第7話 獲物

「ショーン、ここで待っていろ」


 再開した見回りも終盤にさしかかった頃。カイは緊張した面持ちでショーンを振り返り言うと、一人で斜面を下っていく。

 ショーンも異変を感じていた。先ほどまでより強く、獣のにおいを感じる。ここは仕掛けた罠の少し上にあたる場所のようだ。何かがかかっている可能性がある。


 ガサッ。ガサガサッ。


 斜面の下では、カイの足音以外に何かが暴れる音がする。カイの仕掛けた罠に、やはり何かがかかっているのだ。


「おーい、下りてきていいぞ。少し急な斜面だから、落ちないように気をつけろよー」

「わかった」


 カイの声に応え、少年は斜面を下りはじめた。カイの下った跡を見失わぬよう、足を踏み外さぬよう、慎重に足跡を辿っていく。


「無事に来られたな。えらいぞ」


 カイは獲物から視線をらさず、ショーンを迎えた。その視線の先を追うと、ショーンの目にも茶色い背中が見える。白い斑点はんてんのある、明るい茶色だ。


「まだ若い雌鹿めじかだ。とはいえ、今年生まれたやつではなさそうだな。二才くらいか」


 カイが一人ごちた。背負っていた荷物を下ろし、棍棒こんぼうを手に取る。


「獲物には、可能な限り上から近づく。下からだと相手が向かってきたとき斜面で勢いがついて、威力がすごいからな。鹿のときは、棍棒を首……後頭部に叩きつける。そして気絶したところで頸動脈を刃物でき切るんだ。ショーン、やってみるか?」


 ショーンは一瞬 躊躇ためらった。けれどすぐに強い瞳でカイをまっすぐに見上げ、うなずいた。カイは頷き返すと、静かに剣鉈けんなたを差し出す。


「ここの斜面はきつい。足場が悪いから、今回は俺が棍棒で気絶させよう。そのあと、この剣鉈で君がとどめを刺してやってくれ」


 ショーンはカイから鞘ごと剣鉈を受け取った。ずっしりと重い。


「躊躇いは不要だ。手加減すれば相手を余計に苦しめることになる。下手をすれば、反撃を受けて自分の生命が危うくなる。もし逃げたとしても、殴ったあとではそう長く生きられない。かわいそうだと思うのなら、せめて一息に楽にしてやってくれ」

「うん」


 カイはショーンの肩をぽんと軽く叩き、棍棒をしっかりと握りなおした。


『コワイ……ニゲナキャ! シニタクナイ!』


 ショーンの耳に、不意にそんな声が響く。きっとあの鹿の声だ。

 鹿はなんとか逃れようと、罠にかかった右前脚を引きちぎりそうな勢いで斜面を下ろうとする。けれども罠の縄が近くの木に引っかかり、ほとんど動けないようだった。


『イヤダ! シニタクナイ――』


 カイがゆっくりと近づくと、鹿は怯えきった目で座り込む。カイが棍棒を振り上げ、横投げするような要領で鹿の後頭部に叩き込んだ。鹿は小さく一声ぴいと鳴くと、白目をいてその場に倒れる。


「ショーン、こいつにまたがれ!」


 ショーンは急ぎ駆け寄り、昏倒こんとうした鹿の肩に跨がった。跨がったまま、剣鉈を鞘から抜く。


「耳を掴んで頭が動かないように押さえつけ、頭の付け根あたりに刃を差し込め。浅くていい。一気に切るんだ」


 緊張で腕が震えていた。言われた通りに左手で鹿の耳を掴もうとしたとき、鹿が目を覚ます。黒く澄んだ瞳と目が合った。明らかに怯えた、潤んだ瞳がショーンを見ている。心臓がドキリと跳ね上がった。

 罪悪感が頭をもたげる。生きたいと思っているこの生命を、自分は奪おうとしているのだ。けれども、もうやめるわけにはいかない。思いを振り切り、ショーンは鹿の耳を左手で握った。弱ってはいるが、鹿は必死に逃れようとする。ショーンも全力で鹿の頭を押さえつけた。


『マダイキタイ! シニタクナイ!』


 間違いなく今、生きている。生き延びるためにこの鹿は戦っている。ショーンは目を閉じ、深く息をする。そして右手でしっかりと握った剣鉈を、鹿の頭の付け根に差し込んだ。


『イヤダアアァ――!』


 抵抗する筋肉の感触。けれど刃はあっけなく、鹿の喉の肉に入っていく。鹿の濁った叫びがこだました。

 ショーンはそのまま剣鉈を深く差し込み、自分のほうに引く。刃が骨に当たる感触が伝わってきた。ショーンの心臓が早鐘を打つ。怖い。力の加減ができない。

 鹿は苦しげな息とともに、ビクリと後ろ脚を二度跳ね上げた。鹿の心臓の鼓動に合わせ、一気に溢れ出す血。力を失って濁っていく鹿の瞳。瞳の色も、黒から緑に変わったように見える。そして鹿はぴくりとも動かなくなった。

 自らの手で、この鹿の生命を絶ってしまった……恐怖と興奮で震える腕。罪悪感と高揚感とが同時にやってくる。ショーンはなおも剣鉈を力いっぱい引こうとした。


「ショーン、もう充分だ。それ以上引いたら自分の腕を切るぞ」


 カイの声にハッとして、ショーンは身を起こし両方の手を放した。再び右手で柄を握り、鹿の首から剣鉈を抜く。


「よく頑張ったな。急いで血抜きをせにゃならない。首を斜面の下のほうに向けて、鹿の後ろ脚にロープを結ぶ。で、近くの木に吊り上げるんだ。涙を拭ったら、手伝ってくれ」


 カイの言葉で、ショーンは初めて自分が泣いていることに気がついた。血まみれの手で、急いで涙を拭う。

 カイは近くの木の太い枝に長めのロープを引っ掛け、ショーンのほうに先端を投げた。少し手前で落ちたそれをショーンが拾い上げ、鹿の後ろ脚近くまで引っ張る。


「縛り方、見ておけよ」


 カイはショーンの隣に座り、慣れた手つきで鹿の後ろ脚を縛り上げた。ショーンはその動きを頭の中で反芻はんすうする。


「次は、こいつを引っ張り上げる。頭は地面についていても大丈夫だ。傷口が下になるように、引っ掛けたロープを引いて太い幹に巻きつけるんだ。少しすれば、血が抜ける」


 ショーンは斜面を登って木の枝の向こう側に行き、腕の力だけで必死にロープを引いた。鹿は少年よりも少し重いらしい。完全に脱力している鹿の身体は、腕の力だけでは全く動く気配がなかった。


「ショーン、自分もロープにぶら下がりながら寝っ転がるつもりで、体重も使って引くんだ。ロープを掴む手はしっかり放さず、思いきって後ろに倒れてみろ」

「うん」


 ショーンはロープを少し高めの位置で掴むと、言われた通りに後ろに倒れてみた。ズルリと鹿の身体が持ち上がる。


「そうだ。その調子だ。ロープを踏んで押さえ、立ち上がれ。それをもう少し、あと四回くらい頑張れば充分に持ち上がる」


 そう言いながら、カイはショーンのかたわらに立ち、さりげなくロープを踏んだ。成功体験はさせたいが、この少年の力だけではまだこの重さを支えきれない可能性がある。初めての大仕事でいっぱいいっぱいになっているショーンに余裕はないだろう。少年に大怪我をさせないように、少しだけ力を貸すことにしたのだ。

 ショーンはカイの助力にまだ気づいていない。ロープを力いっぱい握りしめ、息を弾ませ額に汗をにじませながら、少年は必死に今の動作を繰り返した。


「よし、充分上がったな。よく頑張った」


 カイがロープを拾い上げ、近くの木の幹にぐるぐると巻きつける。彼はロープが急に緩まないよう、そして斜面に座りこんだショーンにも手順が見えるようにしっかりと結わえた。



 すっかり息の上がっていたショーンが、呼吸をようやく落ち着かせた頃。鹿の首からドクドクと音を立てて流れ出していた血液も、ほぼ落ち着いた。


「そろそろいいだろう。このまま持ち帰っててもいいが、傷みやすい内臓は抜いていこうか。ショーン、一緒にやってみよう」


 ショーンが静かに立ち上がり、ぶら下がった鹿の腹側に向かう。カイは隣に立ち、吊り上げられた鹿に向かってパンとひとつ柏手を打った。


「ショーン。剣鉈を鞘に収めろ。足下に置いて、同じように手を合わせてやってくれ。生命をいただくことへの謝罪と感謝を祈り、神々の国へと迷わず行き着くことを願う。気休めかもしれないが、俺たち猟師にとっちゃ大事な儀式だ。君は優しい子だ。きっと神々に祈りが届き、彼女を迎え入れてくれるだろう」


 そう言いながら、カイが穏やかな微笑みをショーンに向ける。ショーンは真剣な眼差しで頷き返し、斜面を滑り落ちないように場所を選んで剣鉈を置いた。立ち上がり、手を打ち、祈る。


「よし。では最初にやるのは肛門に詰め物をすることだな。内臓を抜くときに肛門や膀胱ぼうこうからふんや尿がれると、肉ににおいがついて食える代物ではなくなる。無駄なく生命をいただくために、まずはそのへんの枯れ葉や草を集めて肛門に詰め込むんだ」


 言われた通り、ショーンは付近の枯れ葉をかき集め、斜面の上から木の枝にぶら下がった鹿の肛門に詰めていった。


「そのくらいでいいだろう。肛門と膀胱の処理は難しいから、今回は俺が引き受ける。先に腹を開くぞ。ショーン、こいつの腹の真ん中あたりに切れ目を入れてくれ。まずは皮に刃で線を引くつもりで、浅く」


 カイが指差したへそのあたりから首に向かってのライン。それをなぞるように、ショーンは鹿の腹に刃を軽く当てて線を引く。皮がうっすらと切れ、白っぽい筋膜に覆われた一部の肉が切れ目から顔を出した。


「そうだ。その調子で少しずつ浅く切っていく。とりあえず今は腹だけでいいぞ。内臓に傷をつけてしまうと、内容物が漏れて肉ににおいが染みついちまう。そうならないように、今つけた切れ目を何度もなぞって少しずつ切り開くんだ。ゆっくり、慎重にいこう」


 カイを振り返ってショーンは頷く。そして真剣な眼差しで切れ目を見ながら、少しずつ少しずつ、切り進めていった。


 ついに腹の肉が開いた。むっとする生臭いにおいとともに、立ちのぼる湯気。腹圧で腸の一部が飛び出しそうになる。

 ショーンは剣鉈を持つ手を下ろし、鹿の腹の中に左手を突っ込んだ。


「あったかい……ううん、熱い。昨日のいのししより熱い気がする」

「そうだろう。鹿の体温は人間よりもずっと高いんだ。おかげで鹿の脂は人間の体温ではけない」


 生き物を殺したという実感が、五感を通して伝わってくる。のしかかってくるその重さに、心が押しつぶされそうになる。


「内臓の周りに白っぽい透き通ったものがついているだろう。今の時期は内臓の周りに脂肪が多くついている。この脂は煮物に使うと特に美味いんだ。だが食べすぎると腹を下す。内臓を出したら、少しだけ脂肪ももらっていこうな」


 カイがショーンを驚かせないよう、穏やかに声をかけてくれた。カイの大きな手が、ショーンの肩にそっと乗せられる。言葉にはしていない。けれどカイにはきっと、ショーンの感じた重さが伝わったのだろう。カイの体温とあたたかく包み込むような声に、ショーンは少し救われたような気がした。


「それじゃ、足下の岩に剣鉈を置いてくれ。交代しよう。肛門と膀胱の処理をするぞ」


 言われた通りに剣鉈を置いて、ショーンはカイに場所を譲った。カイは剣鉈を手に取ると、肛門の周りに少々大きめに切れ目を入れていく。


「こうして少し広めに切り取って、腹の中から腸を引っ張る。膀胱も取れないように慎重にな。すると、こうやってきれいに抜けてくれるんだ」


 ズルリ。

 内臓が腹の中から出てくる。肛門と膀胱も破れることなく、きれいに抜けて地面に落ちた。胃まで身体の外に出してから、カイが再び手を止め、ショーンを振り返る。


「頭は今回、落とさず持ち帰ろうか。さっきショーンは首を深めに切ってくれたから、気管まではもう切れていると思う。今出ている胃よりも上の食道を、用心のため紐で縛ってから引っ張り出そう。こうすれば、こいつが食ったものや胃液が逆流するのを防げる。こいつの生命を最大限無駄にせずいただくことができる」


 カイはポケットから細い紐を取り出し、鹿のお腹に手を突っ込んで食道をもう少し引っ張り出した。紐で手早く食道を縛って閉じ、ショーンを手招く。


「最後に、肺の奥に手を突っ込んで気管と食道を掴み、力いっぱい抜く。切れ目は入っているだろうから、君の力でも充分に抜くことができるはずだ。総仕上げだ。やれるな」


 ショーンの両肩に手を置いて、カイが微笑んだ。ショーンは力強く頷き、鹿のお腹から首側に深く手を突っ込む。


「こいつを持ち上げたときと同じ要領だ。腕の力だけで引き出せなければ、自分の体重も利用してやれ。ただ、油断して斜面を転げ落ちるのは勘弁な」


 そんな声を背後に聞きながらショーンは鹿の気管と食道をしっかり掴み、力いっぱい引き抜いた。腹膜の抵抗も多少あったが、残りの内臓がきれいに鹿の身体を離れて出てくる。


「よし。頑張ったなショーン!」


 カイの声がなぜかくすぐったく感じた。ショーンは全身にじんわりと広がる熱を感じる。顔が紅潮しているのが、ショーン自身にもわかった。きっと、これが嬉しいという感情なのだろう。そんなことを考えながら、少年はカイを振り返ってまっすぐに見つめた。


「カイ、ありがとう」

「はじめての君の獲物だ。大物だったな。最後まで、よく頑張った。さあ、そこに軽く穴を掘って、この内臓を埋めよう。それからこいつを家に持って帰って昨日と同じように川で冷やす。鹿のほうが猪より体温が高いぶん、傷みやすい。早く冷やしてやらなきゃな」


 カイも剣鉈を鞘に収めながら嬉しそうに、どこか照れくさそうに笑う。そして、近くの柔らかそうな地面に軽く穴を掘りはじめた。ショーンが鹿の内臓をそこに持っていく。

 カイは穴に置かれた内臓から心臓と肝臓、胆のう、それから少しの脂を剣鉈で切り取りった。念のため、心臓を割ってみる。白く変色した部分もない。健康な鹿で間違いない。これなら安心して食べられそうだ。


「すまんが、ここに掘った土や枯れ葉をかぶせてくれ。こうしておけば、獣たちが掘り返してきれいに食べてくれる。今切り取ったものは、持って帰って俺たちで大切にいただこうな」

「うん」


 ショーンが土をかぶせているうちに、カイが先ほど切り取ったものを鹿の腹に入れる。胆のうは胆管を縛って、胆汁が漏れないように加工した。幹に結んだロープをほどき、鹿を地面に下ろす。

 鹿の脚に結んだ部分が緩んでいないことを確認すると、カイは自分の身体にざっとロープを結んだ。内臓を抜いても、鹿は三十キログラムくらいの重量があるだろう。カイならば問題はないが、少年が持ち上げるには、まだ重すぎる。


「ショーン、昨日と同じように、補助を頼みたい。体力がついてきたら君に運んでもらうから、どういうところに引っかかりやすいとか、いろいろ観察しながら補助してくれ」

「わかった」


 こうして、二人は家路に就いたのだった。

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