第34話

「楓、小腹空かない? 今からひなたとコンビニ行くんだけど」


 扉の向こうから、詩音くんの陽気な声が聞こえてくる。ご飯は一茶が作り置きして行ってくれたものがあると言っていたが、それでもまだ食べ足りないらしい二人が少し前から何か食べたいと騒いでいる声は部屋まで届いていた。


「僕はええわ。行っておいで」


 すっかり暇してしまっていた僕だけれど、手元の本にある小さな文字からは目を離すことなく雑に彼らを追い払って再び物語へ意識を向ける。随分と前に購入したそれは、相変わらず僕の気質には合わず思わず大きなあくびが漏れた。

 こんなことなら、バイトでも入れておくんだった。はぁ、とため息を一つ。栞も挟まず本を閉じて、教科書ばかりが並ぶ棚の端っこへそれをねじ込んだ。

 机にうつ伏せに置かれたスマホを拾い上げるが、表示された数字は以前見た時とほとんど変わることはない。一茶のバイトが終わるまではまだまだかかりそうだ。しかし。

 僕に好都合なことが一つだけある。それは、扉の外が随分と静かになったことだった。もう二人はコンビニへ出かけて行ったのだろう。これでようやく部屋からも出れる。扉を開くと案の定横たわる沈黙に心地よさを感じながら、僕は急いで冷蔵庫へと向かった。


 冷蔵庫の中には、僕のためにわざわざ一茶が作ってくれた彩り豊かな昼食が残っている。ひなたと詩音くんには食べてもいいと言ったが、そうはしなかったらしい。さすがの鈍感二人組でもそれは気が引けたのだろう。


 一茶に申し訳ないとは思いつつも料理を素通りしてその隣の見慣れないお酒の缶を両手で二本取り出すと、キンキンに冷えたそれに思わず身震いがした。服の袖越しに掴めばよかったと後悔しながらも二の腕で冷蔵庫の扉を閉め、二人が戻ってくる前にと僕はまた部屋へと急いだ。


 部屋へ戻ると暖かい空気が身を包むのと同時に、仄かにアルコールの香りが鼻腔をくすぐる。これはいつも寝具に使用している除菌のためのアルコールの匂いでなく、単に昨日の夜飲んだお酒の残り香だろう。また一茶に怒られそうだ、と僕は慌ててテーブルへ缶を置き、棚に常備された除菌スプレーを部屋へ振りまいてから腰を降ろした。


 昨日も飲んだし、今日はやめておこうかとも思っていたけれど。全部全部、詩音くんが悪い。僕はそう彼へ責任を擦り付けて、新発売の文字が印字されている詩音くんが買ってきたお酒に手を付けた。

 カシュ、という音と共に立つ飛沫から香るのは酸っぱい梅の香り。僕は特別好きではないけれど、詩音くんが好きそうだ。でも。もう知らない。そんなまるでガキのような気持ちで、手にしたそれをぐいと呷る。それは思った以上に酸っぱくて、つい眉間に皺が寄った。でも。

 お酒を飲んだという事実だけでなんだか気持ちが楽になった気がした。だらしなくもその場にごろんと横になると、カーペット越しでもやっぱり床はひんやりしていて少しだけ寒かった。


 詩音くんの部屋は、寒くなかったのに。ベッドの上に相変わらずの無表情で鎮座する彼のくれたくまを見て、ふとそう思った。それもそうか。詩音くんの部屋は常に大きなパソコンやモニターが起動しているし、僕がいる時は大抵詩音くんもいる。なんでもあるはずなのになにもない僕の部屋と違って、活気があった。暖かいのも当然だ。

 せめて、と思いベッドの傍まで這っていき白色のクマのぬいぐるみを引きずり下ろして抱きしめる。やっぱり相変わらずひなたの香りばかり目立つそのクマは、今は詩音くんの香りよりも何倍も僕の気持ちを和らげた。


 詩音くんはきっと、もう僕のことを恋人としてなんて見ていない。ただ、詩音くんはいい人だから。だから、同情の気持ちだけで付き合ってくれているに違いない。それは、何度も行為の誘いを断られている時点で明確だった。それならば。いっそのこと振ってくれた方が楽だ、と僕は思う。でも、詩音くんはいい人だけどワルイ男だから。だからきっと、自分から振ったりはしないで。そして。

 ここまで思考したところで、ふと気が付いた。なるほど、これなら合点がいく。そうか。詩音くんは。


 ──僕から振ってくれるのを、待ってたのか。


 テーブルへ戻り再び呷った梅のお酒は、さっきよりも更に塩分が増していた気がした。






 お酒をようやく一本飲み干せそうな頃。さすがは詩音くんの買ってきたお酒なだけあって、その一本だけでも僕は随分と思考回路を乱されていた。さっきまでは寒くて不快だった冷たいカーペットも、今やひんやりとしていて気持ちがいい。そのままこの微睡に任せて意識を手放そうとしたとき。急に扉の外が騒がしくなった。


「楓、ただいまー」

「美味いもん作るよー」


 なにやらテンションの高い二人の声が、隔てた壁をも突き破って耳に届く。しかし。生憎、寝つきの良さには自信があった。彼らの声を無視して目を瞑ると、初めはハッキリと聞こえていた言葉も次第に何を言っているのかわからなくなり、最後には完璧に聞こえなく……なりかけた。そうならなかったのは、僕の背後の扉が勢いよく開いたからだ。

 慌てて体を起こして音のした方へ振り返る。そこにはむっとして、少しおどけて両頬を膨らませる詩音くんが立っていた。


「楓、まぁた飲んでる」


 慌てて部屋へ駆け入った彼は僕のテーブルへ置かれた缶を二本持ち上げ、そのうちの開いた缶を軽く振った。ちゃぽちゃぽと残った水分が混ざり合う音が立つ。詩音くんは躊躇いもなく残りを一気に飲み干してから音を立ててテーブルへそれを置いた。


「うわぁ、炭酸抜けてる」


 眉を顰める彼は、こんなに下から見上げてもやっぱりかっこいい。

 片手で空になったものも含め二本の缶を持ち上げた彼は、うっとりと彼を見上げる僕の腕をがっしりと掴みそのまま強く引き上げた。


「おいで。少し寝てていいから」


 優しい口調とは裏腹に、掴まれた腕が痛い。しかし、目の前がゆらゆらと揺れる中頼れるものはこの彼の片腕しかなく、渋々にでもその片腕に寄りかかるしかない。


「っはは、俺のお酒飲んだ罪滅ぼし?」

 と、詩音くんは上機嫌にケラケラと笑い声をあげた。





 と、そこまでは覚えている。次に目を覚ましたのはリビングのソファの上。ひなたが必死に僕の体を揺さぶっている。


「楓、死ぬなぁぁ!」


 まるで戦場の出来事のように声を荒げる彼だが、目が合うや否やふっと笑って僕の肩を強く叩いた。


「あ。起きたの、飲んだくれ」

「うっさいねんあほ」


 寝起きからやかましい彼を無視して体を起こし、わしゃわしゃと頭を掻きむしる。相変わらず晴れない頭だが、飲む前よりかは気分が良かった。


「楓、髪ぐしゃぐしゃだよ」

「お前に言われたないわ」

 

 いつも寝ぐせすら直さないひなたを小突くと、彼はへへと笑って僕の髪を引っ張った。


「詩音くんいるのにいいの?」

「うっせ。なんであんな男のためにかっこよくおらなあかんねん」

「でも好きなくせに」

「当たり前やろあほ」


 右脳の働くままにひなたの言葉をズバズバと切り捨てる。それでも彼は相変わらず機嫌がよさそうにソファの横でクフクフと肩を揺らした。


「楓まだ酔ってんの?」

「酔ってへんわ」


 僕の返答を聞き、彼はまた実に愉快そうに声を上げる。きっと、僕の言葉を信じていない。生意気なひなたの肩へ手を置いて手すり代わりに引き寄せ、ソファを降りてテーブルの上の牛乳を目当てにすぐ下の床へ座る。そこからは、ただの牛乳だと思っていたそれにイチゴの果肉が沈んでいるのが伺えた。

 さすがの僕もそんなおしゃれに作られた飲み物を酔い覚ましに使うのは気が引けて、手を引っ込める。しかし、ひなたは3つあるうち一つを僕へ差し出した。


「これ楓のだよ」


 コップに刺さった黄色のストローがふわふわと揺れる。どう見ても甘そうなそれは僕の好みではないけれど、その絶妙な果肉量と濃厚な白色のミルクにそそられるものを感じる。

 つい手を伸ばした時、キッチンの方からいつもより高い上機嫌な声が響いた。

 

「できたーっ」


 聞こえて間もなく笑顔で登場した詩音くんの右の掌には丸いお盆が乗っている。その上にはどこから出してきたのか専用のグラスに、まるで飲食店から出て来るもののように綺麗に彩られたパフェが3つ並べられていた。


「うまそぉ~っ」


 詩音くんがテーブルまでたどり着く前にひなたが黄色い歓声を上げる。それを聞き口角をあげて鼻を鳴らした詩音くんは、少し早足になってテーブルの横に片膝をついた。


「楓さん、ご注文の品でございます」


 明らかに作られた“いい声”と共に、まるで一番よく見える角度まで計算されたかのように首を振り前髪を払い退けて僕を見る。その表情は普段の彼とは違いとてもクールで年相応で、かっこよかった。でも。

 きっと、彼のバイト先のカフェでもこんな風にお客さんを虜にしているのだろう。そう考えると無性に腹が立って、僕はそのきりっとした余所行きの表情をした彼の額へデコピンをくらわせた。


「なんか腹立つ」

「えぇっ!? 喜ぶと思ったのに!?」


 僕が口を尖らせると、詩音くんは大げさに目を丸めて大声を上げた。その表情は先ほどの表情から考えるととても同一人物には思えない。でも。こっちの方が好きだ、と僕は思う。

 彼の手元のパフェへ手を伸ばすと、詩音くんは手前にあったものを引っ込めて奥のものを僕の方へ差し出した。


「これはひなたの」


 そして、ひっこめたそれをひなたの目前へと運ぶ。ひなたのパフェには、一本多くポッキーが生えていた。


「ひなたのポッキー多い」

「え、楓そんなに甘いの好きだったっけ」


 不満を零す僕へ、詩音くんはまるで想定していなかったという風に面をくらった顔をした。確かに、別にポッキーが欲しいわけでない。ただ、口から勝手に日頃の当てつけが漏れだしてくるだけだ。


「俺もそんなに甘いのが好きなわけじゃないよ」


 ひなたはそんな僕を見かねたのか、そう言って刺さっていたポッキーを一本僕の唇へ差し込んだ。アイスに刺さっていたソレは少し冷えていて、普段よりも美味しく感じられた。


「えっ、ひなた甘いの好きじゃないの?」

「うん、甘いのより俺主食系好き」

「まじぃ!?」


 二人が、やいやいと楽しそうに話を進める。その様子を咀嚼しながら聞いていた僕は、音を立ててそれを飲み込んでからひなたの肩へ頭を乗せた。


「ポッキーくれたからひなた好き」


 薄い布越しに感じる肩が少し硬い。そのうえ熱くて、じっとしていてくれなくて。なんだか寝心地が悪そうだ。


「楓、酔い過ぎ。水飲んできなよ」


 そうして、少しも経たぬうちにひなたは僕のことを強く押し返した。酔っているつもりもないけれど、ひなたが本気で拗ねた顔をするものだから渋々キッチンへと席を立つ。詩音くんは無情にも、足取りのおぼつかない僕を見てみるふりをして大きな口でアイスの乗ったスプーンへ食いついていた。


「あっ、ひなた。口にアイスついてる」


 キッチンからは、僕がいなくなったのをいいことに嬉しそうにひなたの口元をティッシュで拭う、これまた口元にアイスをつけた詩音くんの姿が確認できた。






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