『2話・夜に誘うニンフ』/ぷろとこる


 奢るから、と言われて連れていかれた店の雰囲気に私は少し気圧されていた。

 会社の最寄り駅、その繁華街から外れた路地裏。

 そこにひっそり佇む様に位置する洒落たバル。

 看板の名前は筆記体で書かれていて何語であったかも分からなかった。

 物々しい木目の扉の先には間接照明で暗くも穏やかな雰囲気が広がっており、どんな背景や意味があるのかも分からないアンティークの飾りが壁に連なっている。

 平日の22時にも関わらず店内は満席に近く、それでも騒がしさはなく厳かな雰囲気であった。

 案内された隅の席でタブレットPCを片手に、私を誘った張本人である涼香さんは細い眉を上品にひそめた。

 垂れ目と丸い頬のラインは人懐っこさと愛嬌を感じさせ、均整の取れた顔のパーツが美しさを感じさせる。

 パーマを当てた長い髪は手入れが行き届いているのが見ただけで分かる。

 テーブルの横に置かれたステンドグラス風のライトから漏れ出た橙色の光、それが彼女の髪に当たって波打っていて、より魅力的な雰囲気を醸し出していた。

 その細い指でワイングラスを傾け唇を濡らし、涼香さんは言う。

「今すぐお仕事に繋がりそうなアテはちょっとないかな」

 橘涼香は私の職場の先輩であり、四歳年上の27歳である。

 WEBコンテンツ制作会社の中で女性向け記事を担当している彼女は花方であり、華やかで垢ぬけたファッションと見た目も相まって職場で注目を引いている。

 抜け目ないメイクと余裕のある立ち振る舞いが強調する可愛らしい顔立ちは、日々に忙殺されそうな私をより惨めにする。

 私は事務職で、主に彼女の下についてサポートを行っていた。

 入社したものの、才能が不足していたと痛感する。

 コンテンツを創る側に私は回れていなかった。

 ほとんど雑用係であった。

 そんな私に涼香さんは期待をかけ成長させようと色々と世話を焼いてくれる。

 社内のエースで多忙な彼女にそんな手間をかけさせてしまうことも、私をより惨めな気持ちにするのであった。

 今日の飲みも、業務上で重大なミスを起こして気落ちしていた私を慰めようと涼香さんが気を遣ってくれたのだと分かる。

 定時上がりを徹底している彼女を遅くまで残らせてしまったのは私のせいだった。

 けれども疲れた素振りすら見せず、気晴らししようと明るく誘ってくれたのだ。

 感謝の気持ちと情けなさが合わさった心情を私はずっと抱えたまま、慣れないワインの入ったグラスを飲み干した。

 その中で話題に上がったのは空音と、空音の絵のことだった。

「空音の絵、やっぱり駄目ですか」

 私の問いに涼香さんは分かりやすい困り眉を作る。

「その、なんて言ったらいいのかな。ちょっと言いづらいんだけど」

 言い淀みながらも、その声は透き通っていて嫌な雰囲気はなかった。

 私は言葉の先を促す。

「大丈夫です、分かってます」

 涼香さんが見ているのは空音の描いた作品だった。

 タブレットで撮影した空音の絵を涼香先輩は指先で滑らしていく。

 爪には控えめにラメが入っていた。

 その爪の下で派手な色が発光して踊る。

 まとまりのない色彩感覚と抽象的な絵。

 キャンバスには赤と青、緑と黄色と複数の色が纏まりなく混ざり合い、無数の線や形状が互いに絡み合っていた。

 動物らしきものを描いているのは辛うじて分かるがそこまでだ。

 何を描いたものであるかも本人の説明なしでは私達には理解できない。

 その説明すらも、空音は言葉では表現しきれずにいた。

「前衛的なだけだと、ね」

 涼香先輩はそう言ってタブレットを伏せた。

 空音の絵、ひいては空音に、芸術を生業とする道を紹介することは出来ないのだと涼香先輩は暗に述べていた。

「こういう絵を欲しがる人はビジネスの現場だとあまりないから」

 何を描いたのか辛うじて分かりそうで分からない抽象度の高い絵。

 独特で乱雑とも繊細とも受け取れる色遣い。

 技術的な評価の難しい書き殴ったような線。

 相談した私自身、それをどうやってお金を稼ぐ手段に変えていいのか見当も付かなかった。

 広報や広告の現場で求められている画風でないのは間違いなく分かる。

 けれど今の空音が個展を開いたりグッズを作ったりして一人のアーティストとして売っていく、なんてのが簡単に出来るとも思えない。

 そんなに簡単な世界でないというのは、素人の私にも分かる。

 どんな名前かも覚えられなかった赤ワインが入っていたグラスを涼香先輩は飲み干した。

 木皿に並んだオリーブと様々な形状にカットされたチーズを美味しいのかどうかも分からないまま私は口に運んだ。

 この味を理解できない私が悪いと責められているような居心地の悪さを感じた。

 洒落た空間で私だけが浮いていた。

 涼香先輩は言う。

「そういう感性は大事だと思うけど、こっちで……、つまり奈子ちゃんの方で上手くコンテンツの形にしてあげないといけないよね」

 空音は今、無職に近いフリーターだ。

 収入は不安定で、どのアルバイトも長続きせず、その性質からして正規雇用は無理だろうという諦めがあった。

 職務や人間関係による少しのトラブルや嫌なことで直ぐに仕事を放りだし、また気が向かなければそのままサボるという癖もあった。

 そんな彼女が得意とするのは絵だった。

 自由に筆を滑らした独創的な絵は誰かを惹きつける力がある、そんなふうに昔の私は信じていた。

 現実は甘くないと程なくして昔の私は知った。

 芸術の世界には何人ものライバルがいて、空音の何倍もの努力と才能を併せ持った人間がくすぶっている異様な世界。

 芸術的なだけの感性を金に換えるのは難しい。

 その現実が私と空音を蝕んだ。

 空音は端から芸術で金を稼ぐことを諦めている、というかそれを目的にしていない。

 だが私は空音を何とかその道に進ませるしかないと思っている。

 それ以外に彼女が生きていける道はないとも思っている。

 そんな私の悩みに親身になってくれるのが涼香さんであった。

 私達の事情を知った彼女は何かと相談に乗ってくれる。

 アート系の記事を担当することも多い彼女はその職務上、知り合った人をなるべく紹介しようとはしてくれている。

 空音の作品が仕事に繋がるようなアテを探してくれている。

 ただ結果は芳しくない。

 涼香さんは机の上の残ったパテを上品にフォークで口に運び言う。

「奈子ちゃんの事は助けてあげたいんだけど」

「いつもありがとうございます。私だけじゃどうしようもなかったので。涼香さんがいてくれて良かったです」

「奈子ちゃんが頑張る話じゃないような気もするけど」

「いえ、私がなんとかしないと」

 涼香さんだけは、私と空音は同棲しており恋人関係にあると知っている。

 そのことについて涼香さんはネガティブな反応をすることもなく、変わらず優しく接してくれる。

 結婚とは何となく伝えられなかった。

 結婚はあくまで二人の秘密の合言葉の様な物だった。

 他の誰も知らない、私達だけが知っている、私達の関係性。

 それを大っぴらにするのは、他の誰かに教えてしまうのは、何か違う気がして。

 そうやって私達が秘密を暖め合おうとする動機に、恐れという感情が少なからずあることは否定できなかった。

「奈子ちゃんの為にも、紹介できそうな人を引き続き探してみるから」

「ありがとうございます。いつも助けてもらっちゃって、仕事の時もこんなことまで」

「当たり前だよ、奈子ちゃんは大事な後輩だから」

 そう言って涼香さんは笑顔を作る。

 アルコールで火照った頬が、職場では見れない涼香さんの姿を演出している気がした。

「でもほんと、涼香さんはすごいです。四年後の私が涼香さんみたいになれるとも思えないですし」

 素直な賞賛だった。

 涼香さんの仕事ぶりは社内のエースと言っても過言ではなく、手がける記事は女性向けのトレンドを抑えたもので閲覧数上位、人のみならず仕事内容までお洒落であった。

 優しさと気品が外見にまで滲み出ていて、彼女の仕事ぶりと気配りにいつも私は助けられていた。

「新人の頃はそんなものだよ。焦らなくても大丈夫。奈子ちゃんは成長出来るって信じてるから」

「えー、そうですかね」

「私も奈子ちゃんと同じで最初は不安なことだらけだったなぁ」

「涼香さんみたいな仕事も出来て、美人な人には私の気持ちなんて分からないですよ」

「もう、口が上手いんだから」

 でも、それは事実だ。

 私とは何もかも違う。

 現実に打ちのめされそうな私と違って、彼女は上手くやれている側の人間だと感じた。

 仕事の才覚にも恵まれ、見た目も人柄も優れている。

 人に羨望の眼差しで見られる側で、そしてそれに驕れることもなく、優しさを分け与える余裕がある。

 私には何もない。

 与えられた仕事も上手くこなせず、毎日の生活に現実というものに忙殺されて余裕もなく、足を引っ張る垢ぬけない小娘であることに惨めさを感じている。

 胸がいっぱいになった私は思いきり、おかわりのグラスワインを飲み干した。

 そんな私に涼香さんは言う。

「空音さんとの生活はどう? 上手くやれてるのかな」

「それがその……、最近……男を連れ込まれたりして」

「えぇ?」

 涼香さんは目を丸くして驚いた様子を見せた。

 感情が分かりやすく表に出るのも愛嬌の一つだろうかと私は思う。

「恋人同士なんだよね」

「まぁ。でも空音がそれをちゃんと理解してるのか分かんないんですよね。ちょっと変わった子なんで」

 一度堰を切った言葉はとめどなく続いてしまう。

「そもそもあの子の恋愛対象が女性ってわけでもないですし」

「奈子ちゃんはそうなの?」

「えっと、まぁ……そうですかね」

「ふーん?」

 涼香先輩は興味深そうに頷きながら頬杖をついた。

 テーブルに肘を付き、前かがみで少し崩した姿勢。

 ボタンを二つ外した白のブラウス、その襟元からきめ細かい肌が覗く。

 つい視線をやってしまうと、涼香さんが私に問う。

「じゃあ私は?」

「え?」

「私の事も対象になる?」

 その突然の問いに私は茫然としてしまった。

 どういう意図の問いであるのか、どう応えるべきなのか、何もわからない。

 からかっているのか、ただの世間話の延長線上なのか、それとも警戒心なのか。

 私が何も口に出来ずにいると涼香さんは続ける。

「私、奈子ちゃんのこと好きだよ」

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