第36話
「は……?」
女の子とのご飯から帰った僕を、一茶が鋭い目で睨みつけた。
きっと、なにか誤解している。確かに僕は不誠実なことをしたし、なんなら浮気だと思われても仕方がない。でも。詩音くんは、こんなことじゃ傷つかないはずだ。だって。
詩音くんが僕のことをちゃんと恋愛的な意味で好きだったら、僕だってこんなことははなからしていないのだから。
「……すまんな、せっかくご飯作ってくれたのに。もっと早く連絡すればよかったな」
一茶が相変わらずの視線を向けるのを無視して、確かに一茶に害を与えた悪事に対して謝罪を述べる。
「そういう問題じゃねぇだろ」
いたずらっ子なひなたや詩音くんはともかくとして、僕には決して向けられたことのなかった低く威圧感を与える声。僕は始めてのそれが怖くて。今日の朝までは指輪のはまっていた左手の薬指を摩りながら、僕を引き留めようとする一茶の腕をすり抜けて足早にリビングへと足を踏み入れた。
背後からは、僕を呼ぶ一茶の声が聞こえる。でもその声も、テーブルに用意されたラップのかかった料理も、見てみるふりして。リビングを通り過ぎ洗面台へ向かった。
電気のスイッチを肘で押してから、手を洗おうと蛇口へ手を伸ばす。ふと、視線を感じた気がした。その主は見なくてもなんとなくわかる。でも、彼の表情を明るいところで確認したくて。僕は顔を上げた。
目の前の鏡には、いつもと変わらぬ様子の僕の隣に詩音くんが映っていた。
「楓、それ持つよ。あと、上着脱いで」
右腕にかかったトートバックが取り上げられる。僕のコートの襟を持つ詩音くんは怒っている風でもなく、また悲しそうでもなくて。安堵感を抱くと同時に、彼は本当に僕に興味がないのだとしみじみと感じさせられた。
「ありがと」
肩から少し浮かせられたコートの袖から両腕を抜き、それを詩音くんへ託して手を洗う。何度か繰り返し洗ってから手の匂いを嗅ぐと、詩音くんがふふと笑った。
「なんか、嫌なことでもあったの?」
「いや、別にないで……?」
「あーそっ。俺服持ってきとくからお風呂入っておいで」
一見素っ気ない返事をする彼だけれど、そんな彼の表情は明るかった。
そういえば。確かに詩音くんは普段から優しいけれど。ここまで気を遣われたことは初めてな気がする。なにかいいことがあったのだろうか。それとも。
僕が女の子とご飯に行ったことが、嬉しかったのだろうか。
「……うん」
僕はそう小さく頷いて、お風呂へと向かった。
ポケットにあったスマホを鏡の横に置いてから服を洗濯ネットへ入れて、洗濯機へ投げ込み体を震わせながら浴室へ駆けこむ。そこは脱衣所より明らかに温かくて、湯船からはもくもくと湯気があがっていた。きっと、詩音くんがあらかじめ準備していてくれたのだろう。
この暖かい空気を逃がしたくなくて、後ろ手にしっかりと扉を閉めてから湯船へと手を浸ける。それは少しだけ熱めで、僕好みの温度だった。
湯船に全身を浸けると、一気に体が温まる感覚と同時に疲れが抜けていくような感覚に陥った。しばらくここで休むことにしよう。お風呂の淵に腕を乗せて、その上に顎を置く。そして、僕はぼーっと、思いを巡らせた。
詩音くんは、全く怒ってくれなかったなぁ。怒られることを期待していたわけではないけれど、改めて考えると少しばかり寂しさを覚える。この調子なら、もしかしたら詩音くんは僕が別れを告げたところでどうとも思わないのかもしれない。
そうか、と今更気づく。僕は、詩音くんに怒ってほしかったんだ。
最初は、僕だって真剣に彼女のことを考えているつもりだった。いいお店でいいものを食べて、あわよくばいい雰囲気になって告白なんかされてしまえば、自分も好きになれるかもしれないと思っていた。だって、彼女はそれくらい確実に僕のことが好きだった。なのに。
気づいたら、僕の方から彼女に直接的な言葉を言わせないようにしていた。
断り方が、わからなかったから。
はぁ、と大きなため息を一つ。
典型的な悪い男に引っ掛かる自分に反吐が出る。
もっと大切にしてくれる人、誠実な人、優しい人、様々素敵な人はたくさんいるはずなのに、最後に詩音くんを選ぶなんて。結局人間は顔なんだ。そう思うとなんだか悔しくて、気が付くと眉間に皺が寄った。
少し、ムカつく。きっと、僕みたいに詩音くんに現在進行形で振り回されている女の子、少なくともあと5人はいると思う。
「絶対別れてやる」
僕はそう呟いて、重くなってきていた瞼を閉じた。
──
「楓~?」
声が聞こえた。顔をあげると、そこには詩音くんがいた。なんだか、とっても優しい顔だった。
「風呂で寝たらだめでしょ」
僕が目を覚ましたことに気が付いた詩音くんは、そう叱りながらも優しく、ポンポンと僕の頭を撫でてくれた。
「もっと撫でて」と、寝ぼけた僕が駄々をこねる。
「しょうがないなぁ」と詩音くんは要望通り、優しく僕の頭を撫で続けた。
そのごつごつした大きな手は心地よくて、思わず再び瞼が下がる。
きっと、このまま寝たら再び叱られると思う。でも。この瞬間があまりにも幸せで。僕は再び意識を手放すのだった。
──
目が覚めた。
顔を上げると、そこに詩音くんはいなかった。代わりにあるのは、冷えた空気、ぬるくなった湯。
僕の体は完全に冷え切っていて、このままだと風邪を引きそうだ。
どうやら、全ては夢だったようだった。
わかっていた。詩音くんが、あんなに優しい顔で僕の頭を撫でてくれるわけはないと。
少し空いた扉の隙間からは、用意した覚えのないタオルや部屋着が確認できる。きっと、詩音くんが用意してくれたのだろう。
「出るかぁ」
僕は悲しみのような、諦めのような、それでいて安心したような、そんな気持ちを発散するように独り言を零して湯船を後にした。そこからはシャンプーを二回に、トリートメントを一回、そして体を二度洗ってからようやく浴室を出る。
浴室を出るとそこには既に、鏡の前の椅子でスマホと睨めっこをする詩音くんが待機していた。ゲームのBGMに合わせて、詩音くんの体が揺れる。さっきからずっと機嫌がよいとは思っていたけれど、なにやらよりご機嫌度も増しているようだ。ゲームのガチャ結果でもよかったのだろうか。タオルで髪の毛を拭きながら、僕はぼーっとそんなことを考えた。
ふいに、彼の顔が上がる。彼はハッと目を丸めて顔を逸らした。
「楓、タオル巻くか服着るかしてよ!」
そう頬を膨らませる彼の耳は本当に真っ赤に染まっていて、結構本気で言われていることが伺える。
「勝手に脱衣所入ってきておいて何を言うてるん」
僕は至極真っ当な返しをしたと思うが、それでも彼は「でも」と食い下がってぼそぼそと何かを言っていた。もちろん、そんなのは僕の耳には入らない。そもそも、今更たかが体を見ただけでなんだというのだろうか。
彼の言葉を無視して髪を拭き終え、タオルを洗濯機へ投げ込んでから今度は大きなタオルで体を拭きあげる。そうして服を着終わったとき、詩音くんはようやく僕の方へと向き直った。
「もー、せっかく彼氏が髪乾かしに来てあげたのに」
「そー? 別にええのに。詩音くんドライヤーできひんやろ」
「使ったことくらいあるって!」
詩音くんがわざわざ立ち上がり、僕の腕を引いて椅子へと座らせる。詩音くん、自分にはドライヤーなんて使わないくせに、と僕は思う。本当に無神経な男だ。
ドライヤーのプラグを持った詩音くんの右手が僕の横を通り過ぎ、鏡の隣に着いたコンセントへそれを刺す。そして、その手は丁度その下にあった僕のスマホを拾い上げた。僕が、お風呂へ入る前にポケットから出しておいたものだ。
「ごめんね、楓」と詩音くんが言う。
謝る割に彼は一切の罪悪感も感じさせない顔でそれを僕へと差し出した。なんだ、と思う。しかし、そのわけを理解するまでにそう時間はかからなかった。それは、本体の角度の変化を感知してスマホが画面に通知を表示したからだ。
『先輩、今日はありがとうございました。』
それは、例の後輩からのメッセージだった。小さな通知欄に収まらないその文章の後半は表示されていないのでわからないが、おおよそ今日のご飯の感想などが記載されていることが予想できる。一見、なんの変哲もないただのやりとりだ。
問題は長文メッセージにならないためにか、ご丁寧に区切られて送られた最後の一言だった。
『先輩も、先輩の好きな人と幸せになれるように頑張ってください』
なるほど、と思う。顔をあげると、鏡越しに目が合った詩音くんはそれはそれは愉快そうに目を細めてから、ドライヤーを起動した。
性格の悪いやつだ、と思う。しかし、なんだかもうどうでもよかった。手にしたスマホを再び鏡の横に置き、目を瞑る。視界が遮られた分、暖かな詩音くんの掌を感じられて心地が良かった。
「返信しないの?」と、詩音くんは僕の耳元で囁いた。
「明日謝っとくわ」
目を閉じたまま応えると、詩音くんはふふと息を零した。
「振られてやんの」
僕をいつも雑に扱う詩音くんは、何故かとても満足そうだった。
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