第3話 久しぶりの外


 修治郎はじっとりとした目で蘭子を見つめ返す。蘭子は続けた。

「このような怠惰な主人に仕えるのは御免ですと、旦那様に突き付けて、ここでの使用人をやめさせて頂きたく思います」

 真意ではない。只の脅しである。ただここで、自分にはそんなことを決行するつもりもないと相手に分かってしまうのが一番無意味だ。この主人の我儘と不機嫌には散々弄ばれてきた。だからこそ、ここで最後にしたいと何度も思ってきた。

 御免なさい、と蘭子は心中で何度も呟く。

 長い長い、舟をこぐような間のあと、言葉を溢したのは修治郎である。

「分かった」

 蘭子は、はっと顔を上げた。分かった。確かにそう聞こえた。

「但し条件がある」

 修治郎は、不機嫌な顔を少しだけ和らげて続けた。否、笑っている。

 猛烈に嫌な予感が湧いてきたが、蘭子は次の言葉を待った。

「君の本来の目的くらい僕には分かっている。青木家云々よりも重要な、君が為の目的が。君がその為に必死で可哀想な目に遭っていることも勿論知っている。僕は君の困っている姿が大好きだから長らくその目的が果たされることのないよう祈っているが」

「条件とは」

 蘭子は苛立ちを隠すことなく問い詰める。修治郎もまったく動じずに返す。

「君は今僕に外に出ろという、僕が全身を使って拒みたい要求を飲み込ませようとしている」

 大仰に語り出す。

「仮に、ただ僕が外に出るという、君が要求が達成されたとしても、その次その次と君が僕に通させたい要求はしだいに格が上がっていくのだろう。学校に通うこと、機会がなくとも定期的に外に出ること、友人やツテを作ること。まったくもって御免被る。どれも僕にとっては無理難題ばかりだ。そこで--」

 蘭子は煙に巻かれたような妙な顔で聞いていたが、修治郎はやがてこう言い切った。

「僕が君の要求を一つ飲む度に、君にもそれと同程度の僕の要求を飲んで貰おう。要は等価交換だ」

 澄ました顔で言い切った修治郎に、蘭子は体の力が抜けたようにこう返した。

「何ですか、その……ぼんやりした条件は」

「達成動機を高める為の外的要因というやつだ」

「いえ、ちっとも分かりやすくなってないです」

「君用に噛み砕いて言うならば、君の願いを聞いてやるから僕の願いも聞けということだ」

 修治郎は愉快げな笑みを崩さずに言い放つ。

「当然、飲むだろうな。でないと僕は外に出ないぞ」

 何故こちらが追い詰められている風になっているのだろうかと蘭子は唇を噛んだが、最後には頷いた。

「分かりました」

 頷くしかなかった。これまではどうやっても、どれほど粘っても、彼から「分かった」の一言をひねり出すことはできなかった。何なら九割方の確率で返事さえも返ってこなかった。それほど毛嫌いしていた外出をこの程度の条件で引き受けて貰えるのである。何をふっかけられるかは分かったものではないが、これまでの拒みようを知る蘭子にとっては、今回の気まぐれはとんでもない幸運だ。

「はは、楽しみになってきたぞ」

 修治郎は美味そうに紅茶を啜り、満足げに唇を舐めた。



 珍しく晴れていた。

 青空をレンガ造りの壁が切り取る路地裏である。

 黒のインバネス、スラックスの裾を黒のブーツに押し込んだ、全身黒ずくめの男がのっそり道を行く。

「暑くないのですか」

 隣では長い髪を綺麗にまとめ上げ、よそ行きのカーデガンを羽織った蘭子が妙な顔をして歩く。

 黒ずくめの男もとい修治郎は、蘭子よりも輪をかけて妙な表情で返す。

「二足歩行ですたこらと歩くのが至極面倒だ」

「よく生きてこられましたね」

「そういえば、君はこの気候にも慣れるのが早かったな。さては変態かね」

「故郷が寒かったですからね。あと貴方に言われたくないです」

 蘭子は修治郎を盗み見た。というのも、ああも外に出るのを拒んでいた割には、先程から何の可笑しなところもなく普通に歩いている。自分に対し妙な冗談を飛ばせる位には平常である。

 しかし、路地裏を抜け、日の当たる表通りに出る手前、様子は急変した。

「蘭子」

「何でしょう」

「本当に進むのか」

 弱々しい声である。

「進みますよ。でないと辿り着けないでしょう」

「この人混みを正気か」

「人混みって……せいぜいご婦人方しか居られないではないですか、木曜日ですし」

 修治郎はしばらく何やらぶつくさ呟いていたが、何かを決したのか一言。

「これも僕の要求を飲ませる為か」

 そう言って二人一緒に一歩を踏み出した。

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