十三.龍虎

 

 

「私が戻るまで、一歩たりとも邸から出ることは罷りなりません。いいですね」

 政之丞は初を八巻邸に戻すと、再び馬腹を蹴って走り去った。

 城下中に捜索の手を放っていたらしい九郎次に引き渡すと、政之丞は珍しく怒号でもって咎めた。

 殆ど命じるような口調で、なおを張り付かせておくように九郎次を怒鳴りつけたのだ。

 九郎次も政之丞がここまで怒気を露わにしたのを見るのは初めてのことのようで、初を連れ戻してくれた礼もままならず周章狼狽する有様だった。

 家人が代わる代わるに初の無事を確かめるように喜んだが、当の初自身は既に見えなくなった政之丞の姿をその目に追う。

 赤沢家に嫁した者として、為すべきは為した。

 時間も多少は稼げただろう。

 峰に頼んだ伝令は、休まず行けば政之丞よりも早く岩角に辿り着く。

 あとは太兵衛の運と判断に委ねるよりほかにない。

 しかし太兵衛を助くことは即ち、政之丞を切り捨てることと同義。それは生家八巻家に対する不義理でもあった。

 

   ***

 

「政之丞が龍なら、太兵衛は虎だ」

 十年も前、城下の芳賀道場で席を同じくしたのは、九郎次も同様であった。

 九郎次と政之丞は共に十二、三歳の頃から門下に在籍していた。

 陰流が元の新たな流派を教える芳賀の道場では門下生もそう多くはなかった。

 他に剣を教える道場も幾つか存在していたし、何より芳賀は厳しく、なかなか免許を与えないことで有名だった。

 そうなると次第に門人は他所へ流れていき、芳賀が没するまでに残った門人はせいぜいが四、五人程度。人気は無いに等しかった。

 数少ない門人の中で、まず頭角を現したのが、政之丞より一つ上の赤沢太兵衛である。

 太兵衛は十八で免許皆伝、政之丞もその後に続いて免許皆伝となったが、試合ではとうとう互角以上にはなれずじまいだった。

 太兵衛は無口で、他の門人と慣れ親しむようなこともなく、ただ黙々と剣技を磨く求道者のような男であったと、九郎次はそう記憶している。

「まあ今も無口はそう変わらんようだが、あの男は今一つ考えが読めん。ただでも悪評の多い赤沢家に──、太兵衛におまえを託すのは、不安で仕方がなかった」

 話して聞かせる九郎次の顔には、いつになく昏い色が浮かぶ。

 政之丞の様子と、未明の初の失踪とで疲労しているようだったが、傍らのなおは更に蒼い顔で俯いていた。

 太兵衛と政之丞の接点など、初には知る由もないことだ。

 これまで太兵衛の口から政之丞について語られたことなど一度もなかったが、九郎次とは前々からどこか反目し合っている雰囲気を漂わせてはいた。

 と言っても、九郎次が一方的に敵視していたと言うほうが近い。

「初との縁談を持ちかけてきたとき、あの男は父上とおれに対して生涯通して初ひとりを愛しみ、守り抜くと宣言した。だから、何としても初を嫁にくれと言ってな」

 九郎次の話に、初ははっと顔を上げる。

「──そんなお約束を、されたのですか」

 だから、初が何度進言しても妾は要らぬとして取り合わなかったのだ。

 嫁してから一度も、そんな約定があったことすら知らぬまま過ごしてきたのである。

 太兵衛もその胸に留めたまま、初には一言も話したことはない。

 ただ家同士の均衡のために決められた縁なのだと思っていた。

 父親の赤沢清左衛門がそれまで流した浮名を思えば、そのくらいの誓いを立てねばならぬと考えたのかもしれない。

 そんな経緯があったのなら、話してくれれば良かったのだ。

 そう聞いてさえいれば、初も渋る太兵衛に何度も妾を取れなどとは言わなかった。

「政之丞のところへやるはずが、横から掻っ攫うような真似をする男だ。利にならぬことはせぬ。おれも父上も、こうして派閥が対立した時の人質にされることを懸念していた」

「太兵衛さまはそんな方ではありません!」

 初が思わず立ち上がると、控えていたなおも立ち上がり、その肩を宥めるように抑えた。

 兄妹での口論に発展しそうなのを感じ取ったのだろう。

 なおは落ち着くようにと初に着座を促し、九郎次のほうにも釘を刺す。

「しかしな、初。政之丞も想いを殺してきたはずなのだ。お前が嫁入る前、あいつはよくこの邸に来ていただろう」

 九郎次とは同い年の竹馬の友、加えてなおが八巻家に嫁してからは義理の兄弟。訪ねてくる理由は幾らでもある。

「あれはお前に会いに通っていたようなものだ。あいつも、いずれは夫婦になると信じていただろうからな」

 本当に申し訳ないことをした、と九郎次は目を伏せた。

「兄上、馬をお貸し下さい」

「はぁ?! お前、さっき政之丞にあれほど……」

「八巻家にもすぐに城から御調べがあるはずです。やはりその時、太兵衛さまも政之丞さまも生きておられねばなりません」

 初が再び立ち上がると、九郎次となおは互いの顔を見合わせた。

「御調べとは、何だ」

「それは父上がよくご存知なのではありませんか」

 

   ***

 

 次席家老赤沢清左衛門は番方上がり、対して筆頭家老の剱持は役方から上った男だ。

 そもそも反りが合わないところがあった。

 政に対する姿勢にも齟齬が目立ち、現藩主の生母を出した赤沢家が台頭するのを、剱持家は筆頭家老という最高位にありながら長年抑えきれずにいたのである。

「父上は、ご存知だったのですか」

 九郎次は掃部介に詰め寄った。

 いつの間にか雨は上がり、厚い雲の切れ間から薄日が差した。

 八巻家の庭に注ぐ柔らかな光が、蕾をつけた枝に滴る雨粒を煌めかせる。

 暫時沈黙を守った掃部介も、やがて吐息して九郎次に向き直った。

「筆頭は太兵衛を甘く見ておられたようだが、太兵衛に太刀打ち出来る者は、そう多くない」

「だからと言って、筆頭は何故政之丞にそんな真似をさせるのです」

「不意を突かれて手負いの今、太兵衛に隙は無くなっておる。秘密裏に討ち取るのは更に困難となろう。かつて同門で、太兵衛と互角であったという政之丞ならば、と踏んだようだ」

 赤沢家を御取潰しに追い込み、後世の芽も摘むつもりでいる。

 掃部介は静かにそう語った。

「清左衛門は、ちとやり過ぎた。岩角の山守や山奉行、果ては材木問屋と通じて藩の財源を私的に流用しておるのよ」

「材木問屋、ですか」

「伐採した木材を他領へ売り渡すことは禁じられている。それは知っておるな?」

 九郎次が頷くのを確かめて、掃部介は続ける。

「お上の手前、筆頭はそれに目を瞑り続けて来られたが、この凶作と財政逼迫の窮地となっても未だ改まる気配がない」

 その財源があれば、農政の改革も易くなる。

「しかし、何も太兵衛の命まで取る必要は──」

「山守の手許に、その証拠となる伐採記録があるとすればどうする。太兵衛がそれを処分する恐れがないと言えるか」

「ならばはじめから太兵衛を指揮に立てなければ良かったのではありませんか」

 勢いは奮わないまでも、九郎次はいつの間にか自分が太兵衛を庇うような物言いをしていることに気が付いた。

「こんな回りくどいことをされずとも、剱持さまの手の者で調べ上げれば済むはず……」

「太兵衛を出さねば、赤沢家に去り状を書かせることは困難だったであろう」

「………」

「城に増援と食糧、作事方を遣わすよう要請があったそうだ。しかし筆頭は捨て置いておられる」

 九郎次は目を瞠り、訝った。

 どんな被害が出ていても、動こうとしない。

 それは動く必要がない、という意味にも取れた。

 

 

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