『4話・繋いでいたもの』/ぷろとこる


 法定速度を軽く上回り、飛ばしに飛ばした武本の車は矢木沢建設の事務所に滑り込んだ。

 資材置き場と砕石場を併設した広い敷地に、資材倉庫を兼ねた二階建ての建物がある。

 それが矢木沢建設の事務所だ。

 武本は明らかに焦った様子で土煙を上げながら駐車場に突き進み、車止めにぶつかるようなブレーキングで止まった。

 砂埃が舞い上がり、車の後ろを追いかけるかのように舞っていた。

 もはや、ある種のアトラクションの様だった。

 法律違反こそしていないが荒っぽさを感じる運転に田舎めいた物を感じる。

「結局どういうこと」

「パパは?」

 私達からの問いに武本はエンジンを切りながら言う。

 眉を寄せ深いため息交じりであった。

「分かんねぇ」

 電話だけでは事の仔細が把握できなかったが、何となく察することはできた。

 努氏は突然倒れたという話であったが、しかし今は仕事に復帰したようだ。

 昨日の夜に倒れて病院に運ばれた人間がもう会社に戻った。

 思ったより軽症であった、という予想よりも、無理矢理病院を抜け出したのではなかろうなという疑念の方が強かった。

 努氏は「そういう」バイタリティに溢れた人間であった筈だ。

 兎にも角にも、と私達は車を降り事務所へ向かう。

 階段を上がってドアを開けると中の様子が見えた。

 書類のファイルと事務机が並ぶ。

 数人の社員が机の前に座り大きな紙の図面を覗き込んでいた。

 まだ昼の時間だ。

 現場の人間は出払っているのだろう、駐車場にも工事車はほとんどなかった。

 その静けさとは対照的な怒声が事務所の奥から響いてきた。

 まるで部屋全体を揺さぶるかのようだった。

「武本どこ行ってたんだ!」

 その怒鳴り声に空気が張り詰める。

 思わず肩が縮こまる。

 私の後ろにいた空音がシャツの裾を掴んできたのが分かった。

 私は空音の方を振り返ることはせず、努氏の様子を観察した。

 倒れたなんて話が嘘であったかのように、驚くほど元気そうな努氏の姿があった。

 記憶にあるよりも身体の線は細くなり、髪の量も減っているが健康そうな顔色をしている。

 年月の重みを感じさせる深いしわ。

 特徴的な鉤鼻とエラの張った顔は空音にあまり似ていない。

 作業着姿に泥のはねた首筋を見て、今も現場に出ているのだろうなと察した。

「いやそれは」

 頭ごなしに怒鳴られて、しどろもどろになっている武本を横目に私は自分に言い聞かせる。

 萎縮してしまっては駄目だ、気持ちで負けては駄目だ、と心の中で叱責する。

 空音はこの生まれ育った土地と父親である努氏から逃げた。

 それを私は手助けした。

 彼がそのことをどう感じているか知らないが、私に対してとても友好的であるとは思えなかった。

 それでも私は先んじて努氏に声をかける。

「お久しぶりです」

 そうして不安そうに、そして控えめにいる空音を引っ張り出した。

 私達を見て努氏は目を丸くして言う。

「一体なんだ、突然里帰りか?」

 数年ぶりの再開を祝う雰囲気はなかった。

 というよりも、その口調や表情には困惑した様子が見て取れた。

 私達が帰ってくるとは思ってもいなかったのだろう。

 空音が普段とは違う気弱な声を漏らす。

「パパが倒れたって聞いたからよ」

「ふん、ピンピンしてるわ」

 努氏が豪快に笑い飛ばす。

 倒れたなんて話が嘘のようだ。

 今年で六十三歳の筈だが活力に溢れている様はとても年齢を感じさせない。

「病気じゃあないの? 病院に運ばれたんでしょう?」

 空音の問いに努氏は鼻を鳴らす。

「ちょっとした疲労じゃ、大したことない」

 本当か?、と内心訝しむもこの場で切り出すのも難しく私は口を噤んだ。

 元気そうな努氏の姿に空音の表情が少し穏やかになったのもある。

 とにかく空音の心労が晴れることに越したことはない。

 私達の顔を見比べて努氏は豪快に笑い言う。

「まぁ今日は家に帰ってこい。武本、お前もちょうどいい。空音とは同級生だったろ。家で一杯やるぞ」




 矢木沢家は記憶にあったよりも古ぼけていた気がした。

 夕暮れ時の傾いた陽射しによって長く伸びた影がその印象を強くする。

 玄関に置いてある埃を被った写真立てが努氏が独りであることを思い出させる。

 二階建ての戸建て、3LDKの広い家は男一人で住むには広すぎるだろう。

 空音と空音の母がいない家は寂しげな雰囲気があった。

 掃除の行き届いていない廊下、日付の止まったカレンダー、使われていない食器セット。

 どことなく暗く汚れている。

 東京に来て以来、私も空音も帰省していない、この家には久しく誰も来ていないのだろうなと思った。

 缶ビールとつまみと総菜が詰まったレジ袋を抱えた私と武本は、リビングの机の真ん中に荷物を下ろす。

「なんだか妙なことになった……」

 私のぼやきに武本が応える。

「空音が帰ってきて嬉しいんだろ。社長が元気そうならそれでいいじゃねぇか」

「別に悪いとは言ってない」

 武本に対してどうにも苦手意識のある私はつい素っ気なく言葉を返す。

 背の高さや肉体労働から来るガタイの良さ、刈り上げた短い髪とシルバーのネックレス。

 どうにも威圧感があって苦手な人間だと常々感じてしまう。

 空音が落ち着かない様子なことに気が付いた。

 視線は一点に定まらず、長い髪を指先で弄んでいる。

 手持ち無沙汰なのかと思ったが、空音はこういう時に何か手伝わなければと思うような人間ではない。

 暇でスマホを触っているわけでもない。

 何か気になっていることでもあるのだろうか、と向けた私の目線に気が付いて空音が言う。

「お線香あげてきていい?」

 すっかり失念していたことに私は慌てて頷いた。

「え? あぁ、私も一緒に行くよ」

 階段を上がり二階の寝室にある仏壇に、空音の母の写真があった。

 ここだけは綺麗に掃除が行き届いている。

 写真の中で微笑む母の顔と空音の顔は、綺麗な鼻筋や輪郭がよく似ている。

 若い頃は大層美人であったのだろうなと思った。

 線香の臭いが漂う中、空音はぽつりと帰宅の挨拶をする。

 細い煙が静かに揺れる。

 空音が母と死別したのは高校生の時だ。

 あの頃の空音は不安定で、今にも壊れてしまいそうで、だから私は彼女の手を取った。

「死んだって思い出すのが嫌で、この町を出たのにね」

 空音がロウソクの火を消しながら言う。

「いざ帰ってきたら大したことなくて拍子抜けしちゃったわ」

 空音の母が死んで六年、この町を出て上京して五年。

 過ぎた時間は彼女が気が付かないうちに、その心を癒し、その傷跡も消えつつあるのかもしれない。

 そしてそれは、もしかしたら、私と空音の生活の意義が喪われつつあることを意味していた。

 東京に行きたかったわけではない、ただ彼女は逃げ出したくて、私は彼女のその願いを叶えたいだけだった。

 今、ここで仏壇と向き合うその横顔がとても穏やかなものに見えたのが、私の心をざわつかせる。

 なら。

 私達の生活は、私達の関係は、互いの人生を相手と分かち合うという誓いをした事は。

 消えてしまわないだろうかと。

 あの時、高校生だった私は空音の事が好きだった。

 その自由な姿に惹かれていた。

 空音も私のことを好きだと言う、言葉にする。

 けれど私との関係を結ぶその根底に、その何処かに、この町から連れ出してくれるという期待があったのではないか。

 それが私達を繋ぐ理由になっていたのではないか、と私は思ってしまうのだ。

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