4‐4 楽園
ヒトにとって、楽園というのはどのような場所なのだろう?
すべての人間は幸福を求める権利があると叫ばれたのも五世紀前の話――――
だが、現実にはありとあらゆる要因が平等の前に立ち塞がっている。例を挙げると生まれや教育、財産、容姿、運…
この世に生を受けると言うのはまさに神の手によるくじ引きだ。人間は自分の起源を己で決めることはできない。
したがっていやでも望まない環境に身を置くことがあるかもしれない。足掻く事すら難しい状況に追い込まれるかもしれない。
全ての人間において断言できるであろう真実は、ヒトは生まれながら不平等であることに関しては平等なのだろう。
格差や貧困が不平等を生み、悪意に世界を撒き散らしてしまう。それは過去に民族同士の対立、魔女狩りを乗り越えイデオロギーが国を超えて多くの人間に共有される時代になると共産主義革命の台頭、そして宇宙開発が本格的に始まっても地球至上主義運動という悲劇を生んだ
そして、人が宇宙に進出したときでさえも数度に渡って地球と宇宙の人々は争い続けてしまった
嘗て、人間は魔法のような文明の力を持ちえても争いは止められなかったことは悲しい事実なのだろう
だがヒトは幸福を求め続ける。富あるものは更に富を求め続け、貧する者は明日の食い扶持を目指して彷徨う
その過程で無意味な血が流れることもある。誰も自らの愚行を省みる事は無い、己の半生を振り返るにはヒトの寿命は短すぎるのだ
ならば、永遠に誰かを傷つけられずに幸せになれるそういう場所こそが…楽園であり天国なのかもしれない
人が完全な理想郷を達成するにはその在り方を変質させるよりあるまい。飢え、性欲、禁欲、名誉欲…見えないものであってもヒトはその在り方ゆえにあらゆるものに縛られ支配されている
真なる楽園とは、いくつかの古典宗教で示された煩悩の先にある門を通り抜けたときに得るあらゆるものを超越した概念であるかもしれない
「う…ん……」
暗い寝室の中でディークは目を覚ました。頭が痛い、どこかで打ったのだろうか?
柔らかいベッドと病的なまでに清潔な匂いのするシーツに違和感を覚える。
そして確信を得た。ここは自分の家ではない、自分の寝床は硬くて寝心地が悪く、少し臭う。
(俺は一体どうなったんだ?)
ぼやけた視界のまま起き上がると部屋のシルエットが浮かび上がってくる。
ベッドとテーブルだけが置かれただけのシンプルな部屋、ノエルやゲイルの家やレオスの酒場でもない。
一体ここは何処なのだろう? どうして自分はこんなところに居るのだろう?
(そうだ、俺はあの後に機内で薬を嗅がされて…)
「コロニー」のものと思しき空挺。パワードスーツを着た数名の者達に連行されたことを思い出す。
乱暴に空挺の中に連れ込まれたディークは目隠しをされた後に、アルコールを数倍にしたような強烈な刺激臭放つ布を押し当てられて、
そこから意識がブラックアウトしていたのだ。その目的はおそらく此処の場所を知られないようにするためだろう。
まったく、最近は碌な目に会わない気がする。あの少女―――ノエルから聞いた名前は甲田怜と言うらしい。
後ろに束ねた黒髪と、見た目に似合わない鋭く凍るような目つきを持ち光の刃を振るう少女。
彼女に会ってから碌な目に遭っていない。自分はもともと運が良くない方ではあったが、最近は最悪といってもいい。
(まてよ…確かあいつらも甲田怜がどうのって言っていたよな?)
ディークを拉致した連中も確かにそんなことを口走っている気がするのを覚えている。
珍しい名前なので、彼女がノエルに対して偽名を使っていなければ多分同一人物なのだろう。
更に拘束具すら付けずに、部屋の中で軟禁しているこの待遇はジョウグンの時とは違う。
そこに何者かの意思が介在していることを感じ、ディークは身震いする。今の自分は生かされている。
それも、利用価値が在るためだろう。用が済めばすぐに消されるに違いない、あの時のように―――――
(落ち着け、冷静になれ…今慌てても何の解決にもならないんだ)
恐怖で気力が萎えそうになる心をディークは叱咤して冷静さを保つよう心がける。
ヤケに陥って自暴自棄になってしまえば冷静な判断をすることも出来ない。そうなると詰みだ。
しかし、敵の目的が以前とは違い全く見えない。怜が絡んでいなければ情報屋の仕事で恨みを買った線も考えられるが、
情報が欲しいなら拷問にすぐ掛ければいい。復讐したいのならさっさと痛めつければいい。
そして小さく連続する音が聞こえてきた。耳を澄ませると一定のリズムを刻みながら段々と大きくなってくる。
(誰かがここに来る…か?)
静かに、ディークはドアらしき扉のほうに身を寄せた。例の足音は一人分で間違いなくこちらに向かってくるようだ。
好機、とディークの胸に希望の光が煌いた。あの連中なら勝てる気がしないが、一人ならどうにかなるかもしれない。
連中は彼をあっさり捕らえて油断しきっているのだろう、食事を持ってくるか銃を突きつけて尋問しにやってきたのか?
罠である可能性も否定できない。だが、やらないよりやる方が脱出の成功率は確実に上がる。
それに連中には借りがある、やられてばかりではどうにも気が収まらない。銃さえ奪えれば後はなんにでもなる。
(よし……来い!)
ディークはドアの反対側に待機し、来訪者の襲来を待った。こんな場所からはさっさと離脱してやると思いながら。
ドアが開き、光が部屋に差し込む。部屋の中に影が完全に入って部屋に明かりをつけた瞬間にディークは動いた。
驚いたのかガシャン、と誰かの手に乗っていたものが床に落ちる前に男の背後に回りこみ、首を手に回して動きを封じた。
レオスから教わった体術の一環だ。やろうと思えばそのまま首をへし折ることも出来るが人の命を奪うことはしたくない。
「おい…騒がないでくれよな。俺だってこんな乱暴な事はしたくないんだぜ!」
「…な、なんなんですかっ! あなたは!?」
小奇麗な服を着た細身の初老の男が小さく抗議の声を上げ、ディークも驚いたが手を離さなかった。
この男も連中の仲間なのだろうか、人が良さそうで苦労を抱え込みそうな小男が小さく呻いている。
「あんたは…」
ディークは思わず離してしまった。老人は数回堰をしてから向き直る。
しわの目立つ顔に、やや落ち込んだ目からは少し涙が溢れていた。やりすぎたかとディークは反省する。
「私は、食事を持ってくるように頼まれただけです」
床にぶちまけられたその『食べ物』を一瞥した。自分がやったことを思い出し少し勿体無かったなと思った。
アウターでの食料は貴重なのだ。全く余裕が無いというわけではないのだが、決して粗末に扱っていいものではないという認識は何処も同じである。
それに、目の前の老人がどうしても悪人に思えなかったのだ。情報屋として何人もの人を見てきたディークなのだ。
観察眼には自身がある。稀にダイキンのようなケースがあったりするのだが。
「そうか…済まない事をしたな。で、此処は何処なんだ?」
ディークは初老の男性を放してしまう。
「申し上げられてもご存じないかと…」
「あんたが判断するんじゃなくて、俺が決める。教えてくれないか?」
「は…はい。此処は中東地区の『シール・ザ・ゲイト』内部施設でございます」
全く聞き覚えの無い単語を耳にして驚くディーク。思わず尋ね返してしまう。
「『シール・ザ・ゲイト』…? 聞いたことが無いな。コロニーの名称なのか?」
「正確には違うのですが…まぁ、構造的には似たようなものなのかもしれません」
「俺にはさっぱりわからないな……」
苦労人らしき二人は顔を見合わせて互いにため息を吐いた。
此処は上空2000メートルの空域。雲の海を黒の翼生やした鋼鉄の巨鳥が滑空する。
場所を言えばヨーロッパと中東地区の中間地点。現在は過去に石油王国として知られたアラブ地方に向かって空挺は飛んでいる。
点と点をつなぐ線で表せば、旧トルコと旧サウジアラビアを結ぶよううな航路になる。
かつて隆盛を誇っていた石油の楽園と呼ばれた王国は、いまやすっかり荒れ果て砂嵐と砂漠に侵食された死の大地と変貌していた。
「怜様。あなたをお連れするのは中東部の『シール・ザ・ゲイト』と呼ばれる場所に御座います
ご存知ありますか? かつて大昔にイスラエルという国が存在していた場所に立てられた地球上最初の『コロニー』です」
言葉を掛けられた少女は細い眉を一瞬ピクリと反応させるが、桜色の唇から吐息と共に漏れたのは短い抗議の言葉だった。
「……気安く私の名前を呼ばないで」
空挺の中の壁に体を預けて佇む、『影』を切り取ったような少女・甲田怜が顔も向けずに告げる。
いつもながら抑揚の無い声ではあるが、少しばかり苛立ちが混じっているように聞こえなくも無い。
恐らく、自分を問答無用に襲い掛かった見ず知らずのジルベルに、気安く言われたのが気に食わなかったのだろう。
ノエルの家で休んでいた時とは違い、今の彼女はとても不機嫌で不安定な状態に見えた。
「これはこれは失礼…」
ジルベルは相変わらず慇懃無礼な笑いを返して謝罪するが、口調に嘲笑の響きが混じっており額面通りに受け止められない。
尤も彼女も殺気の篭った視線で一瞥しただけで、黙っているだけであった。
「シール・ザ・ゲイトに到着するまでもう一時間半ほどですが、怜様に何か軽食でもお持ちいたしましょうか?」
「……うるさい。黙れ」
「どうやら本当に嫌われたようですな」
思わず柄から『アーク・ブレード』をチラつかせようとしたが、この男相手にむきになっても何もプラスではない。
拙い傾向だと思った。最近の自分はどうも感情的になりすぎる嫌いがある。
それが悪い意味で働いている。自分を付け狙う『獅子の片割れ』の正体もはっきりしない。
怜と同じ黒髪を持った女は自分の側に付けば力を与えるといった。信用できるものではないので頼る気にもなれない。
だが、これではあの女の言うとおりに復讐すらも果たせない。もっと大きな力が必要なのかもしれない。
あの場所を出る時にある男に渡された『アーク・ブレード』以上に強大な力が……
「貴女は何故、コロニーを出たのか」
「……」
「コロニーでは今、大きな動きが起きていることでしょう。
間違い無くアウターを飲み込むような巨大なうねり…時代の変遷というべき力がね」
クククッ、とジルベルは笑った。己の言葉に酔いしれるかのような口調で。
「ですが、世界を変えるのはコロニーの老人共ではありませんよ」
「…そんなことに興味は無いわ」
「そうですか。ですがこの流れは誰にも変えられない。巨大な力に飲み込まれるようにして変革は訪れるもの…それは歴史が証明しています。聡明なあなたにはきっと解ると思いますよ」
「…」
ジルベルの言葉を聞いてくるだけで怜は無性に癇に障った。自分が力を求めているのはそんな陳腐な目的の為じゃない。
あの女も似たようなことを自分に吹き込んできた気がする。連中は決定的に勘違いしていた。
自分が力を求めるのは『あの男』を殺し、家族に復讐を果たすためだけなのだ。逆に言えばそれさえ達成できればどうでもよかったのだ。
アウターの荒廃した地に足を踏み入れて、孤独な時間を過ごし、生きる為に殺しに手を染め、絶望の中で喘いでいる自分…
今一度、その禁忌に手を伸ばしてやってもいいかもしれない。すっかり血に塗れた自分の手を見る。
ここにいる人間を皆殺しにして、この空挺をあの男の居るコロニーに向かわせる。あそこまで距離は遠いが潜入できればどうにでもなる――――
「おや、今何か怖いことを考えてますね?」
「…」
「あえて釘を刺しておきますが、この空挺アイゼン・フリューゲル改はインプットされたコードに従う自動運転になっております
つまり、進路は変更できないということですな。すでに入力されたコマンドを解除するにしても生体認証や暗号を交えた何重ものセキュリティを主導入力した後で13桁の数字や記号を混在したパスワードを入力する必要があります。それが可能だとしてもコロニーの防衛システムは万全、すぐに撃ち落されるでしょう
そして、無駄話をしている間に到着まであと一時間…お互い疲れるようなことはやめませんか?」
「……」
怜は沈黙を貫くしかなかった。癇に障るが確かにジルベルの言うとおりだ。
それにこの男は椅子に座りつつ背後に立つ自分と応対しながらも全く隙を見せていない。間違いなく先ほどは手加減していたのだろう。
この男の実力は恐らくセルペンテと同等かそれ以上なのだろう。それに機内はジルベルの知るところだどんな仕掛けが仕込んであるかわからない。
無謀な思い込みを怜は引っ込めた。復讐は確実に遂げなければならない事は確かだろう。
薄氷を踏みつつ、石橋を数回叩く様な気持ちで実行しなければならない。あの男の首は確実に取ってみせる。
「さて、人類が遺した最後の楽園へと向かいましょう」
彼女は心の中でそう誓いながら、無言のまま決意を固めたのだった。
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