風が伝えた愛の歌外伝 はじまりの風

鬼無里 涼

第1話 転落

 少年はあてもなく歩いていた。

 故郷を失ってから、もう何日になるだろう? 母親 ゆずりのくせのない白銀の髪も、だいぶ伸びてきた。背嚢はいのうに入っていた食糧も尽き、彼は食べられるものを求めて見知らぬ草原から近くの山に入り込んだ。


 どうやら雪は多くない地域のようだ。少なくとも、今いる辺りには雪らしきものは見当たらない。冬の終わりとはいえ、朝晩の冷え込みはきつい。けれど、枯れ葉を寄せ集めて潜り込みさえすれば、耐えられないほどひどいものではなかった。

 しかし冬だけあって、森にも緑は少ない。故郷では精霊たちから食べられるものを少しは教わっていたのだが、今の季節ではほとんど見当たらなかった。

 見つけた沢沿いに山を歩いているので、幸い水には困らずに済んでいる。しかし、空腹はどうしようもない。


 少年の左手首に光る、二頭の龍が絡み合う白金の腕輪。これを狙って、背の高い黒いローブの男はやってきた。そして、躊躇ためらうことなく少年の故郷である精霊の村を焼いた。村の精霊たちが生命がけで彼を守り、見知らぬ草原へと飛ばして逃がしてくれたのだ。

 おそらく、あの男はまた腕輪を探しているだろう。あのときのように、いつ突然目の前に現れるかもしれない。もし今あの男に見つかったら、今度は守ってくれる人もいない。


 人に会いたい気持ちはあるものの、同時に人に見つかるのが怖い。人間と精霊の間に生まれた彼には、精霊たちのように自然の力を自由に操れる能力はなく、腕力もない。戦うための武器も知識もなかった。


 出会った人が必ずしも自分を助けてくれるとは限らない。

 とはいえ、このままあてもなく歩いていても、生き残れる可能性は低い。せめて飢えと寒さをしのすべを見つけなければ……。


 この数日、人の姿を一度も見ていない。今ならまだ日も高い。少年は覚悟を決めて、沢伝いに山を下ってみることにした。



 しばらく下っていくと、水音が激しくなった。いやな予感がする。

 少年はふらつきながら音のするほうへと近づいた。茂みの向こう側の地面が途切れている。水は滝となり、勢いよく滝壺に落ちていた。


 頭がくらくらする。立ったままのぞいたら、よろめいて落ちるかもしれない。少年はがけの上で腹ばいになり、おそるおそる下を覗いてみた。

 高さは七メートル程度だろうか。それほど高い崖ではない。崖にはところどころ飛び出した岩が見える。湿ってはいるが、慎重に降りれば足場にできそうだ。

 少年は気力をふりしぼり、ゆっくりと崖を降りはじめた。背負っている背嚢が重い。幸い崖は垂直ではなく、ゆるめの傾斜がある。崖の斜面に寄りかかるようにして、彼は慎重に足を運んだ。


 崖の半ばまで降りたところで、少年は急な目眩めまいおそわれた。バランスを崩し、足下の岩に生えた湿った苔で足を滑らせる。声を上げる間もなく、彼は下の岩場に転落した。背嚢がクッションとなり頭は打たずに済んだが、至るところに岩で切った傷や打撲痕が……。


「あああぁ!」


 あまりの痛みに少年は叫んでいた。動く気力はもう湧いてこない。


(このままここで死ぬのかな……誰にも気づかれず)


 ゴツゴツとした岩場で横たわったまま、少年は沢のほうに顔を向ける。血まみれの右手の先に、名も知らぬ小さな白い花が落ちていた。鳥の羽音とともに、彼の手の上にまた一輪の花が落ちてくる。甘い香りが空から降ってくる。


(せっかく逃がしてもらえたのに、ごめん。もう……一人には、耐えられない。身体に力が入らない。このまま眠ればきっと……)


 視界がだんだん暗くなる。寒い。花を見たとたんに故郷を思い出し、少年は耐えがたいほどの寂しさと心細さに襲われた。花を見るまいと、彼はゆっくりとまぶたを閉じる。


 かさり。


 花が顔の近くに落ちたのだろう。小さな音とともに、花の香りが強くなる。その香りに誘われるように、少年の意識は薄れていった。意識が完全に途切れる直前、ふわりと身体が浮くような感覚とともに、誰かの呼ぶ声が聞こえたような気がした。


***


「よかった、目を覚ましたか!」


 昼間の明るい光が射し込む部屋。

 長い黒髪を後ろでひとつにまとめた、がっしりとした体格の男が見える。その男は椅子に座り心配そうに、毛布をかけてベッドに横たわる少年を見下ろしていた。


「俺の言葉、わかるか? まずは一口、水を……いや、先に熱を確認させてもらうか」


 少ししゃがれた低めの声。年の頃は三十過ぎといったところか。背の高い、筋肉質な男の手が少年のひたいに向かって伸びてくる。一瞬恐怖を感じ、少年は反射的にその手から逃れようとした。


「おいおい、そう警戒しなくていい……って言っても無理か。俺はガタイもいいし、眼光が鋭いと皆に散々言われてるしな。怖がられても仕方ない」


 男は苦笑いしつつ、自分の額をポリポリとく。


「まあでも、腐っても元軍人だ。君は崖から落ちて、長いこと気を失ってたんだ。何か危害を加える気なら、君が目覚める前にさっさとやってる。ちょっとだけ俺を信じて、せめて熱だけでも確認させてくれないか」


 再び男の手が少年の額に伸びる。少しおびえながらも、今度は少年も逃げず、素直に額に触れさせた。


「熱も落ち着いてきたな。俺はカイ。今は猟師だ。君の名は?」

「……ショーン」


 カイと名乗った男は安堵あんどの表情を浮かべた。


「よかった、言葉もわかるようだな。ここは俺の家だ。ま、とにかく今はこの水を」


 と言いながら、サイドテーブルに置かれていたポットの水をコップに注ぎ、自分の口に流し込むカイ。一口飲み込んだあとに再びコップに水を入れながら、ニッと笑う。


「この通り、安全だ。コップ、持てそうか?」


 カイはポットとコップをサイドテーブルに置いて、ベッドに横たわっていたショーンをゆっくりと抱き起こす。そして笑顔でコップを差し出した。

 包帯でぐるぐる巻きにされた手。少し痛むが、コップはなんとか持てそうだ。ショーンはこくりとうなずく。


「これだけでいいから、ゆっくり飲んでくれ。一気に飲むなよ。身体がびっくりしちまう。それと、腹も減っただろう? 食べ物も用意してくるからな」

「あの……ありがとう、カイ」


 コップを受け取り、ショーンは無表情のまま、まっすぐにカイを見た。カイは照れくさそうに笑い、顔を赤らめる。そしてショーンに背を向け、部屋を出ていった。

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