第三章 感情を、思い出させてくれたのは

第3話

 期末テストも終わり、窓の外からはセミの鳴き声が聞こえてくる。六月だってもう耐えられないと思うほど暑かったのに七月の暑さはそれとは比べものにならない。それでも長びいていた梅雨もようやく明け、教室の中は数日後から始まる夏休みに向け浮かれていた。

 模試やら補習やらで七月いっぱいはほぼ毎日のように登校する必要はあるし、これ幸いと大量の課題も出る。それでも皆、夏休みというだけで気持ちが緩むらしい。

 蒼志は顔を上げて板書をノートに写す。黒板を見れば否が応でも視界に入るのは右端に書かれた日付だ。七月十五日。前回、通院した日から早一か月が経過した。子供の頃は一か月が経つのをとても長く感じた。それなのに今では一瞬で過ぎ去ってしまう。さっさと過ぎゆくならそれはそれでいいと思っていた。なのに――。

 蒼志は視線を少し左に向けて教卓前の席に座る杏珠を視界に捉えた。隣の席だった一か月はあっという間に終わり、今の蒼志は廊下側窓際、前から三番目。教卓の前、教室の真ん中一番前の席に座る杏珠とは少し席が離れていた。

 再び視線を日付に戻す。二ヶ月前に言われた余命の期限まであと一ヶ月。刻一刻と別れの時は近づいていた。死ぬことなんてどうでもいいと思っていた。いや、そんなことを思うこともなかったのかもしれない。朝起きて朝ご飯を食べるのと同じ。その時が来れば死ぬのだと、ただそれだけだった。

 けれど、どうしてだろう。

 不意に気球の上で見た杏珠の笑顔を思い出す。

 死ねばもうあの笑顔を二度と見られないのだと思うと、それは少し寂しいと思ってしまった。この想いは、一体――。


 結局、寂しさの理由がわからないまま、特に変わらない平日が終わり週末がやってきた。蒼志は朝から鳴ることのないスマートフォンを見つめていた。

 昨日の放課後は突然『パフェが食べたい!』と言い出した杏珠に連れられて駅近くにあるカフェへとやってきた。カフェというがこの店、ショーケースにはほぼほぼパフェしか飾っておらず、パフェ専門店と言っても過言じゃないかもしれない。いや、他にパスタや軽食もあったけれど。

 八割女性、残り二割も彼女に連れられて来たような雰囲気の中、蒼志も少しだけ居心地の悪さを覚えながらメニューを見る。ジョッキに入ったジャンボサイズのパフェにチャレンジしたいという杏珠を必死に引き留めて、蒼志は季節のフルーツパフェを、杏珠はチョコレートパフェの上にチョコマシュマロが大量に載ったものを注文していた。それをペロリと食べきったあと「さすがにお腹が苦しい」なんて言っていたから、もしかすると胃腸を悪くしてしまったのかも知れない。

 数学の宿題を解きながらも、意識は机の端に置いたスマートフォンに向けられていた。特に約束はしていないが、今日の部活動はどうするのか。毎日写真を撮るんじゃなかったのか。それとも連絡ができないぐらい具合が悪いのか。

「……くそっ。集中できない」

 六割ほどしか埋まっていないノートを閉じると、スマートフォンを手にベッドに寝転んだ。連絡が来ないのであればきっと今日の部活はないのだ。それなら一眠りして、それからもう一度宿題の続きをしよう。そのあとは予習をして、それで――。

「あーもう!」

 蒼志は放り出した手に握りしめたままだったスマートフォンを顔の前に持ってきて操作するとたった一言『今日はどうするんだ』とだけ送った。そのうち返事が来るだろう、そう思いメッセージアプリを閉じようとすると、すぐに既読を示すマークが付いた。そして、返事も一言。

『プラネタリウムに行きたい』

 脈絡もないそのメッセージが杏珠らしくて小さな笑いが漏れた。

 何通かメッセージのやりとりをして、隣の茨木市にあるプラネタリウムに行くことにした。立地的にJRではなく阪急で行こうという話になり、1時間後に阪急高槻市駅の改札前で待ち合わせることになった。

 阪急なら蒼志の自宅から自転車で10分もかからない。ただ以前のことを踏まえて15分前には着いておきたい。結局、待ち合わせ時間の三十分前に自宅を出て、十五分前のさらに五分前、計二十分前には改札前に着いた。

 さすがにこれだけ早ければ杏珠も着いてはいないようだ。待っている間、暇だから先に切符を買おう。路線図で値段を確認してお金を入れようとした。

「……どうするかな」

 デートだと言われているわけではない。それなのにここで蒼志が二枚切符を買っておけば自意識過剰だと思われないだろうか。そもそも今回はプラネタリウムもチケットを貰ったわけでもないのに、切符代まで出してしまえば逆に気を遣わせることにならないだろうか。

 そんなことを一分ほどグダグダと悩んだ結果、面倒くさくなった。別になんでもいい。蒼志は財布から小銭を取り出すと百円玉を四枚入れ、購入ボタンを押した。

「あっ、蒼志君」

 杏珠が来たのはそれからさらに数分経ってからだった。時刻は十時四十五分。待ち合わせ時間のきっちり十五分前だった。

 水色のノースリーブのワンピースに半袖のカーディガンを羽織った杏珠は、蒼志の姿を見つけると少し早足で駆け寄ってきた。

「ごめんね、待たせちゃったね」

「別に。早く着きすぎただけだよ」

「ふーん? もしかして、楽しみだったとか?」

「バーカ。前に待たせたときになんだかんだ言われたから今度は早く来ようって思っただけだよ」

 他意はないと伝えたかった。なのに、何故か嬉しそうな表情を浮かべると「ふふっ」と笑った。

「……何」

「ううん、だって私のことを待たせないようにって早く来てくれた訳でしょ?」

「ポジティブすぎない?」

「ネガティブより生きやすいと思うよ?」

 そう言われてしまうとそうなのだけれど。だいたいそんな風に言われたら出しにくいじゃないか。蒼志はポケットに入れた切符の存在を思い出して苦々しく思う。そんな蒼志の表情に気付いたのか、杏珠はどうかしたの? と言うかのように小首を傾げた。

「……なんでもない」

「ホントに? あ、蒼志君もう切符買った? まだだったら待たせたお詫びに私、買ってくるよ」

「あー……」

 切符売り場に向かおうとする杏珠の背中に、蒼志は諦めて声を掛けた。

「買ってある」

「え?」

「切符」

「……ホントに?」

 ポケットから取り出した二枚の切符を差し出すと、杏珠は信じられないといった表情を浮かべ口元に手を当てた。その反応が妙に気恥ずかしくて、苛立たしくて居たたまれなくて。

「いらないならいい」

「え、待って待って」

 杏珠に背を向けると、蒼志は一人改札に向かって歩いてく。後ろから慌てた様子の杏珠が追いかけてくるのがわかったが、無視して歩く。……なんとなく、いつもよりも歩くペースが遅い気がしたがきっと気のせいだ。

 蒼志が改札に切符を入れる直前で追いつくと、杏珠は蒼志の腕を掴んだ。

「まっ……て、よ!」

「……何」

「いらないなんて言ってない」

「……っそ」

 手に持った二枚のうちの片方を杏珠に押しつけるように渡すと、蒼志はさっさと改札の中に入っていく。追いかけてきた杏珠が隣に並んだけれど、気付かないフリをした。

「ふふっ、嬉しいなぁ」

「何が」

「私に言われてイヤイヤ来てるわけじゃなくて、蒼志君も楽しみにしてくれてるんだなって思って」

 ホームに着くと、あと5分で電車が着くと電光掲示板に表示されていた。並んで待っていると、杏珠がポツリと呟いた。

「ありがとね」

「……ん?」

「今日さ『どうするんだ』って連絡くれたでしょ? あれ凄く嬉しかったんだ」

 別に喜ばそうとしていたわけじゃない、そう言おうとしたが、隣に立つ杏珠の表情が思ったよりも暗くて言葉を飲み込んだ。黙ったままでいると、杏珠は再び話し始める。

「昨日、ね……午前中、私いなかったでしょ」

「……ああ」

 昨日は朝から杏珠の姿がなかった。登校してきたのは確か、二時間目の終わりだっただろうか。

「体調でも悪かったのか?」

 だとしたら、放課後にパフェを食べに行かないだろう、とは思いつつもそれ以外に遅れてくる理由なんて思いつかなかった。けれど、やはり体調不良ではなかったようで、杏珠は小さく首を振った。

「……ううん、病院に行ってたの。おばあちゃんの」

 おばあちゃんの病院、という言葉と杏珠の表情で良い話ではなかったのだろうと想像が付いてしまった。「そっか」としか言うことができない蒼志に、杏珠は寂しそうに笑った。

「具合、あまり良くないみたいで……わかってたんだけど、やっぱり辛いなって」

 辛い、という感情が蒼志にはもうよくわからない。けれど、杏珠が苦しそうな表情をしているのは嫌だと思う。だからといって何と声を掛けたらいいのかわからない。杏珠にそんな顔をして欲しくない。笑っていて欲しい。

「……暗くなっても仕方ないだろ」

 結局、口から付いて出たのはそんな言葉だった。

「そうなん、だけど、ね」

 悲しげに表情を歪める杏珠に、蒼志は自分自身が情けなくなる。感情が殆どない蒼志では杏珠の悲しみに上手く寄り添うことができない。こんなにも近くにいるのに、蒼志では杏珠の辛さも苦しさも、取り除くことはおろか、寄り添うことすらもできない。

「……え?」

 隣で杏珠が驚いたように声を上げたのがわかった。けれど、蒼志はそちらを見ることができない。不器用に握りしめた手が、杏珠の柔らかい手のひらを握りつぶしはしないかと不安で仕方がなかった。

 嫌がる素振りを見せたらすぐに離そう。けれど、感情の機微どころか揺れ動きさえもわからない蒼志に、杏珠が嫌がっているかどうかが本当にわかるだろうか。もうすでに嫌がっているのではないか。今ならまだ間違えてしまったことにして離せば誤魔化せるのでは――。

「……っ」

 握りしめた手を離そうとした蒼志の手のひらを、杏珠はそっと握り返した。どれだけ感情が失われていてもわかる。嫌がられては、いないのだと。

 手のひらから杏珠のぬくもりが伝わってくる。何かを伝えたかった。寄り添うようなことは言えない。それでも、隣で苦しんでいる杏珠に、何か言いたかった。

「……そんなふうに」

「え?」

「そんなふうに辛そうな顔を浮かべてくれる人がいるって、きっと幸せだと思うよ。杏珠のおばあちゃん」

「そう、かな」

 ホームのスピーカーから電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。轟音とともに電車がホームへと入り込んできた。

「――私が今死んだら、蒼志君は悲しんでくれる?」

 まるでかき消されることを望むかのように杏珠は言う。聞こえてほしかったのか、欲しくなかったのか蒼志にはわからない。けれど。

 目の前に焦げ茶色をした阪急電車が入り込んでくる。音を立てて開いた扉から中に入りながら、蒼志は繋いだ手に力を込めた。

「……悲しむよ」

 感情が殆どない蒼志にはもう悲しいなんて感情はわからない。きっと杏珠もわかっていて尋ねている。それでも、肯定せずにはいられなかった。

「ありがと」

 俯いたまま杏珠は言う。

 悲しいという気持ちはわからない。ただ杏珠の笑顔が見られなくなるのが、杏珠がそばにいなくなるのは嫌だと思った。これが寂しいという感情であればいいなと思う。もしもそうなら、さっき言った「悲しむよ」という嘘が、嘘ではなくなるのに。

 その日、蒼志が撮ったのはプラネタリウムの前で笑う杏珠の姿だった。けれどどうしてだろう。確かに笑っているはずなのに、レンズ越しに見た杏珠が泣いているように見えたのは。

 だから、かもしれない。帰り道、高槻市駅の前で別れようと「またね」と言って立ち去ろうとする杏珠に「明日はどうするんだ」と声を掛けてしまったのは。改札階からエスカレーターで降り、

 別にどこかに行きたいわけじゃない。ただ朝になってどうするんだと変に気に揉みたくはなかったし、それに……少しでも杏珠に嬉しそうな顔をして帰って欲しかったから。

 杏珠は少し驚いたように顔を上げ、蒼志を見つめる。その視線にどこか居心地の悪さを感じて、目を逸らす。

 そんな蒼志に、杏珠は「んー」と口に指先を当て考えると、笑顔を浮かべた。

「蒼志君はどこに行きたい?」

「は?」

「は? じゃなくて、どこか行きたい場所はないの? 撮りたいものとか」

「撮りたいもの……」

 そんなものは特にない。行きたい場所も思いつかない。そもそも感情なんてないに等しいのだから、そんな蒼志が何かをしたいと思うことなんてないのだ。

 けれど、ふいに杏珠が口にしていたことを思い出す。

「……動物園」

「動物園?」

「前に杏珠が映画と動物園どっちがいい? って聞いて映画にしただろ? だから、動物園」

「それは私の行きたいところであって蒼志君の行きたいところじゃないのでは」

「杏珠が行きたいところに俺は行きたい」

 そうすれば杏珠が楽しい気持ちになれるだろうし、笑ってくれるかも知れない。そう思って、蒼志は自分の思考が自分でも信じられなかった。どうしてそんなことを思ったのか、自分でも全くわからない。

 杏珠が楽しもうが笑おうがどうでもいいはずだ。そう思うのに、どうでもいいなんて終えないと心が否定する。感情なんてもう殆ど残っていないはずの心が、杏珠の笑った顔が見たいと言っている。

「……蒼志君ってそういうところ、ホント蒼志君だよね」

「どういう意味?」

「わかんなかったらいい」

 何故か頬を押さえ「ホントにもう」と俯きながら呟いた。

「杏珠?」

「……なんでもない。うーん、でも暑くなって来たから動物園はちょっとなぁ」

「そっか」

「あ、そうだ。図書館は?」

「図書館?」

 それは写真を撮ってもいいのだろうか、と思いはしたけれど、せっかく杏珠が提案してくれたので蒼志は頷いた。別に行きたいところがあるわけじゃないから、杏珠が行きたいのであればどこでもよかった。

「昨日出た宿題でわからないところがあって。図書館なら教えてもらえるでしょ?」

「あそこ自習スペースあったっけ?」

「なかった気がする……」

 多分していても怒られることはないだろう。だが、していいところでするのと、してはいけないところでするのとではなんとなく気の持ちようが違う。

「……じゃあ、うちに来る?」

「え?」

「明日ならちょうど両親もいないし」

 両親が明日は親戚の法事に行くと言っていたことを思い出す。遠縁のため、蒼志は無理しなくていいけれどどうする? と、言われ「行かない」と断った。心失病のことを知らない親戚に『態度が悪い』『愛想がない』『感じが悪い』と言われるのが嫌だった。別に蒼志が言われる分にはいいのだ。どうでもいいし、何か思う感情なんてない。ただ、それを親戚たちは両親に言うのだ。両親はそのたびに頭を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべる。何一つとして悪いことなんてしていないのに。それを見るのが嫌だった。

 心失病のことを説明したら、と両親に言ったことがある。そうしたら「それをしたらあなたが好奇の目で見られるから」と悲しそうに言っていた。どちらにしても蒼志の存在は両親を悲しくさせる。それならば、行かない方がいい。蒼志さえいなければ、両親が何か言われる心配はないのだから。

「それ、は。逆に私行っても大丈夫なの?」

「俺は大丈夫だけど、杏珠が嫌なら別に」

「嫌、ではないのだけれど。でも……」

 杏珠は何故か視線を泳がせながら、蒼志を見る。その視線の意味がわからず思わず蒼志は首を傾げた。

「何?」

「……なんでもない」

「どうするの? 来る? 来ない?」

「……じゃあ、お邪魔しようかな」

 躊躇いがちに頷くと杏珠は小さく微笑んだ。その微笑みに少し安心して、その日は別れた。


 翌日、待ち合わせ時間に高校前へと向かった。蒼志の家の場所を説明したものの上手く伝わらず、それなら高校まで迎えに行くと伝えたのだ。

 杏珠は申し訳なさそうだったけれど、説明するのも結果として迷子になられるのも面倒くさいと伝えると、渋々学校での待ち合わせで了承してくれた。

「お待たせ」

 校門前に立つ杏珠に手を挙げると、杏珠も笑顔を浮かべた。今日の杏珠はグレーのTシャツにショートパンツ、それからサンダルといった夏らしい装いだった。

「あれ? 蒼志君、今日自転車なの?」

「そう」

 学校から蒼志の家までは歩いて十五分ほどの場所にある。普段は歩いてもなんともない距離だけれど、夏の昼時に十五分も歩けば汗が噴き出てくる。なんならその十五分で熱中症になるかも知れない。

「私も自転車にしたらよかったなー。学校に行くっていう意識が強すぎて、ついいつも通り歩いてきちゃった」

「……後ろ、乗る?」

「え?」

 驚いたように言う杏珠に蒼志はそんな変なことを言っただろうかと不思議に思う。

「暑いだろ、歩いたら」

「まあ、うん。そう、なんだけど」

 暫く考えるような素振りを見せてから「どうせ何も思ってないんだろうな」と呟くと、杏珠は蒼志の自転車の後ろに横向きで座る。そのまま蒼志のことを掴めばいいのに、荷台を掴むから、蒼志が自転車を漕ぎ始めた拍子に「きゃっ」と悲鳴を上げる声と杏珠の身体が大きく傾いたのがわかった。

「何やってんの」

「だって、急に発車するから」

「ちゃんと捕まってろよ」

「……うん」

 蒼志の着ているTシャツの両端をそっと掴む杏珠に思わずため息を吐いた。

「それじゃあまた落ちるって」

「じゃあ、どうしろっていうのよ」

「……これでいいんじゃないの?」

 Tシャツを引っ張るようにしていた杏珠の手を、蒼志は自分の腹へと回した。後ろから抱きつくような体勢になった杏珠が「……っ」と息を呑んだのがわかった。

 その反応に、蒼志はどこか感じる居心地の悪さをごまかすかのように、思いっきりペダルを踏む足に力を込めた。

 自転車の上で杏珠も蒼志も無言だった。何を話していいかわからなかったし、密着している背中から聞こえる杏珠の心臓の鼓動が早くて、居心地の悪さに拍車を掛けた。Tシャツ越しに伝わる熱が妙に暑くてクラクラする。

 少しでも早く自宅に帰ろう。そう思い、普段なら七分はかかる道のりを五分もかからず到着することができた。

「……着いた、よ」

「ありが、とう」

 ペダルを踏む足を止めた蒼志に礼を言うと、杏珠は慌てて自転車から飛び降りる。背中に感じていたぬくもりがなくなって、ひんやりとする。あんなにも暑かったはずなのに、先程までのぬくもりが恋しいだなんてどうかしている。

「蒼志君?」

「ああ、今行く」

 自転車を駐車場に止めると、蒼志は玄関前で待っていた杏珠の元へと向かう。ポケットから取りだした鍵でドアを開けると、中からはひんやりとした空気が流れ出た。

「涼しい」

「冷房つけといたから。二階に俺の部屋あるから先に上がってて。飲みものとか持って行くよ」

「ありがと」

「突き当たりの部屋だから」

 杏珠に伝えながらキッチンへと向かうと、冷やしておいたミネラルウオーターを二本と、友達が来ると伝えたら飛ぶように喜びながら「これおやつ用意しておいたから」と言って母親が焼いた林檎パイを持って二階に上がる。

 ドアが閉まった自分の部屋の前に立つと、蒼志は中にいるであろう杏珠に声を掛けた。

「ドア開けてくれる?」

「…………」

 けれど、中から返答はない。部屋を間違えたのだろうか? にしても、二階に上がって行ったのだから蒼志の声は聞こえているはずだ。

「杏珠?」

 呼びかけてもやはり返答はない。仕方なく蒼志はミネラルウオーターを小脇に抱えると、どうにかドアを開けた。

 部屋の中には本棚の前で立ち尽くす杏珠の姿があった。

「部屋にいたなら開けてくれたらいいのに。……杏珠?」

 話しかけても返事をすることがない杏珠を不信に思い、蒼志はその顔を覗き込んだ。手に持った何かをジッと見つめている杏珠は、蒼志に気付くと慌ててその本を背中に隠した。

「ご、ごめん。気付かなくて」

「いいけど、何読んでたの?」

「べ、別に……」

「ふーん? まあ、いいや。読み終わったら戻しておいてね」

 部屋の真ん中に置いた机の上にミネラルウオーターとアップルパイを並べる。杏珠は露骨に安心したように息を吐くと、蒼志に見られないように背中に隠した本を本棚に戻した。――戻そうと、した。

「で、何読んでたの?」

「あっ」

「なんだ」

 戻そうとした本を手に取って覗き見る。その手に持っていたのは、奇病について書かれた本だった。発症した当初、自分の病気のことをわかっておいた方がいいから、と担当医から薦められた両親が購入し、蒼志の本棚に入れた。買ってもらったからには、と何冊かは読んだけれどどれも書いてある内容は薄い。そもそも解明されていれば奇病とは呼ばれないのだから書ける内容が少なくても仕方ないのかもしれない。

「心失病のこと知りたいなら、こっちよりこっちがわかりやすく書いてくれてるかな。あ、それは持ってる本の中では一番心失病のページ数が多いけど、中身はスカスカの薄っぺらい感じ。似たようなことや著者の意見ばっかり書いてあって、結局のところは何もわかりませんみたいな内容だったよ」

「ちゃんと読んでるんだね」

「まあ、せっかく買ってもらったしね」

 肩をすくめ、蒼志は先程まで杏珠が読んでいた本をパラパラとめくった。

「で、心失病の何が知りたかったの?」

「あ、え、その……治す方法はあるのかな、って思って」

「あー……それね。それならこっちがいいかな」

 一番分厚い本を本棚から取り出すと、パラパラとページをめくる。栞が挟まれたそのページは他のページに比べると折れ曲がったり色が変わったりと、劣化が明らかに見てわかった。

「ここに書いてる。今までに治った人は一人しかいないって」

 蒼志がめくったページを、杏珠は興味深そうに覗き込んだ。

「『彼は大切な人の誕生で、心をそして余命を取り戻した。結果として、彼の子と人生を歩むことが可能となった』らしいよ」

「大切な人の誕生で……」

「まあ、子供が生まれることは女性にとっては勿論、男性にとってみて凄く大切でかけがえのないことらしいからね。それで感情を取り戻したとしても不思議じゃない、らしい」

 とはいえ、みんながみんな同じことで感情を取り戻すわけではないようだ。同じような条件が重なった人が、どうにか妻の出産を早めて感情を取り戻そうとしたらしいが上手くはいかなかったと別の本に書いてあった。

「蒼志君は、怖くないの?」

「何が」

「……死ぬことが」

「……怖いかどうかなんて、もうわからなくなったよ」

 心失病の幸せなところはそこだと思う。死の恐怖に怯えることがない。ただ死が事実としてそこにあるだけなのだ。

「……そう、なんだ」

 蒼志の答えに、杏珠は小さく頷くとその場にしゃがみ込んだ。

「杏珠?」

「……私は、凄く怖い」

 杏珠の手が小さく震えているのがわかった。

「おばあちゃんの病院に行ったって、言ったでしょ」

「うん」

 杏珠の隣に座ると、蒼志は手を伸ばして机の上からミネラルウオーターを取ると手渡した。それを受け取ると、ぎゅっと握りしめるようにしたまま杏珠はぽつりぽつりと話し始める。

「余命三ヶ月だって言われたときにね、病気の進行が凄く早くて、もう治療もできないって言われてたの。無理にキツい治療をしたとしてもほんの少しの延命どころか苦しむだけだって。だから今は日常生活を送れるぐらいの薬と、検診だけで……あとはもう死を待つだけなの」

「そう、なんだ」

 家族にとってみたらきっとそれはとても辛くて苦しい状況に違いない。杏珠の表情をみていればどれほどの悲しみなのか、感情が残っていない蒼志にも想像はつく。

 あの時のように「どちらが早く死ぬかな」なんてことはとてもじゃないけれど言えない。言ってはいけないと、蒼志にだってわかる。

「……病気なんかなくなっちゃえばいいのに。もっと、もっと一緒にいたい。離れたくないよ」

 杏珠の悲痛な叫びは、蒼志の胸を抉るように痛めた。それと同時に、こんなにも杏珠に思ってもらえる杏珠の祖母が少しだけ羨ましかった。

 杏珠は『私が今死んだら、蒼志君は悲しんでくれる?』と尋ねたけれど、逆に杏珠は今蒼志が死ねば悲しんでくれるのだろうか。少しは寂しがってくれるのだろうか。

 聞きたいけれど、聞けない。もしも『そんなわけないじゃん』とでも言われたらと思うだけで、もう存在しないはずの感情が悲鳴を上げるように心が痛んだから。

「……勉強、する?」

 代わりに蒼志が発したのは、面白みも何もないそんな言葉だった。杏珠も頷くと、持ってきたカバンからノートと教科書を取り出す。

 薄暗くなるまで、蒼志の部屋には杏珠が質問する声と、それに答える蒼志の声、それからシャープペンシルがノートの上を走る音しか聞こえなかった。



 蒼志の自宅に行った日から数日が経った。あの日以来、杏珠が笑うことは少なくなった。いや、表面的には笑っている。けれど何故かずっと蒼志には泣いているように見えるのだ。

 一度、聞いてみたことがある。「なんで泣いてるんだ?」って。けれど、杏珠は「泣いてなんかないよ?」と余計に笑顔を浮かべてしまう。貼り付けたような取って付けたような笑顔を。

 だから蒼志は何も言わなくなった。言えば言うほど、杏珠の笑顔が壊れていくような気がしたから。

 その日の放課後、杏珠はまだ片付けが終わらない蒼志の席の前で立っていた。あと数日で夏休みを迎えることもあり、蒼志は机の中身を持って帰る準備をしていた。

 どうせ夏休みも来るのだから持って帰る必要なんてないよ、と後ろの席の大谷は笑う。けれど蒼志は夏休み中、何日学校に来られるかわからなかった。立つ鳥跡を濁さず、ではないけれど自分が死んだあと片付けをするためだけに両親が学校に来るようなことは避けたかった。ただでさえ悲しい思いをさせるのだ。少しでも、しなければいけないことは少なくしておきたい。

 詰め込めるだけ詰め込んだ鞄のファスナーを閉めると、蒼志は待ちくたびれたように前の席の机に座った杏珠を見上げた。視線に気付いた杏珠は、口を開く。

「終わった?」

「ああ」

「そっか、じゃあ行こっか」

「どこに?」

「屋上!」

 どうやら今日の部活動は屋上で行うようだった。鞄を肩に掛けると持ち手が食い込むが、気にならないフリをしながら教室を出た。屋上へ向かう階段を上りドアを開けると、吸い込まれそうな程の青が広がっていた。

「気持ちいいぐらいの青空だね」

「ホントだな」

 屋上の床に座ると、手をつき杏珠は空を見上げる。そのまま空の青と同化して杏珠が消えてしまいそうに思えた。

「スカート汚れるよ」

「ふふ、蒼志君ってばお母さんみたい」

 絞り出すように言った蒼志の言葉を杏珠は笑う。何が面白いのか腹を抱えて。ひとしきり笑ったあと、杏珠は空を見つめたまま言った。

「蒼志君の蒼の字は『あお』とも読めるけど、こんなふうな空の青さなの?」

 脈絡のない唐突な質問だと思った。けれど、杏珠の隣にあぐらを掻いて座ると、同じように空を見上げた。

「蒼の字は『蒼天』って言葉から取られてて、確かに空の青さなんだけど夏の空とは違うんだ」

「空の青さに違いがあるの?」

「ある、らしい」

 説明できるほど蒼志自身も詳しく調べたわけではない。小学校の時に授業でやった『自分の名前の由来を調べましょう』というので調べたぐらいだ。

「春や夏の白っぽい青と比べて、秋や冬の空の方が青が澄み切っているらしい」

「蒼志君の『蒼』はどんな青なの?」

「俺の『蒼』は春の空の青さを言うんだ」

「春の……」

 次の蒼天の空を蒼志は見ることはできない。けれど、来年の春の空を見上げた杏珠が、もしもこの話を、そして蒼志のことを思い出してくれればいいなと思う。

 死んでしまったとしてもずっと覚えていてくれる人がいればその人の心の中で生き続けると言ったのは誰だっただろう。

「そっか」

「うん」

 杏珠はそれ以上何も言わない。蒼志も何も言うことなく、ただ二人で空を見つめ続ける。

 ふと空から視線を杏珠に移す。その横顔は凜としていて、とても綺麗だった。思わずスマートフォンをそちらに向ける。

 レンズ越しに見た杏珠の瞳には蒼志の『あお』とは違う空が映っていた。それが妙に腹立たしくて、気付けば名前を呼んでいた。

「杏珠」

「なに?」

 そう言って振り向いた杏珠をカメラに収めた。

「わ、隠し撮りだ!」

「こっち向いたんだから隠し撮りじゃないよ」

「えー私に言わずに撮ったんだから隠し撮りでしょ? もー!」

 唇を尖らせながらも、怒っているようには思えなかった。そんな杏珠の表情があまりにも可愛くて、もう一度シャッターボタンを押しそうになって慌てて止めた。約束は一日一枚、だ。……別に、二枚撮っても杏珠は怒ることはないだろうし、もしかしたら『写真の楽しさに目覚めたの?』と喜ぶかも知れない。そうはわかっていてもどうしてか撮ることを躊躇われた。もしも撮ればそれは、杏珠に言われたからという名目がなくなり、ただ蒼志が撮りたいから、になってしまうかもしれないから。


 夏の天気は変わりやすい。さっきまで吸い込まれそうなほどの青が広がっていた空は、いつの間にか灰色の雲で覆われていた。山の方には黒々とした雲が見える。あの雲がこちらにくれば一雨来るかも知れない。

 同じように思ったのか、杏珠も「そろそろ中に入ろうか」と立ち上がった。「ああ」と返事をして、背を向けた杏珠のあとに続いて立ち上がろうとしたそのとき――杏珠の身体が崩れ落ちた。

「お、おい!」

 慌てて駆け寄るが、苦しそうに顔を歪めたまま声すら出せない様子にただ事ではないと感じる。鞄を放り出し、杏珠のことを背に背負うと、屋上を飛び出した。

 意識がない人間を背負うのがこれほど大変だと思わなかった。ずり落ちそうになる身体を必死に背負いながらようやく一階にある保健室にたどり着いた。両手が塞がっているせいでドアを開けることができず、ノックの代わりに足でドアを軽く蹴ると怒鳴るようにして呼びかけた。

「先生!」

 だが、中から反応はない。ここまで来たのにまさか不在なのだろうか。それなら職員室に向かった方がよかったか。背中に背負った杏珠の身体は力が抜けていくのか、どんどん重くなっていく。

「くそっ」

「誰がクソなんて言ってるの」

 その声は、蒼志のすぐ後ろから聞こえた。

「あなたね、保健室のドアを蹴るなんて、何を……」

「先生! そんなことより! 杏珠が大変なんだ!」

 説教を始める保険医の言葉を遮ると、蒼志は必死に訴える。その声色にただ事じゃないとわかったのか、保険医は蒼志の背中に背負われた杏珠に視線を向けた。

「日下部さん……?」

「先生?」

「何かあったのね。ちょっと待っていなさい」

 それだけ言うとポケットからスマートフォンを取りだしどこかへ連絡をした。

「はい。そうです。ええ、至急救急車を」

 119番にかけたにしては簡易な指示に蒼志は不思議に思うが、そんな些細なことはどうでもよかった。今は杏珠が助かるのが先だ。電話を切ると、今度は別のところにかけた。

「はい、保健室の。日下部が倒れたようで。今救急車を呼んでいます」

 どうやら電話の相手は担任のようだ。何やら指示を出すと、保険医はスマートフォンをポケットに戻し蒼志に向き直った。

「朝比奈君、日下部さんをこちらに。救急車が来るから正門まで連れて行くわ」

「俺が連れて行きます」

「でも」

「急いだ方がいいでしょう。受け渡しとかこの押し問答をしている時間が無駄です」

 きっぱりと言う蒼志に何か言いたそうだったけれど「そうね」と頷くと蒼志を先導するように保険医は廊下を急ぎ足で進み出した。

 放課後と言えど部活動をしている生徒はいる。保険医とともに杏珠を連れて廊下を行く蒼志は見世物のようになっていた。その中に大谷の姿を見つけた。周りの人間のような好奇の目、ではなく心配そうに蒼志を見つめている。声を掛けていいのかわからない、そんな表情を浮かべる大谷の名前を蒼志は呼んだ。

「大谷!」

「え?」

 突然のことに少し驚いたような表情を見せたが、足を止めることのない蒼志の元に大谷は駆けつけた。

「どうした?」

「事情は言えないんだけど、屋上に俺と杏珠の鞄が置いてあるから教室に持って行っておいてくれないか」

 事情は言えない、と言いながらもこんな状態の蒼志達を見て何も気にならないわけがないだろう。ごちゃごちゃと聞かれたら面倒だ、そんな思いが過る。

 が、大谷は「わかった」と返事をすると蒼志が向かう正門とは反対の、階段の方へと駆け出した。何も聞くことなく。

 杏珠を背負った蒼志と保険医が正門にたどり着くが救急車はまだ来ていなかった。遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてくる。早く、早く来てくれ。

「重くない? 大丈夫?」

「……大丈夫、です」

「先生! 救急車は!? ……え? 朝比奈?」

「もうすぐ来ます。ご家族には?」

 連絡を受けた担任が息を切らせて駆けつける。どうやらこの二人は、杏珠が倒れた理由について何か知っているようだった。

「杏珠……」

 背中に背負っているはずの杏珠はうめき声一つ上げることはない。時折、荒い息づかいが聞こえることと、妙に背中に触れる杏珠の体温が高いことだけが杏珠が生きていることを確認する術だった。

 けたたましい音が聞こえ、正門に救急車が入ってくる。中から救急隊員が降りてくると、保険医に促されるまま蒼志の元へとやってくる。実際には俊敏に動いているはずの救急隊員の行動がやけにスローに思えて苛立たしい。もっと早く。手遅れになったらどうするんだ。

「君、ありがとね」

 蒼志の背中から杏珠を担架に移動させると、救急車へと乗り込ませる。中には当たり前のように保険医が乗り込んだ。

「それじゃあ、朝比奈。君は――」

「俺も行く」

「は?」

 止める声よりも先に蒼志は救急車へと乗り込んだ。たくさんのコードに繋がれる杏珠の手を握りしめる。どうしてだかわからないけれど、杏珠を一人にしてはいけない気がした。

「どうされますか?」

 救急隊員が保険医に問いかける声が聞こえるが、蒼志は聞こえないフリをして杏珠の手を握り続けた。

「杏珠、聞こえる? もうすぐ病院に行くから。絶対に大丈夫だから」

「どうされますか!?」

「……このまま、出発して下さい」

 蒼志に降りるつもりがないことを悟ったのか、保険医が救急隊員に告げると救急車の扉が閉められた。

 処置のため、手を放すように言われ蒼志はそっと杏珠から手を離す。さっきまで手のひらの中には杏珠のぬくもりというには熱すぎる体温があったのに、離した瞬間からその熱が奪われていく。相変わらず杏珠は身動き一つしない。それでも付けられた心電図の不規則な音が、杏珠がまだ生きていることを示していた。

 狭い車内は思ったよりも揺れる。こんなにもがたついて杏珠は大丈夫なのだろうか。そもそも一体何故こんなことになっているのか。揺れた拍子に杏珠の手がストレッチャーから落ちた。その手を再び握りしめる。こんなふうに焦ったのも、無我夢中で動いたのも心失病になってから初めてのことだった。ただ杏珠のことしか考えられなかった。

 これが心失病末期の感情の爆発だというのならそれでもいい。このあと命が尽きたとしても、ただ杏珠のことだけを想っていたかった。

「杏珠……」

 そっと杏珠の熱い手を握る指先に力を込める。けれど、どれだけ手を握りしめても、あの日のように杏珠が握り返すことはなかった。

「……朝比奈は」

 それまで黙ったままだった保険医が小さな声で蒼志に尋ねた。

「日下部の病気のことを、知ってるの?」

「……はい」

 嘘だ。本当は杏珠の病気のことなんて何も知らない。これっぽっちも、ほんの僅かも。けれどここで知らないと言えば、きっとこのまま蒼志は杏珠のことについて蚊帳の外のままだ。誰も教えてくれることなく、杏珠が笑顔の裏で何を抱えているのかも知らないまま。そんなのは嫌だ。

 杏珠の手を握りしめたまま頷いた姿に、蒼志と杏珠の関係を都合良く誤解してくれたようで「そう……」と小さく呟くと、保険医は指を組んだ両手に額を当てるようにして項垂れた。

「最近、日下部が凄く楽しそうで。何かあった? って聞いたことがあったの。クラスメイトが部活に入ってくれたんだって。一緒に写真を撮ってるんだけど一人で撮ってるときの何倍も楽しいって笑ってたわ。……クラスメイトって、朝比奈のことだったんだね」

「……病気のこと、先生にちゃんと言ってたんですね。誰にも言ってないかと思ってました」

「まあ、それはね……。あなたと一緒だよ。学校で何かあったときに困るからって」

 保険医の言葉に蒼志は無言を貫いた。確かに、蒼志自身も学校での急変がないのであれば伝える必要性を感じなかっただろう。いや、急変の可能性があったとしてもどうだろう。あの頃の蒼志は今よりももっと感情に乏しくて、何もかもがどうでもよかった。両親が、担当医が「学校とも連携を取りましょう」というからそれをそのまま受け入れただけだ。そこに蒼志の希望も拒否感も何もなかった。

 だが、杏珠は違う。きっと周りに迷惑をかけたくなくて自分から伝えることを選んだんじゃないか。伝えたくなくても、伝えることで自分が病人扱いされることがわかっていても、他人に迷惑をかけないために。

「あなたたちはまだ若いのに……こんなに子供なのに……」

「…………」

「入学してすぐに病気が見つかって……なんとか二年生になる前に寛解までいって、今年は学校に通えるって喜んでいたのに……再発なんて……辛すぎる……」

 再発と言う言葉に喉の奥が鳴りそうになるのを必死に堪えた。誰が? 何を? 病院に行っていたのは祖母のお見舞いだと言っていたが本当にそうだったのだろうか。

 初めて病院であったのは学校帰りに定期検診に行ったとき。あれは本当にお見舞いだったのだろうか。蒼志と同じように、授業に差し障りがないように、他の生徒に何か詮索されないためにあの時間に通っていたのでは……?

 先日の遅刻もそうだ。いくら祖母の具合が悪いからといって、遅刻をしてまで見舞いに行くだろうか。いや、そもそも――午前中のあの時間は、まだ面会時間ではない。

 気付いてみれば思った以上に杏珠の嘘は明白で、ただ蒼志が杏珠のことに興味を持って話を聞かなかったから気付かなかっただけの綻びがたくさんあった。

「……五月の半ばに」

 蒼志はようやく口を開くと、震える声で保険医に問いかける。

「大学病院で会ったとき、余命……三ヶ月だって……」

 否定して欲しかった。誰の話をしているのって、余命なんて縁起でもないことを言わないでって。けれど、隣に座る保険医は力ない声で「そう」と頷いた。

「……そんなことまで、話してたのね」

「……っ」

 けれど保険医の口から出たのは、蒼志の希望とは正反対の、嫌な推測を裏付ける肯定の言葉だった。

 一瞬、救急車の中の音が全て消えた。生きていることを示す心電図の波形は動いているのに音が聞こえない。サイレンの音も、車道を走る音も、全ての音が蒼志の耳から消えた。今起きていること全てが夢ならいいのに。心失病だと宣告されたときにすら思わなかったことを考えてしまう。それぐらい、杏珠の命の灯火が消えてしまうことが蒼志には怖かった。

「日下部さんから」

 ようやく音が戻ったのは、保険医の口から杏珠の名前が出たときだった。不意に聞こえた名前に思わず顔をそちらに向ける。保険医は涙を必死に堪えるように、けれど悲痛な表情を隠すことなく杏珠を見つめていた。

「半年前に『再発しちゃった』って笑って言われたの。最初は冗談だと思ったわ。だって、寛解になったって聞いてからまだ二ヶ月しか経っていなかったから。たった二ヶ月よ。それなのに……」

「半年前……」

 一人で水族館に行った杏珠はどんな思いでイルカショーを見つめていたのだろう。イルカが水しぶきを上げて宙を舞う間だけは嫌なことを忘れられると言っていた。何回も何回も腰を上げることなく見つめたショーで、何度自身の余命のことを忘れられたのだろう。

『どっちが先に死ぬかな』

『ふざけないで!』

『生きたいと思っているおばあちゃんと、生きることを諦めているあんたを同列に語らないで!』

 あの日、大学病院の前でした会話。あれを杏珠はどんな思いで聞いて答えたのか。生きることをどうでもいいと思っていた蒼志を、生きたいと思っている杏珠は、どんな気持ちで……。

「くそっ」

 謝りたかった。謝る時間が欲しかった。もう一度、杏珠に会いたかった。


 救急車は五分ほどで病院に着いた。行き先はやはり蒼志も通い慣れた、杏珠と会ったあの大学病院だった。

 ストレッチャーで運ばれていく杏珠を、蒼志は見送ることしかできない。午後の診察も終わり、人気ひとけのなくなった待合室で蒼志は一人項垂れたまま座っていた。保険医は学校に連絡するからと言って席を外した。待合室に設置された時計の秒針の音だけが響く。誰もいない病院というのはこんなにも心細いものなのだと初めて知った気がする。

 バタバタと走る足音が聞こえて、蒼志は顔を上げた。蒼志達の親世代ぐらいだろうか。男女二人が慌てた様子で処置室の方へと向かっていく。もしかして、と思ったが確証はない。この二ヶ月と少し、毎日のように一緒にいてたくさんの時間を共有してきた気になっていた。けれど、蒼志は杏珠のことなど何も知らないのかも知れない。

「朝比奈、蒼志君……?」

「え?」

 層声を掛けられたのは、処置室にその人達が入ってから三十分ほどしてのことだった。焦燥しきった表情の女性は、蒼志の前に立つと視線を合わせるようにしゃがんだ。

「始めまして。杏珠の母です」

「あ……」

「いつも杏珠がお世話になってます」

「そん、な、こと……」

 お世話になんてなっていない。小さく首を振る蒼志に杏珠の母は優しく微笑んだ。

「杏珠が呼んでるの」

「え……?」

「行ってやってくれないかな」

 一瞬、飲み込めなかった言葉の意味がようやくわかると、蒼志は反射的に立ち上がった。病院内で走ってはいけないなんて子供でも知っていることを守ることはできなかった。勢いよく駆け出すと、処置室のドアを開ける。バンッと音がして中にいたであろう看護師から「静かに!」と注意を受けたがそれどころではなかった。

「杏珠!」

 ベッドにはたくさんのコードが繋がれた杏珠の姿があった。取り付けられたコードがやけに痛々しい。薄らと開いた目はゆっくりと視線を天井から蒼志へと向けた。

「えへへ、バレちゃった」

 震える手で酸素マスクをずらすと、杏珠は弱々しく笑った。その笑みに喉の奥が締め付けられ上手く声が出せなくなる。それでも何とか絞り出すように、杏珠に声を掛けた。

「病気、なんだって?」

「バレないように、してたん、だけどなぁ」

 喋るのも苦しいのか、途切れ途切れに杏珠は答える。頷いた拍子に酸素マスクの紐が外れたのでそっと直してやると「ありがと」と微笑んだ。

 杏珠は笑いながら言うが、蒼志は自分自身が情けなくて仕方がなかった。どうして気づけなかったんだろう。あんなにも近くにいたのに。

「俺が……」

「ん?」

「俺が気づいていれば、無理、させなければ……」

 ああすればよかった、こうすれば何かが違ったかもしれない。後悔ばかりが蒼志の上にのしかかってくる。けれど俯く蒼志を、杏珠は小さく笑った。

「気付かれないように、してたからね」

「どう……して」

 蒼志の問いかけに答えることなく杏珠は再び目を閉じた。処置室の中には電子音と、それから遠くで看護師が何かを話している声だけが聞こえる。

「――もう、いいよ」

「え?」

 その言葉が何を意味しているのかわからず、思わず尋ね返す。杏珠は目を開けることなく、そしてさらに蒼志を拒絶するかのように顔を反対に向けると、もう一度口を開いた。

「もう写真、撮らなくていいよ」

「そう、なの?」

「……こんなところ、撮られるの嫌だしね。それに毎日病院に来てもらうのも大変だし申し訳ないからさ」

 早口で言う杏珠の表情は見えない。冷たく固い口調は蒼志を拒んでいるようだった。杏珠の言うことはもっともだ。蒼志だって自分が同じ立場になれば、病院に来てまで写真を撮られるなんて勘弁して欲しい。

「……わかった」

「私が言い出したのに、ごめんね」

「謝る必要なんて、ないよ」

 首を振る蒼志にもう一度「ごめん」と杏珠は呟いた。

「日下部さん、お部屋の準備ができたので移動しますよ」

 看護師は杏珠にそう告げると、手早く移動の準備をしながら蒼志に視線を向けた。その目は「そろそろ退室しろ」と言っているように思えて居心地の悪さを覚えた。

「……じゃあ、帰るな」

「うん、今日はありがと」

 処置室をあとにすると、蒼志は俯いたまま足早に出口へと向かう。静まり返った待合室にすすり泣くような声が響いていた。

 顔を上げると、途中のベンチに杏珠の両親が座って肩を寄せ合いながら泣いているのが見えた。向こうもこちらに気付いたようで顔を上げる。蒼志は頭を小さく下げるとそのまま通り過ぎた。

 出入り口の自動ドアの前で、蒼志は立ち止まった。

 これでいいんだ。杏珠が嫌がっているのであればこのまま病院をあとにして、また学校に戻ってくるのを待てばいい。そう頭ではわかっているのに、何故か足が動かない。あと一歩踏み出せばドアが開くはずだ。なのに、まるで病院から出るのを拒むように歩き出すことができない。

 どうして、こんな……。

「……っ」

 蒼志は自動ドアに背を向けると処置室へと戻る。ちょうどストレッチャーに乗せられた杏珠が病室へと移動の為に出てくるところだった。

「杏珠!」

「蒼志、君……?」

「俺、やっぱり嫌だ」

「え……?」

 杏珠は驚いたように目を見開く。けれど、杏珠以上に自分自身の行動が、蒼志は信じられなかった。

「な、にを……」

「俺は、最期の日まで杏珠の写真を撮りたい」

 杏珠の最期の日が来るのが先か、自分自身の最期の日が来るのが先かはわからないしそんなことはどうでもよかった。

「杏珠が言ったんだろ。3ヶ月間毎日写真を撮る合おうって。自分が言ったこと、ちゃんと守れよ」

 嫌だと言われても来るつもりだった。それでも伝えずにはいられなかった。こんなふうに自分の望みを口に出したのなんていつ以来だろう。それこそ、心失病になってから初めてのことのように思う。まだこんなふうに何かに執着する想いが、感情が残っていたなんて。

「しょうが、ないなぁ」

 杏珠は笑う。力なく、それでもいつもの杏珠の笑顔だった。

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