10.初めての罰則

 体術の教師の冴嶋さえじま響岩きょうがんは、学校1怖いことで有名な男性教師である。年は50前後だが、年齢に劣らぬ筋骨隆々の体躯といかつい顔立ち。四六時中眉間に皺を寄せたような顔をしているし、見た目と名前の印象通りに声も圧が強い。だから生徒達から恐れられているのだが、実際はそれほど怒鳴らない。


 生徒が悪いことをした時のみ、雷を落とすのである。


「オイ静井ィ‼」


「はいぃっ!」


 ……こんな風に。


「戦闘科の生徒がよりにもよって体術の講義に遅刻してくるとはどういうつもりだ‼」


 冴嶋の怒鳴り声とクラス中の注目を浴び、蒼は縮こまるしかない。しかも座学の為に怒られている舞台は教室で、怒鳴り声は隅々までよく響く。教壇の真ん前に立たされた蒼は、隣のクラスにも絶対聞こえてるだろうな、廊下中にも響いているだろうなと思って更にいたたまれない。


「理由を言え‼」


「はいィ‼」


 蒼は敬礼でもしそうな勢いで返事をする。


「え、えっと……、」


「『えっと』はいらん‼」


「すみませんッ‼ ……ほ、他の科の友達のところに行ってて、時間ギリギリになっちゃったので、その……廊下を走ってしまい、」


 蒼はそれより先を続けたくなくて、一瞬口ごもった。しかしここまで話した段階でもう冴嶋が怒号を飛ばしてきそうな気配を感じる。その前にすべて言い切らねばと蒼は覚悟を決め、


「――木賀きが先生に掴まってお説教を受けていましたッ!」


 一気にその結末をまくし立てた。


 途端、誰かが吹き出しかけ、無理矢理に飲み込んだ気配がした。それを皮切りに、確かに静かではある教室に別の空気が混じり出す。緊張で張り詰めているのはそのままに、今笑ったら殺されるという別の緊張感が生まれてしまっている。


(……だから言いたくなかったのに……!)


 蒼は両手で顔を覆いたくてたまらない。この静かなる笑いの渦中に自分がいることの方が恥ずかしい。


 しかし。


「――跳躍ができて足が速いからと調子に乗るな‼」


 冴嶋の一喝に、笑いを押し殺した空気がサッと一掃された。


「1年でそこまでできる奴はそういない、それは認めよう。だがそれはお前が1年だからであってお前が特別だからじゃない!」


 蒼は凍りついた。


「戦闘科で学べば大抵の者が辿り着ける、お前はただそれが早かっただけだ。それにお前の体術はまだまだ隙が多い、お前より跳べない奴の方がそれができていることもある」


 ――わかってる、そんなこと。


 父に教えられていたのは9歳までだ。それ以降は自分でどうにかするしかなかった。だから自分の体術はひどく中途半端だ。自分が特別なんてことも、思ったことがない。


 それは風端かざはた一鞘ひさやという自分より遥かに優秀なクラスメイトがいたからではない。いなくても、同じように思っていた。


 ――だって、自分よりもずっと強い、お父さんでさえ、


「守る為に力を尽くすことが戦闘科の信条だ、見せびらかしたい為に入ったのなら辞めちまえ‼」


 ダァン‼ と力強い轟音が耳をつんざいた。教室中の生徒がすくみ上がる。


「――やめませんッ‼」


 蒼はほとんど反射で叫んでいた。それが冴嶋を含め、全員の意表を突いた。


「あたし、走るのって多分クセなんです! だから直すの、すごく、時間がかかると思う、んですけど……、でも、直しますッ! 絶対‼ ……それにその、今回は、時間の計算がちゃんとできなかったから、で……そっちも反省しています! 本当に、すいませんでしたッ‼」


 舌がもつれそうになるのを必死で立て直して、夢中で言葉を繋げていた。蒼はガバリ、と頭を下げる。


「……」


 冴嶋は何も言わない。教室が変な空気になっているのが分かる。頭を下げたまま、蒼はまずかっただろうか、と後悔し始める。自分が悪いのに、思いっきり、口答えしてしまった。


 内心ですごく不安がこみ上げてきたところに、「……フン」と冴嶋が鼻を鳴らした。蒼は頭を下げた体勢のまま、瞬いた。さっきまでの怒気が、薄れている。


「――罰則は罰則だ。お前、放課後道場の掃除だからな」


 あれ、これ……許してもらえた、のかな? 蒼は恐る恐る顔を上げる。冴嶋は優しい顔をしてはいなかったが、咎めるような顔をしてもいなかった。蒼がどう返事をしようか迷っていると、


「……狭見はざみと風端とな」


 ……「やめちまえ」よりも遥かにキツイ爆弾が投下された。






 そして、次の休み時間。


「うるせぇな、そんなに掃除が嫌なのか」


「そ、そうではないんですけどっ!」


 蒼は、教室を出て行こうとする冴嶋に食い下がっていた。


「けど何だ」


「それは~その……」


 冴嶋に大層鬱陶し気な顔で見下ろされる。上手く説得できる自信がないが、言い募るしかない。


「……そう、何で私1人じゃないんですか⁉ 今の講義でみんなに迷惑かけたのは、あたしだけなのに!」


 理由を言うわけにもいかず、蒼はそれっぽい言い分で冴嶋を見上げた。


 あの階段での失言以来、蒼は二大問題児の顔を見られないでいる。向こうも話しかけたりはしてこないが、脛に傷持つ身の蒼としては3人だけにされるなんて地獄だ。


「狭見は実技の最中も関係ない本読んでばっかだったからな、最近。風端の方は生徒立ち入り禁止区域に今朝平気な顔でいやがった」


 冴嶋が苛立たし気にちっと舌打ちした。


「とにかく、お前も同じ括りだ。いいな!」


 冴嶋は遠慮容赦なく蒼を指差し断言すると、乱暴な足取りで教室を出て行ってしまった。


「ちょっ待って……えぇ~~~そんなあぁ……‼」


 蒼は挫折した人そのものにその場に膝をつき、ガクリとうなだれた。少し離れたところでその様子を見ていた男子が「お前意外と度胸あるよな……」と引き気味に言ってきたが、今の蒼にはそれを気にする余裕もない。






 そして迎えた放課後。


 ――……早く終わらせればいいんだよね、うん!


 ほとんど走っているに近い歩調で、蒼は道場を目指して歩いていた。一応、冴嶋に怒られたのが効いて反省しているのである。


 戦闘科は実用的な身のこなしの他、剣道・柔道・弓道等も習う。戦う相手が妖だけとは限らず人間になる時もあるし、妖であるとしても術ばかりが有効とは限らないからだ。


 ちなみに蒼達1年生は、夏休み明けから道場を使うことになっている。


「し、失礼しま~す……」


 蒼は道場の扉をそろそろ~っと開けた。途端、緑を含んだ清々しい風の匂いに、道場らしい独特の匂いが混ざる。


 木でできたツルツルの床が広がっていた。実技棟ほど広大ではないが、同時に何試合も行えるぐらいには広々としている。既に冴嶋と二大問題児が揃っていて、この時ばかりは冴嶋が仏に見えてくる。蒼が中に入り扉を閉めると、冴嶋が指示を出した。


「この道場、掃き掃除をしてから隅々まで雑巾がけしろ。終わったら職員室にいるから俺を呼びに来い。合格だったら帰してやる」


 それだけを端的に伝えた冴嶋は、スタスタと道場を出てしまう。


 ――えぇ―――いてくれないのぉ⁉ 救いを求める手もむなしく、冴嶋は無慈悲にも扉をピシャッと閉めてしまった。


 ……や、やっぱり鬼だった―――‼


 蒼としては頭を抱える他ない。


「おい、さっさと終わらすぞ」


 そんな蒼を置き去りにして、一鞘はテキパキと動き始めていた。道場の隅にある部屋の扉を開け、そこから掃除道具を引っ張り出している。姫織いおりも無言でそれに続く。


「あぁっ、はい!」


 蒼も慌てて、その後を追う。用具室に入ろうとすると、箒を手にした姫織が脇をすり抜けていく。入れ替わりに蒼が顔を出すと、一鞘に「ん」と箒とちりとりを手渡された。蒼は反射的にそれを受け取った。


「バケツに水くんでくるから、お前らは掃き掃除やってろ」


 そう言い置いて、一鞘は空のバケツを手に道場を出て行く。その際、扉を大きく開け放して。


「……」


 蒼はそんな一鞘の背中を、気まずいのも忘れてぽかんと見つめてしまった。そうして、今度はまだ一言もしゃべっていない姫織の方をふり返った。姫織は1番奥から、ただ黙々と箒を動かしている。


(い、意外過ぎる……)


 てっきり、「めんどくせぇ」とか「時間の無駄」とか言って、サボるかと思っていたのに。そういえば冴嶋も、指示を出しただけで見張るそぶりひとつ見せなかった。


 しかし、そうやってぽかーんとしてばかりもいられない。蒼も姫織がいるのとは反対側の奥から掃いていると、一鞘がバケツ2つを持って帰って来た。どちらもたっぷり水が入っていることが、遠目にもはっきりと分かった。


(……まさかのいい人⁉)


 蒼が愕然としていると、その視線に気が付いたように一鞘がこちらを訝しげに見てきた。蒼は慌てて視線を下げ、掃除に集中してますよアピールでその場をやり過ごした。






 そうして、罰則は想像以上に早く終わらせることができた。一鞘も姫織も必要以上に口を利くことがなく、蒼に対して嫌そうな素振りも別に見せない。だから、ただ純粋に掃除をしただけの時間であった。


 広々とした道場を雑巾がけするのはなかなか大変だったが、蒼としてはいい汗かいたな、といったところだ。足腰は鍛えている方である。一鞘に至っては汗ひとつかいていない。


 例外といえば、壁にもたれて座り込んでいる姫織だけだ。ここからでは後ろ姿しか見えないが、心なしか髪がほつれているような。


 ……とはいえ、掃除は無事終わった。一鞘がテキパキと指示を出したり力仕事を率先してやってくれて、姫織が細かいところまでせっせとやってくれたからだ。そのことには感謝しつつ、これでやっと2人から離れられる、という安堵感の方が蒼にとっては大きい。


「じゃああたし、先生呼んでく――、」


「ちょっと待て」


 すっかり安心しきった蒼が扉へと向かおうとした途端、一鞘が目の前に立ち塞がってきた。


「え、な、何……?」


 顔を引きつらせた蒼の前で、一鞘が扉へとスタスタ歩いて行く。そして風通しを良くする為に開け放っていた扉を、何故か閉じてしまった。どぉん、と妙に重々しい音が、3人しかいない空間に響き渡る。


 ふり返った一鞘は、鋭く蒼を見据えていた。


「話がある。ただし――他言無用だ」


 蒼はやっとの思いで、うなずくことしかできなかった。

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