外れの森にあるらしい。


「さて。遺跡攻略、行きますか」


 自らの半身と言っても過言ではない、磨き抜かれた銀の双剣を腰に佩く。セレスト・ブルーの瞳を閉じ、誰にともなく祈りを呟く。

 今日も一日、何事もなく探索を終えられますように。


 ***


「お姉ちゃあああん!助けてぇぇぇ!!」

「バカだ。ヴァカがいる」


 森を歩き、蔦絡む荘厳な遺跡に足を踏み入れて、一秒。ハルチカの平穏な冒険は、始まる前から終わりを告げた。


 遺跡の初歩的なトラップにまんまと引っ掛かっている冒険者を柱の影から窺い、頭を抱える。ただでさえ「死んだ魚そっくり!」と評される光のない青の双眼を、さらに曇らせる。

 冒険者は不用心にも、遺跡の対侵入者用トラップを踏み抜いてしまったらしい。

 少女は両腕を拘束され、壁に磔にされるという間抜けな姿を晒していた。挙げ句、どこにいるのかもわからないお姉ちゃんとやらを呼び、幼児のように泣き叫んでいる。


「お姉ちゃんどこ~~!?はやく迎えに来てよぉ!もう三時のおやつの時間だよぉ……お腹すいた……」

「えっ、心配するのそこ?」


 冒険者の少女は、高い位置でひとつに結んだ鮮やかな桃色の髪を揺らし、「ふん、ふん!」とがむしゃらにもがいている。何とか自力での脱出を試みているようだ。彼女が動く度、背に負った身の丈程の大剣がうるさく音を立てた。

 両腕を壁に固定されているため、少女が流す涙は拭われもせず、そのまま地面に滴り落ちている。

 泣きすぎたせいか、鮮やかな若草色の瞳は今にも溶け落ちそうなほど潤み、目元と鼻は赤く染まっていた。少女はどう見ても十三、四歳程度にしか見えない幼げな容貌だった。小柄な身体に不釣り合いな大剣も相まって、小動物のように庇護欲をそそる弱々しさである。


 まあ、垂れ流しの鼻水とくしゃくしゃのきったない泣き顔と間抜けな叫び声と阿呆丸出しの台詞のせいで、ハルチカの同情を引くことは出来なかったが。

 とはいえ、ここは遺跡の入り口だ。探索を続けるなら、必ずあの少女の目の前を通らなければならない。他に誰もいない以上、彼女は必ずハルチカに助けを求めるだろう。


 だが、明日をも知れぬ身の冒険者が他人に情けをかけ、何になる?あんな見るからに阿呆な新米冒険者を助けたところで、遺跡攻略の助けになるか?

 ───否。お荷物になることは目に見えている。

 というか、普通に関わりたくない。うるさいし。助けたら絶対懐かれるし。ヒヨコのように着いてこられても鬱陶しいし。

 これが妙齢の美女だったら、脊髄反射で助けていたのだが。


「そうだ。回り道、しよう」


 我ながら冷酷だとは思うが、即決だった。

 遺跡入り口の柱の影から様子を窺っていたハルチカは踵を返し、どこか他に侵入口はないか周囲をぐるりと見てまわることにした。


 しかし、探索の結果───正面入り口以外に、侵入経路はないとわかった。蔦が絡まる石造りの白い壁には穴ひとつなく、要塞の如く厳めしくそびえ立っているのみだった。

 古代における遺跡とは、今で言う教会や神殿、もしくは宝物庫のようなものだ。大昔の人間たちはここに集い、神々に祈りを捧げ、貢ぎ物を納めていたという。

 通常の遺跡は太陽光を取り込むため、または空気の循環のため、開放的な造りをしていることが多い。

 だが、僅かな隙間一つなく閉ざされたここはまるで。


「監獄、みたいだな」


 緑溢れる森のなか、古めかしく煤けた古代の遺物は、何かを飲み込み、閉じ込める得体の知れない生き物に見えた。


「『トリノス遺跡』は村外れの森にある、未だ手付かずの遺跡だよ。『星の鏡』を探しているなら、行ってみるといい」


 トリノス村を紹介した人間はハルチカにそう提案し、ふらりとどこかへ消えていった。

 明らかに怪しい風貌の者だったが、探し物の在処の検討もつかず途方に暮れていた自分は、藁にもすがる思いでこの地へやって来た。はるばる海を越えてまで、こんな場所に来ているのだ。


 ここまでの長旅を思い出すと、目の前の物言わぬ建物に臆病な幼子のように足をすくませ、時間を無駄にする自分が、急に馬鹿らしく思えてくる。

 あの桃色の少女と関わりたくないが為に回り道など探す自分が、彼女以上の阿呆に思えてくる。


 ハルチカはしぶしぶ、重い足を引きずり、少女が磔にされた広間へと戻ってきた。

 実は、罠を解き彼女を解放するのはそう難しいことではない。

 "古代の遺跡"というと何だか神秘的な、超常的なものに思えるが、実際は何てことはない。ただ古代人が造ったというだけの、"人間の創造物"だ。

 内部の罠やガーディアンも自分達と同じ、人間が作っている。

 人間に、うっかりは付き物だ。罠の場所を忘れて引っ掛かってしまう古代人もいたのだろう。だからこそ、万が一誤って罠にはまってしまった時の救済策も、当然用意してある……ということだ。


 少女を驚かせないよう、わざと靴音を立てて壁に近付く。しかし、彼女の様子は明らかにおかしかった。

 あんなにもうるさく喚き顔中の穴という穴から水分を垂れ流していた少女が、今や一言も発さず押し黙り、俯いているのだ。両手を壁に拘束されながら芋虫のように体を揺らしてもがいていた少女が、微動だにせず重力に体を預けているのだ。

 ハルチカは慌てて彼女に駆け寄り、ざらついた石造りの壁を探った。そして見つけ出した解除装置と思しき突起に掌を押し当て、罠を解除する。


「す、すまん!よく考えたら面倒くさがって放置していい状況じゃなかったよな。こんなアホ関わりたくねえとか思っててゴメンな!」


 謝罪しつつ、意識を失った少女の体を冷たく無機質な床に横たえる。瑞々しかった頬からは生気が失われ、水分を湛え潤んでいた若草の瞳は、目蓋の奥に閉ざされてしまっている。

 いかに情のないハルチカといえど、さすがに良心は存在する。小指の爪の先の白い部分の半分の半分ほど。

 ハルチカは外套から回復用アンプルと清潔な布を取りだし、衰弱した少女の擦り傷だらけの頬を拭った。森を抜ける時についたのであろう細かな傷が、ゆっくりと塞がっていく。


 間近で観察すると、少女はどうやら貴族の娘であるとわかった。

 身に付けている服は繊細なレースに至るまで、どう見ても最高級の絹。白地に金の刺繍が施された、華美な衣装。

 鮮やかな桃色の髪を束ねる黒いリボンは、ベルベット特有の光沢を湛えている。滑らかな指先には、水仕事をこなす村娘に付き物の荒れやあかぎれ一つない。


「……こりゃ、相当な箱入り娘だな」


 大方、流行りの英雄譚に憧れた夢見がちな貴族のお嬢様が、冒険者の真似事でもしているのだろう。

 非常に面倒だが、ハルチカは遺跡攻略を一時中断し、この箱入り娘を家に送り届けることにした。もちろん決して善意ではなく、彼女の父親からの謝礼目当てだ。

 娘にこれだけの衣装を用意できる家だ。少女を無事送り届ければ、相当の金を包んでもらえるに違いない。


「恨むなよ家出少女。いいか?冒険者とは常に金欠で、世間は世知辛いんだ。一つ勉強になったな」


 そうと決まれば、さっそく少女の家名を訊かなければ。下衆な笑みを浮かべたハルチカは少女の薄い肩を軽く揺さぶった。頬をつねった。頭を軽く叩いた。

 だが、少女は一向に目を覚まさない。


 静寂が支配する遺跡のなか、「まさか」とハルチカは一気に警戒の糸を張り巡らせ、周囲を見渡した。

 高位の神を奉った、もしくは価値ある神器を守る遺跡には、より危険度の高い防衛魔法が施されている。ギルドで聞いた話では、欲に目がくらみ身の丈に合わない遺跡に挑んだ冒険者たちが、不可視の毒霧により無惨な最期を遂げたという。


 監獄めいた異様な雰囲気が漂う、トリノス遺跡。閉ざされた空間。たったひとつしかない出入り口。

 もし───地図にも記されていないここが、高位の遺跡だとしたら?その冒険者たちと同じく、不可視の毒が立ち込めていたとしたら?長くここにいた少女が目を覚まさない理由は?

 脳裏を駆け巡る問いに答えるように、少女が弱々しく、無垢に色付く唇を開いた。


「たす、けて。お父さま」


『たすけて、パパ。たすけて、みすてないで、いたい、くるしい、どうして。ねえパパ。どうして、どうして、どうして───』


 考える暇などなかった。ハルチカは小柄な少女を抱え、転げるように遺跡の外へと駆けた。

 目蓋の裏で、幼い娘が泣いている。情けなく震える掌で外套を探り、あるだけの精神安定剤を嚥下する。飲み慣れた速効性の錠剤が、喉奥の熱でどろりと溶けた。


「大丈夫、大丈夫だからな……!今、解毒薬を……!」


 湿った土の上に娘を横たえ、腰に繋いだツールベルトに手を伸ばす。しかし、脳裏を駆け巡る惨劇の記憶と自身を見つめる幼い眼差しに、思考が定まらない。急激に滲む汗で、うまく目的の薬を掴めない。

 ようやく、小さなガラス瓶を指先が捉えた。目蓋の裏で、可愛らしく唇を尖らせたいとけない娘が、咎めるようにハルチカを見つめた。


『だめだよ、パパ。──は助けようともしなかったくせに、このお姉ちゃんだけ助けるなんて。そんなの、ずるいよ』

「ぁあ、違う、違うんだ、あの時オレは、オレはただ……!」


 甘く舌足らずなソプラノが、柔らかに耳朶を愛撫する。ハルチカは惨めに縮こまり、救いを求めて眼球を小刻みに右往左往させた。

 囀る小鳥も、木々のざわめきも、何もかもが自身を苛む罵倒に聞こえて仕方がない。


「うるさい」


 ハルチカはその全てから逃避しようと、両の手で耳を塞いだ。掴んだ筈のガラス瓶が、解毒薬が掌をすり抜け、宙を舞う。なみなみと容器を満たしていた薄紫の液体が真っ逆さまに落下し、音もなく大地に染み込んでいく。

 森林の湿り気を帯びた土に、中身を失ったガラス容器だけが虚しく転がった。それは、唯一の解毒薬だった。彼女を救う、唯一の手立てだった。


「ぁ、ああ」

『あーあ。このお姉ちゃん、死なせちゃうんだね?』


 精神安定剤の作用で、身体中から力が抜けていく。もはや少女を抱いて村に駆け込むだけの気力もなく、地に膝をつく。

 いや。仮に全速力でトリノス村の宿に向かったところで、どうにもならなかったのだろう。あの寂れた村に、解毒薬なんて代物が置いてあるはずがない。医者なんて、もっと望むべくもない。

 最初から、手遅れだったのだ。


「……そ、そう。そうだ、もう手遅れだったんだ。たとえオレがこいつを見つけた時、すぐに助けていたとしても。既に毒を吸い込んでいたなら、どのみち結果は同じだった。オレは、殺していない。救えなかったわけじゃ、ない」


 精神安定剤で靄のかかる思考で、ハルチカは必死に逃げ道を探した。


 ───ああ、オレは何も悪くないとも!

 だって、そうだろう。少女の体を蝕むのが、古代の猛毒だったとして。よくよく考えてみたら、そこらで入手できる解毒薬なんかで治るはずがないではないか。もし自分が回り道を探さずすぐに少女を助けていたとしても、結末は同じだった。どうしようもなかった。

 少女は、ここで誰にも知られず死にゆく運命だったのだ。


『そうだよ。パパは、なぁんにも悪くないよ』


 ***


 一向に目覚めない少女の傍らで懺悔の言葉を呟き続け、どれ程の時間が経っただろうか。


 足元に、名も知らぬ白い花が咲いていた。ハルチカは手向けとして少女の傍らにそれを一輪飾り、かつて娘にそうしていたように、桃色の髪を柔く梳いた。解けかけた黒のリボンを結び直してやった。

 せめて、少女が苦しまずに逝けたらいい。眠るように心臓の鼓動を止められたらいい。

 ハルチカは、眼前に聳え立つ不気味な遺跡を睨み上げる。得体の知れない毒が蔓延している以上、自分のようなただの人間には遺跡攻略は不可能だ。

 もう、目の前の監獄めいた遺跡を訪れることはないだろう。二泊するはずだったトリノス村も、早々に出ていこう。


 彼女の遺体だけでも、村に持ち帰って埋葬するべきだと思った。だがそんなことをすれば、この貴族の少女の死は、すぐに彼女の親族の耳に入る。いけ好かない貴族といえど、親は親だ。両親は娘の死に、どれだけ嘆くだろう。悲しむだろう。ハルチカにはその悲嘆が、痛いほどよくわかっていた。

 憎悪の矛先は必ず、現場にいた者、即ちハルチカに向かう。「なぜ、娘を助けてくれなかったのか」と。自分がその立場であっても、同じだろう。

 相手が有力貴族であれば、ろくな裁判も検証もなしに数十年は牢獄行きだ。しかしハルチカには、果たすべき使命がある。牢獄などに囚われている時間はないのだ。


 ハルチカは幾度も迷い、悩んだ末、鬱々とした心持ちで腰を上げた。そして眠るように黄泉に向かう少女に背を向け、ふと思い返す。


「そうだ。お前、三時のおやつがどうとか言ってたよな。腹ペコで天国に行くんじゃ、あんまりだよなぁ」


 外套を探り、布袋を取り出す。そこには宿屋の台所を借りて拵えた小さなサンドイッチが二つ、包まれていた。干し肉などの保存食に飽き、「たまには弁当でも作ろう」と気まぐれに調理をしてきたのだった。

 包みを取り払ったそれから、卵とハムの塩気を帯びた、食欲をそそる香気が漂う。草と木々の青が立ち込める森林に、軽く焼いたパンの甘く香ばしい空気がふわりと広がる。


「三時のおやつ、って感じじゃなくてごめんな。でも味は保証するぜ。……ここ、置いとくからな」


 包み布を敷き、仰向けに横たわる少女の傍らにサンドイッチを置く。

 そして今度こそ少女に背を向け、踵を返そうとした、その刹那。


 長い睫毛が、蝶の羽ばたきのように震える。潤みを帯びた若草の瞳が、たしかな意思を持って開かれる。控えめな鼻が、すんと小さく音を立てる。そして、地の底から響くようなぐぎゅるるる~~───ぐぎゅるるる?


「いい匂い……お腹、すいたぁ!」

「は」

「何この三角形のパン!?」

「ぽぇ」


 涎を垂らさん勢いでサンドイッチに飛びつく、今まさに死ぬ運命だった筈の少女。

 光を湛えた星の瞳が、ふいにこちらを見据える。ただでさえ大きな双眸が、立ち尽くすハルチカの姿を捉え、まるく見開かれた。


「あなた、誰?」


 全ての言葉を失い、少女を見つめ返す。

 彼女は何も言わない、言えないハルチカにきょとりと首を傾げた。しかし数瞬後、合点がいったとばかりに桃色の髪を揺らし、ひとつ頷く。


「あっ、自己紹介は自分から名乗らなきゃシツレーだよね!あのね、ボクの名前はね───」


 エアリーテ・アルクレイラ。

 西の魔法大国の、次期女王。政変により国を追われた、亡き王の愛娘。戦禍に巻き込まれ死んだとされていた、悲劇の姫君。

 身の丈程の大剣を携えた少女は軽やかに立ち上がり、ハルチカを導くように手を差し伸べた。


「ねえ。あなたのお名前も教えてほしいな!」

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