【7話・枠組みと心と、心の枠組みと(後編)】/あのにます


 麻希は間違いだと言った。

 野乃花が同性である麻希を好きであることを、「間違い」だと呼んだ。

 けれども、今までの麻希の言葉で彼女なりの考えがあるのだというのも分かった。

 差別だとか恐怖だとか、そういう感情が彼女の根っこにあるのではない。

 それでも、麻希は敢えて「間違い」という言葉を使った。

 出鼻をくじかれた気もした。

 麻希の言葉は間違っていないとは思う。

 この社会は、未だ息苦しい場所であろう。

 この社会は、未だその余裕がない場所だろう。

 意識も制度も知恵も見識も、この社会はきっと良い方向に向かいつつはある。

 社会にとって「異質なモノ」を受け入れる事が出来つつある。

 でも、それでも。

 未だ尚、この社会の何処かには残っているのだ。

 「異質なモノ」に対する拒否感が。

 それを異質として見なしてしまう「目」が。

 「異質なモノ」を受け入れる、その線引きをしている以上、それは本当の意味で受け入れたとは言えぬのだ。

 直接触れたことが無くても、私はそれを知っている。

 そんな予想は容易く出来る。

 私が野乃花に対して、正しい答えを出せないのだから。

 野乃花は同性の存在に恋をした。

 その事実を抱え込んで、野乃花は飛び込もうとしている。

 野乃花を傷付けてしまうであろう社会に。

 故に、それを麻希は止めようとした。

 社会が謳う「異質なモノ」に、野乃花がなってしまう事を止めようとした。

 それでも、という言葉を。その先に連なる言葉を。

 私は必死に拾い集めようとする。探そうとする。

 麻希の言葉を否定したかった。

 けれども言葉が見つからなかった。

 私と彼女は見ている方向が違うのだ。

 麻希の言葉は、間違っていると私は思う。

 けれども、ある一面では真実でもあった。

 そしてそれは、どちらかが間違っているという事でもないのだ、おそらくは。

「秋穂戸さんが野乃花にそこまで必死になる理由が分かりません」

 それは、と私は言葉を呑み込んだ。私は、何故、野乃花にこんなにも思い入れているのだろうか。何故、野乃花の事を考えてしまうのだろうか。

 始めは只の偶然だった。最悪の出会い方から始まった。そして偶然にも、野乃花は私の歌を知っていた。彼女の考えが理解できなくて、拒絶した。それでも段々と年相応の素顔が垣間見えたりして、放っておけない気持ちになった。彼女は抱え込んだ危うさを知ってしまった。私であって私でない歌が好きだという言葉に、私であって私でない存在に夢を見ている彼女に、私は自分の陰を見せてしまった。

 そう、それは。

 何故なのだろうか。

 黙り込んでしまった私に、麻希は言う。

「納得頂けましたか、秋穂戸さん」

「確かにそうなのかもしれませんが」

「あの!」

 突然、野乃花がそう口を挟んだ。

「アオトさんなら、そんな事言わないと思います」

 「アオト」という名前を使われ、私は野乃花の顔を咄嗟に見る。

 「アオト」という名前は私であって私でない。

 此処にいる私を指す言葉ではないのに、それでも野乃花の言葉が私に刺さる。

「アオトさんはいつも歌っていたじゃないですか。自分の気持ちが一番大事だって」

「それは……ただの歌詞だ。理想でしかないよ」

 反論の言葉には、ついトゲが混じる。

 その言葉に野乃花の表情が曇っていくのが分かる。

「じゃあ、いつも嘘を歌っていたんですか。あんなに必死に、あんなに真剣に歌っていたのに」

「っ……!」

「全部嘘の言葉だったんですか!」

「私はアオトじゃない!」

 つい言葉が漏れた。

 たまらず言葉が零れてしまう。

「それは現実に存在している存在じゃない! 私はもうアオトでもない!」

「大っ嫌い!」

 大声を叩きつけて。

 座っていた椅子を弾き飛ばして。

 野乃花が叫ぶとともにその手を振りかぶったのまでは見えた。

 一瞬、視界が揺れる。

 頬が熱くなって、遅れて痛みを感じた。

 野乃花が立ち上がって店を出ていく。

 それを追いかけて麻希が慌てて立ち上がった。

 私は動けなかった。

 椅子の上で崩れ落ちて立ち上がれなかった。

 店を出ていった二人の背中を見つめているばかりであったが、周囲から向けられた視線に気が付いて私は目を伏せる。

 今の騒動で衆目を集めたことに私は頭を抱えた。

 ほとぼりが冷めるのを、ただじっと待っていた。

 心臓が打つ鼓動が早くなって、呼吸が難しくなって、耳鳴りで一杯になる。

 野乃花の言葉がずっと頭の中で反響し続けていた。

 野乃花に否定されたことで、私自身がここまで動揺している理由が分からなくて。

 既に「アオト」という存在は捨てた筈なのに。

 それを否定されたって何も感じない筈なのに。

 冷めきったコーヒーに口を付けても、何の味もしなかった。

 幾ら待ち続けていても、野乃花達が戻ってくる事は無かった。

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