1-10 黒龍

 その後は何日もかけて、カジと一緒に色々な場所を見て回った。

 世界を救った勇者の像や神話の世界が描かれた壁画、千年以上前にドワーフが作ったとされる古城、氷漬けで封印された古の魔物、小さな町一つほどの大きさを誇る巨大な怪鳥の巣、世界の裏側まで続くとされる深く果てしない地の裂け目、魔素が光って蛍のように飛び交う不思議な洞窟など。

 とにかくすべてが刺激的で、まさに異世界のような光景だった。

「写真に収められないのが残念だな……」

 その美しい景色を今この瞬間しか楽しめないのが残念でならなかった。せめていつでも思い出せるように、目を見開いて脳裏に焼き付ける。

「また見たくなったらもう一度ここに来ればいいんだよ。ここはそういう世界なんだ」

 そんな必死な僕をカジは笑い飛ばした。そうだ、ここは自由な世界だった。自分が見たいと思ったものを見て、行きたいと思ったところに行ける。未だ元の世界の感覚が抜け切らず、その自由というものが上手く想像できていなかった。

「そろそろちゃんとした飯が恋しくなってきたし、街の方に戻るか」

 およそ二週間をかけて周辺にある観光地を巡り尽くした僕たちは、一旦ウェルデンへと帰ることにした。

 旅をしている間は現地調達した食材を焼いて食べる程度だったので、彼の言う通り、街で食べたちゃんとした料理が恋しい。屋台にあるジャンクな味は、想像しただけで口の中が湿ってきた。

 ここからウェルデンまでは歩いて丸一日くらい。カジに連れ回されているうちに、何となくこの周辺の地理もわかるようになってきた。今いる森を抜け、郊外の牧草地帯を超えると街の門が見えてくるはずだ。

 進む方向を確認しようと、太陽の位置をもとにぐるりと辺りを見回す。

「ん? あれ、なんだろう?」

 僕はちょうど進行方向とは逆側に、何やら黒い煙が上がっているのを見つけた。

「山火事、とかじゃないよね……」

 火の手までは見えなかったが、どうやら木が燃えているようだった。

「この辺りは火を扱う魔物はいないはずだからな……。誰かが焚火の不始末で火事を起こしたか、火属性魔法でも練習してるのかもな。ただ、あの煙ならそこまで大事にはならないだろう」

 確かに、煙と言っても狼煙程度のものだったので、おそらくちょっとしたぼやだと思われた。一応、様子を見に行こうとそちらに足を向ける。

 しかし、まるでそんな僕たちを拒むように、大きな地響きが大地を揺らした。急な振動によろめきながら、慌てて震源の方を向くと、先ほど煙が上がっていた辺りから、今度は真っ赤な火柱が立ち上っている。

「火を扱う魔物はいないんじゃ……」

 視線の先には、口元に火を携えた巨大な竜の姿があった。

「あれは、黒龍だ……。こんなところにいるはずもない、伝説級の魔物だぞ」

 黒龍はかつて魔王軍の主戦力として活躍したが、魔王討伐が達成された際に、戦いの中でその数を大きく減らした。現在は西の辺境の地のみを棲家として、緩やかに絶滅の一途を辿っている魔物だった。

「どうしてそんな魔物が……?」

「わからん。ただ、とにかく今は逃げた方がよさそうだ」

 カジ曰く、まともに戦闘になれば到底勝てる相手ではないようだった。幸いなことに、向こうはまだこちらに気付いていない。この隙に安全なところに隠れてやり過ごすのがよさそうだった。

「いや、ちょっと待って」

 息を殺して踵を返そうとしたそのとき、何やら黒龍の頭に光の玉が当たって弾けるのが見えた。

「もしかして、誰かが戦ってるのかもしれない」

 明らかに第三者からの攻撃が黒龍の頭を狙っていた。しかし、黒龍に当たった魔力の塊は線香花火のように虚しく火花を散らすだけで、全く期待される効果は得られていないようだった。

「お生憎様だが、俺たちにとっては好都合だな。誰かさんが気を引いておいてくれる間に逃げるぞ」

「でも……」

 今あの場所で誰かが危機に瀕している。それを考えると、すぐに逃げてしまおうという気になれなかった。

「俺たちが行ったって被害者が増えるだけだよ。ましてや戦えないお前が割り込んだところで、足手まといになるのが関の山だろう? この世界は日本と違って弱肉強食。どうしようもないときだってあるのさ。割り切って自分の身は自分で守るしかない」

 彼の言うことは正しかった。ろくに剣も振るえない僕にできることは何もない。

「おい、早くしろ! こっちもいつ気付かれるかわからねえぞ」

 そう言って彼は立ち尽くす僕の手を引っ張る。

 ――助けて。

 燃え盛る炎が迫りくる中から、微かに、助けを呼ぶ声が聞こえた。弱々しく、今にも消え入りそうな声だったが、確かに僕の耳に届いた。

「ごめん!」

 僕はカジの手を振りほどくと、炎の中に向かって走り出した。どうしてそうしたのかはわからない。気付いたときには身体が動いていた。

 肌を焼くような熱気に気圧されながらも、耳の中に残った声を頼りに進む。黒龍が見えた方へと近づくにつれて、周囲を取り囲む炎の勢いも増していった。生き物たちを優しく包み込むような美しい緑に溢れていた森は、瞬く間に何者をも寄せ付けない残酷な世界へと様変わりしてしまっていた。

 降りかかる火の粉を避けながら走り続け、ようやく炎が途切れて開けた空間に出た。

 息を整えながら顔を上げると、目の前に一人の少女が倒れているのを見つける。おそらく先ほど聞こえた声の主だろう。

「大丈夫!?」

 僕は彼女に駆け寄ろうと慌てて足を踏み出す。

 しかし、突然金縛りに遭ったような感覚に襲われた。炎に囲まれているせいで熱気に満ちているはずなのに、一瞬にして悪寒が全身を駆け巡る。自分の掌を見つめると、抗えない恐怖に身体を支配されているかのように激しく震えていた。

 そしてすぐに、この得体の知れない感覚の正体を把握する。

「黒、龍……」

 固まってしまった身体をゆっくりと動かして右を向く。そこには炎に照らされて怪しげに輝く、黒く、巨大な竜の姿があった。

 僕はいかに自分が無謀なことをしでかしたのかをようやく理解した。その雄々しく禍々しい姿の前に、僕という人間の存在はあまりにもちっぽけだった。黒龍は床に落ちたゴミを見つけたかのように、小さな僕を見下ろしている。

 どうすることもできなかった。戦うとか、逃げるとか、そんなことすらも思いつかない。ただ、目の前の存在に圧倒されていた。

 黒龍がまるで深呼吸をするかのように、首を上げて息を吸い込む。

 ――僕はここで死ぬのか。

 数秒後には埃を払うように放たれた黒龍の吐息が僕を焼き尽くす。そんな光景がありありと想像することができた。

 先ほどまで感じていた恐怖は消え、緊張から解けたように全身が脱力する。不思議と頭が冴えていて、時の流れがゆっくりと感じられた。残念ながら走馬灯は見えなかったが、それは思い出すほどの記憶がなかったからかもしれない。

 視界を覆い隠すように近づいてくる鮮やかな炎の色を前にして、僕はそれを受け入れるようにゆっくりと目を閉じた。

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