【6話・指先が触れる距離で(後編)】/あのにます

 新菜から貰ったチケットを手に、私と野乃花は日曜日の朝から電車に乗っていた。

 水族館に行こう、と新菜からチケットを貰った私が誘うと野乃花は迷っている様子であった。

 暫く思案した後に行きたい水族館があると行き先を指定される。

 その希望通り、少し足を伸ばして神奈川県の水族館へと向かっていた。

 日曜日に女子高生を制服姿で連れまわすのはどうかと思って野乃花には私の服を貸した。

 誘った当初の反応は少し微妙だった気がしたが、水族館の最寄り駅に着いた頃には彼女はすっかり上機嫌だ。

 貰ったチケットを利用して入館する。

 三棟の建物とショー用のプールが連なった大きな水族館だ。メインの棟が3階建ての構造な事もあり見て回るには多くの時間がかかりそうだった。

 絶えず吹いている強い潮風が海岸に面した立地である事を主張していた。

 日曜日である事も手伝って、館内は混み合っている。

 入り口近くの水槽を通り過ぎると少しずつ渋滞がばらけていく。

 深い場所へ潜っていくかのように、館内の灯りが落ち着いたものに変わっていき、無意識の内に私は野乃花の直ぐ側を歩く様にしていた。

 建物を貫く様に地下一階まで延びる大型水槽の前で私達は足を止める。

 水槽の光景から目を離せないまま、私達は言葉を失くす。

 見上げれば、乱反射する光が魚群の先でちらついた。

 その光を受けて、魚の腹が銀色を散らす。

 ゆっくりと泳ぐサメの鼻先に驚いて、逃げていく魚の姿が水槽の中で踊っている様にも見えた。

 野乃花が声を落として私に聞く。

「どうして歌うことを辞めたんですか」

「……野乃花はどうして下宿を始めたの。中学生では珍しいと思うけど」

 野乃花の問いに答えたくなくて、私は質問で返した。あからさまな拒否の言葉ではあったが、野乃花は私の質問に水槽を眺めたまま答える。

「両親が離婚して、お父さんしかいなくて。でも仕事でいつも家にはいなくて。そしたら麻希さんが、一緒に生活しようか、って言ってくれて」

 中学生の一人娘を、家で一人にしておくことを不安がった彼女の父親にとっては、麻希の申し出は丁度良かったのだろう。

 下宿と言っても通学距離が大して変わるわけではないらしい。

 通学の為ではなく、普段家に一人になってしまう事を避けるための下宿だという。

 初めは、只の従妹でしかなかった。

 そう野乃花は言う。

 そこから先の事は、十分に承知していて、会話はそこで途絶えた。

 話は、野乃花の部活や趣味の話になって、そこで野乃花は「アオト」の名前を出す。

 「アオト」の歌ばかりを聴いていた。

 その曲中に歌われている歌詞に感銘を受けた、と。

「私、アオトさんの歌すごい好きです。アオトさんの歌詞は、いつも、自分の気持ちに正直であろうとしてるから」

 高く、高く。

 見上げれば青い光が視界を一杯に埋め尽くす。

 水槽の足元で私は、遥か上を泳いでいく魚の影を見上げる。

 傍から見れば優雅であるように見えて、けれども決してそうではなくて。

 この水族館で一番大きいという水槽。

 首が痛くなるほど見上げてなければ、よく見えなかった。

 光を孕んだ青い揺らぎから目を離せないまま、私は言葉を零す。

「私は歌うことを辞めた。もう、アオトじゃない」

「それは」

「所詮、夢は夢だった」

 そのままの言葉の意味だった。

 それを誤魔化した所で、意味が無いと思った。

 野乃花が私の方を向くが、目を合わせず私は続ける。

「プロっていう道が見えてきた時、逆にプロへの道は閉ざされた。私の実力じゃ届かないと、はっきりと分かってしまった」

 趣味で始まった私の音楽は、いつしかその世界で生きていく為の道具になろうとしていた。

 けれども、だからこそ。

 近付いたから、知ったから、夢を夢のままにしておけなくなった。

 プロになれる程の実力も人気もない。

 私の人生の道は、そこへ続いていなかった。

 その道から外れた時、私に待っているのは既に決められた道だった。

 ならば、それならば。

 私には、何も残らなかったということではないだろうか。

 名前のない、無数の誰かの一人になってしまうのではないだろうか。

 そんな感情に囚われて私は動けなくなった。

 夢は、現実との境目で擦り減っていってしまったのだ。

 現実と向き合うなんて陳腐な言葉で私自身は、そこに縛られてしまったのだ。

 私は、何にもならない、何も成し得ない、只の「何か」であっただけなのだと。

 他の名前の無い誰かよりは、多少好きだった、多少上手かった、多少形になった。

 けれども、それは別の誰かより優れているものではなかった。

 それと向き合う事を、私は「所詮」という言葉で片付けた。

 それを分かっているから、今も、野乃花からも鈴乃からも目を逸らそうとするのだ。

「それならアオトさんは、アオトさんが歌っていたのは」

「だから、アオトじゃないんだよ。私は――!?」

 言葉の途中で、突然、肩を掴まれた。

 その手は力強く、私を後ろへ引き倒しかねない程の勢いだった。

 私は咄嗟に振り返ると、水族館のスタッフが私を凄まじい形相で睨み付けてきていた。

 状況が把握できず、私は困惑して言葉が出てこない。

 黒髪のショートカットがよく似合っている女性である。

 私より年上であろう、二十代半ばぐらいに見える。

 切れ長の目にハッキリとした目鼻立ちで、気の強そうな印象を受ける。

 彼女は私の顔をみて、そして野乃花の方を見た。

 私の肩を掴んだまま、彼女は野乃花へと声を荒げる。

「野乃花!」

 驚いた私は、何故か野乃花の名前を呼んだ彼女の顔を見て、そして野乃花の方を見て。

 そしてようやく、この女性が誰なのか察しがついた。

 野乃花が口を大きく開いたまま、けれど掠れた声を出す。

「麻希さん……」

 野乃花にそう呼ばれた女性は、私の肩を掴んだままで。

 その表情も険しいままであった。

 中学生が家出して、見知らぬ誰かの家に泊まっているとなれば、その反応も至極当然のものではあるのだが。

 麻希が水族館スタッフの制服を着ている、その意味を今更理解した。

 野乃花が悩んだ末に、この水族館を指定したのはこの場所に麻希がいるからであったのだ。

「電話した秋穂戸-あいおと-です。はじめまして」

 私は努めて平静を装ってそう言った。

 さり気なく彼女の手を、手の甲で払う。

 麻希は興奮が収まらない様子で、今にも私に掴みかかってきそうな雰囲気であった。

 唇を一度噛んでから、麻希が声を絞り出す。

「あなたは何なんですか。それに野乃花、自分が何をしているか分かっているの」

「その事ですが、その、話をさせて貰えませんか。お仕事終わるまで待っています」

 野乃花へ向けた麻希の視線を、私はその言葉で遮った。

 大人としての最後の一線で踏みとどまってか、麻希は一つ呼吸を吐いてその険しい表情に社会性を混ぜた。強張った声に冷静さを添えた。

「あと30分で休憩なんです。ここのレストランで待っていて貰えませんか」

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