4/11 金曜日

 僕がこの手で彼女を殺せるような人間だったなら、きっと楽に生きられたに違いない。

 怒りや悲しみを恨みに変えて、仕返しすることもいとわない。そんな性格だったならこんなにも苦しまずに済んだはずだ。いや、そもそも終わってしまった恋愛になんて苦しむこともなく前を向いていけたのかもしれない。

 ポケットに右手を入れると中指の先に硬いものが触れた。

 あのときの彼女の表情、しぐさ、声が思い出せない。ぽっかりと抜け落ちてしまった記憶なら、こんなものも捨ててしまえばいいのに。

 取り出した銀色の指輪へ目を落とす。

 その背景に京浜東北線の車両が音を立てて通り過ぎていった。あとを追いかけるように山手線も走り去る。


 僕は指輪をきつく握りしめた。

 この跨線橋から、下を走る電車に向かって投げ捨ててしまえたら明日は笑顔になれるだろうか。いっそのこと僕自身をあの線路に……。


「こんなところで何をしてるんだよ、山田」


 振り返ると、チェック柄のダッフルコートを着た青年が立っていた。背だけでなく肩幅も大きい。彼は小さな顔をくしゃっとさせて歯を見せた。


「あの、人違いじゃ……。僕は――」

「あの駅のコンコースで白いピアノを弾いていただろ」


 ここから見える新しい駅を彼が指さした。僕の胸にとげがささる。


「え……。あ、はい」

「初めて見たときは驚いたよ。ピアノのそばに立っていた警備員がいきなり弾きはじめるんだから」


 そうか、彼も僕の演奏を聴いてくれたんだ。彼女も同じようなことを言っていたっけ。

 握った拳のなかで指輪のダイヤが僕の肌に食い込んでいく。


「じゃ、行こうか」


 彼が僕の腕をつかんだ。濡れたタオルが巻きついたみたいに、冷たい彼の手に捉えられた。


「え、どこに行くんですか」

「この先に公園があるだろ。ちょっと山田の話を聞きたいんだ」


 だから、僕は山田じゃない。


 見知らぬ彼についてきたのは、もう何をされようとどうでもよかったからだけじゃない。僕の演奏を聴いてくれた人の声を知りたかった。

 彼女の声しか知らなかったから。

 小さな公園には外灯が一本しかなくて、僕たちが座ったベンチを照らすことはなかった。


「あのぉ、話って何ですか」

「話をしたいのは山田のほうだろ。言いたいことを聞いてやるよ」


 この人はいったい何なんだろう。上から目線だけれどずっと笑みを浮かべて、掛ける言葉もどこか優しい。不思議だ。


「それじゃ、一つ聞いてもいいですか」

「なに?」

「僕の演奏、どうでしたか」


 彼は「うーん」と唸るとひざの上にひじを置いて体を前に傾けた。

 そのままこちらを見ずに口を開く。


「驚いたよ。警備員の服を着ていたことだけじゃなくって、演奏が素晴らしかった。音楽のことはよく分からないけどさ、感動した。ただ……」


 薄暗がりのなか、彼が僕へ顔を向けた。


「今日の演奏は山田が泣いているように見えたな。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら弾いているように。だから気になってさ、後をつけてきたってわけ」


 僕は言葉に詰まってしまった。

 彼の言うとおり、今日は辛くて辛くて弾く気にはならなかったのだけれど、待ってくれている人たちがいたから何とかピアノの前に座れたんだ。

 もっと感情を込めた演奏を、と言われ続けてきた僕が……。それもだなんて皮肉なものだ。

 僕は彼女とのことを、ときどき鼻をすすりながら彼に話した。


 やっと見つけた仕事がストリートピアノの警備で、ある日、思い切って警備を交代したあとで弾いてみたら、彼女から声をかけてくれた。

 感動した、素敵だったと言われて有頂天になった僕は、次のシフトのときにも弾くからと彼女を誘った。約束通り、聴きに来てくれた彼女と僕はつき合うことになった。

 食べたいというレストランへ行き、欲しいというバッグやアクセサリーもプレゼントした。

 彼女と二人で過ごす時間はいつも幸福で満たされていた。

 だから……。だから、この指輪を贈ったのに。

 もっと前から気づくべきだったのかもしれないけれど、忙しいという彼女の言葉を僕は信じていた。

 二百万円あった僕の貯金が底をついてしまったことは関係ないと信じている。

 いや、信じたい。


「こんな話、笑っちゃいますよね」

「いや、笑えないコメディだな」


 彼の言葉は正しい。

 笑い飛ばそうとしてもゆがんだ泣き顔になってしまう。 


「僕なんて何もできない、どうしようもない奴なんです」

「そんなことはないさ。山田の演奏を楽しみにしている人はたくさんいるだろ。ソナムだってわざわざお前の演奏を聴くためにあの場所へ行ったんだぞ」


 僕は顔を上げられずにいた。


「彼女が憎いのか」

「……殺したいほど愛おしい」


 絞りだしたつぶやきは闇にまぎれた。


「そうか。それじゃ、俺が殺してやるよ。そんな顔するなよ、人は見かけによらないっていうだろ。警備員の服を着たピアニストがいるように、こんな良い人の殺し屋もいるんだよ」


 彼の突拍子もない嘘に思わず笑ってしまった。

 僕を励ますつもりなんだな。それなら、その嘘に乗っかってみよう。


「貯金も無くなったって言ったでしょ。依頼するお金が払えません」

「その指輪でいいよ」


 彼は僕の手を指さした。

 ずっと握っていた指輪のこと、気づいていたのか。

 ゆっくりと彼に差し出すと少し気持ちが軽くなった。


「もう山田には必要ないんだろ」

「そうですね」


 もう僕の名前なんかどうでもいい。前に進まなきゃ。でも――。


「彼女を信じたい思いも残ってるんです」

「まだそんなこと言ってるのかよ。山田は優しいんだな。それじゃ、こうしよう。彼女がこの指輪を見て、山田のことを覚えていたら殺さずに、指輪も彼女へ渡す。それならいいよな?」


 まだ殺し屋を演じているのか。それなら最後までつき合うか。

 僕はうなずいて、彼女の名前や連絡先、写真を彼のスマホへ送った。これで区切りがついた気がしてきた。


「山田の演奏を楽しみにしている人がいるんだから。それを忘れるなよ」


 にぃっと笑って彼はいなくなった。

 結局、名前も聞けなかった。ひょっとしたら神様だったのかもしれないな。

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