第10話 ひな人形とたぬき

 ――きれいね

 ――おひめさま

 ――どうか、この子を守ってください

 ――あなただけは守るからね


 大勢の女性の声がする。

 世代を超えて、何度も繰り返し祈ってきた。

 ただただ、我が子が生き延びますように、

 幸せに生きますように、

 それは母親の、娘にあてた願い。

 ひな人形はずっと受け止めてきた。幾人もの母親の一途で揺るがない祈りを。


 ――この子の七つのお祝いに

 軽やかな喜びに満ちた声――いくつも見守ってきた命を慈しむ声。



 政は現実に引き戻されたと同時に地面に倒れていた。

 全身が冷たく、震えが走る。

 力が入らない。

 立とうとするのにできない。

 全身に黒いもやが――怒れるひな人形の穢れが包み込んでくる。

「政さんっ」

 三太が駆け寄ってきた。

「呪いの影響だ。はやく、その人形を離さないと殺されちゃうよ!」

「政さんっ」

 猫が泣きながら自分のことを見つめている。

 けれどここで人形を手放したら


「あなたは本当にお優しい人なんですね」


 思考を遮る声とともに肉体が浮いた。

 なにかと思ってみると、空が近く、星の瞬きが見える。

 ふわふわとなにかがそよ風に揺れている。

 地面が柔らかい――違う、これは毛だ。

 大きな狸が自分たちを背に載せて猛然と宙をかけている。

 政はあっけにとられてしまった。

 何が起こったのかわからない。

「川やっ! 姫っ」

 たぬきが声をあげた。

 政の両手にあるひな人形を口にくわえると、黒い靄をまとって宙にとんだ。

 しっかりと大切に、守るように人形を抱えて狸は川のなかに落ちていく。


 どばーん


 高々と水しぶきがあがる。

 沈黙。

 政たちが下を見つめると、

 ぷくぷくぷく

 ぷかっ!

 狸と、その腕のなかに抱えられたひな人形が浮かぶ、どんぶらこっこっと流れていく。

「おたすけぇ~」

 か細い声が狸から漏れた。

 もう黒い靄はなくなっている。

 水で穢れが浄化されたのか、それとも怒りから目が覚めたかはわらないが狙い通り成功したようだ。



「海まで流れるかと思たわ。ひー」

「なかなか悪運強いなぁ、お前」

 水浸しのたぬきがぶるぶると身震いして、毛づくろいをはじめた。

 たぬきの腕にいるひな人形は濡れてはいるが、幸いにも、それ以外の損傷はないようだ。

 安心した政は、自分たちを乗せてくれた大狸をちらりと見た。

 害を与えるつもりはないらしい。

 そもそも敵なら運んでくれないだろうし、こうして安全に降ろしてもくれなかっただろうし。

 どろんと煙を纏った大狸が人の姿になった。

「昼間のおばあさん!」

「ほほほ。これで背負ってもろた恩はかえせたかのぉ」

「……やはり狸でしたか」

「いかにも、私は三光姫狸と申します」

 またしても煙とともにその姿が――色白い肌の美女にかわり政は驚いた。

 年齢は政とさしてかわらないくらいの黒髪がなまめかしい美女だ。たぬきは美女が多いらしい。

「我が土地の民を守るが使命にございます。戦姫とも言われてますが、平和が何事も一番です。我々はもう人の世にあまり関わらないと誓いました。しかし、恩があれば話は別です。人に恩あれば、その人の助けとなるものです。過去の戦争時、私が守ったのもそういう理由です」

「……あなたが動くためのいいダシに使われたということですね」

 三光姫狸の笑みが深まった。その微笑みは妖艶な狐を思わせる。

「ここでの事件は私が縁を作った人の子に頼んで片付けていただいてます。今夜はもう遅いですので、どうぞお泊りください」

「また化かされませんか」

 政が用心して口にすると、ふふふと三光姫狸は目を細めた。

 やっぱりたぬきだ。

 

 幸いにも事件は大事にしないと口にした三光姫狸がいうように、翌朝目覚めてひな祭りのところに行くと割れていたはずの硝子は元通りにされ、何事もなかったようになっている。

 人外とは恐ろしい。

 それをいえば昨日は深夜にもかかわらず旅館に赴くと丁重に出迎えられ、たぶん一番いいだろう部屋に案内された。

 目覚めたとき山の中……というオチもなく、布団のなかで目覚めた。たぬきでも化かさないときがあるのかとびっくりして、まだ眠っている三太と猫を置いて政は事件現場にきたのはどうなっているのか確認するためだった。

 飾られているひな人形が朝日を浴びてきらきらと輝いている。

『人間さん、ありがとう。あなたのおかげで私は使命を全うできます』

「いえ」

『この仕事が終わったら私、引退するんです。ここのおばあさまが孫さんと一緒に暮らすため、この店を売り払うそうです。そのとき、私もこの近くにあるお寺で供養されるんです。だからこれが最後の仕事だったんです』

「そうだったんですか」

『はい。供養されれば、この魂ごと天へと迎えられます』

 付喪神も一応は神なので、神の世界に行くのだろうか。

 まったくその手の知識のない政にはわからないが、晴れがましい顔のひな人形の顔はとても幸せそうだ。

 多くの女性の手から手へと、祈るように託された愛情を、彼女はずっと抱えていきてきたのだろう。

 よくも悪くも、強い思いは毒になる。だからいつか役目を終えたらそれを手ばさなくていけない。

 今がそのときなのだと、すべて悟っている。

『狸さんのことよろしくお願いしますね。私がいなくて独りぼっちになっちゃうから』

「……あなたは、あの狸のことも心配だったんですね」

『もちろん。私は女の子の幸せを願う役目がありますから』

 慈愛深い笑顔は母のそれだ。


「何話してるんだよ」

 足元から声がしてみると、たぬきがちょこんと座っていた。

 政はちらりと人形を見ると、もう澄ました笑顔で動こうとしない。

「姫は、仕事中だから邪魔するなよ」

「人里にいると、捕まりますよ」

「うるっさいわ」

 悪態をついたあとたぬきは沈黙したあと、ぽつりと

「おいら、産まれたとき、親に捨てられたんだよ。しゃべれるから……独りぼっちで途方にくれていたけど、なんとか生きてたんだ。ごみを漁ったりしてさ、けど人に捕まりそうになったとき、姫が声をかけてくれて助けてくれたんだ。そのときは倉庫にしまわれていたけどさ、そのあとも何度もここに通って、姫の声を聞いて、この時期になると会えるから見にきたんだ。きらきらしてきれいで、あたたかくて、やさしくて、おかげで独りぼっちじゃなかった」

 淡々と語るたぬきの言葉を政は黙って聞いていた。

「姫の役に立ちたかったんだ。こんなおいらでも」

 だから助けを求めて、山だって越えてみせた。

「あなたのがんばりはみんな見てますよ」

「おいらのことをひとりにしたこんな世界きらいだ」

 たぬきははっきりと口にする。

「けど、姫がいた……あんたたちが助けてくれた。だからおいら、まぁなんだ。少しだけ見直してやるよ」

 ふんと鼻を鳴らすたぬきに政は目じりを細めた。

 それは猫と出会って、食事をする楽しみを見出した自分と同じ気持ちなのだろう。

「あと、おい、お前の嫁とダチを連れてこい。恩返ししてやるよ」

 偉そうなものの言いに何か言い返してやろうと思っていると、なになにーと背中から声がする。

 振り返ると三太と猫がきていた。

 朝の散歩のつもりで抜け出したのがばれたらしく探しにきたらしい。

「こいよ!」

 一言そういうとたぬきが走り出した。

 その背を追いかけて政と三太、それに猫は歩き出す。

 長い道を歩いて、途中にある山にはいるだろう獣道に入り、こけないように注意して上へ、上へとのぼっていく。

 どこまでいくんだと言おうとしてたぬきが足を止めた。

「おいらの特別だ。あんたたちには恩があるからな、見てみろっ!」

 広がるのは色鮮やかな淡いピンクの海だ。

 いくつもの桜が折り重なり合い、咲き誇る空間。

 甘い香りが広がる。

 春だ。

 世界は命で溢れている。

 政はちらりと猫を見ると、うつくしさに見惚れている。そのきらきらと輝く横顔を見ることができた、それだけでよかったのだと思った。

「猫」

「はい」

「……あなたとのことは真剣に考えてます。だから少しだけ時間をください」

 猫が驚いたように目を見張り、政を見た。

「政さん、私、せっかちしちゃいました、あの」

「いえ。悪い気はないですが、ちゃんと真実を口にしたほうがいいでしょう」

 猫が口にする理想の関係――夫婦に、自分たちはなれるのか。まだ政には自信がない。だから何度だって遮って訂正をいれてしまう。まだ、そこにはいけてないから。

 猫が目をうるうるして見つめ、手を伸ばしてくれた。

 手を握られて政は戸惑いながら、握り返した。

 まだお試しの、手探り状態の一歩目のために。

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