第九話 薩埵の剣 皆本俊輔

 「信じられん」

 日影兵衛は由比宿に入ると、三度笠をくいっと持ち上げそう言った。

 沼津宿を出てからここ迄、なんの事件も起こらずに無事に到着したのである。原、吉原、蒲原の宿場宿を無事に抜けたのであった。

 しかし、そもそも日影兵衛の様に災難続きの方がおかしい。東海道はそんなに荒事が起きるような街道ではないはずだ。

 日影兵衛の両脇にはりんとたけが揃って歩いていた。

 ここまで来るうちに仲良くなったのか、などど日影兵衛は考えたりする。まあ、これもそんな訳であるはずがない。

 「平和な事は良いことだ」日影兵衛は辺りを見回してそう言う。日影兵衛は気分がいいのか、この道中よく喋る。

 「しかしこの先に行くには薩埵峠さったとうげを越えなければなりませんよ」と永山宗之介が少し心配そうに話した。薩埵峠とは東海道の三大難所のひとつである。

 「でも、登れば素敵な風景が見られるんでしょ」などどたけは口をはさむ。厄介事が起きなくて、もう観光気分になっているようだ。

 「そうだな。明日の朝一番で向かおうか」と日影兵衛も気楽に言った。

 日も落ちて夕飯も取り、各自部屋の中でくつろいで

 いた。日影兵衛はいつものように窓際で煙管きせるをふかしている。

 「それじゃ湯屋に行ってきます。おりんちゃん、行こ」たけはそう言って部屋を出ていった。

 前田主水は日影兵衛と永山宗之介の方をちらりと見ると「今日は儂か。行ってくるわ」と部屋を出ていく。

 女ふたりが男達から離れると、誰かがついて行くというのが暗黙の了解の様になっていた。

 湯屋に入ってりんとたけは湯帷子ゆかたびらを借りると、早速着替えて中に入る。ふたりはまだ微妙な関係にあったが、空気をおかしくするような事もなくなっていた。道中は。

 「おりんちゃん、背中洗ってあげる」たけがそういうと「すみません」とりんが言って湯帷子を脱いで前に抱えると、たけはりんの背中をこすり始めた。石鹸というものは既にあったのだが、まだ普及しておらず基本的に垢すりをすることになる。

 「……おりんちゃん。その、前から気になっていたんだけど、聞いてもいいかな。嫌だったら別にいいんだけど」とたけはりんに話しかけた。

 「何でしょう」とたけの方へ頭を回して横目になりながら答える。

 「その右腕の傷、如何どうしたのかなって。結構新しい傷みたいなんだけど」

 「あ、これですか」そう言ってりんは右腕を上げると「実は小田原宿で辻斬りに襲われて……」と説明し始めた。「そういうわけで、もう大丈夫なんですが傷は残るって」そう答えたりんは何故か頬を赤らめる。

 「なんでこの話で顔が赤くなるのよ。大変な事じゃない。その傷、後に残ってしまうわね」そうたけがいうと「あ、あの今度は私がおたけさんの背中を」と言って湯帷子を着付け治すと立ち上がり、たけと変わって背中をこすり始める。

 「じゃあ私も聞いてもいいですか」と頬を赤らめてしまったことを誤魔化すようにりんが聞く。

 「何かな」

 「おたけさんは、その、永山様の事を」そこまで言うと、たけは振り向きもせずに「やぁね。ただの雇い主と用心棒っていうだけよ。じゃなければ日影様とおりんちゃんの間に割って入るわけないでしょ」と何でも無いように答えた。

 「永山様にすればいいのに」と言いつつ、りんははっとして「割って入ってなんですか。そういうのじゃないです。ただの下女とあるじです」と幾分声を大きくして言った。

 「そうかなあ。じゃあそう言うなら私が独占と言うことで。おりんちゃんが下女と言い張るなら問題無いわね」

 「何を言ってるんです。はい、終わりました」とりんはきっぱり言ったようにみえたが「ひ、日影様とおたけさんが仲良くするのを見るのが嫌なんです」とどもりつつらした。

 「なにそれ。おりんちゃん、分かってていってるの」とたけも湯帷子を着つつ、りんの方へ向いた。

 「分かるって、何をですか」

 「全くこの子は。自分が何を言ってるのか気がついていないのかしら」

 「だから、何を分かるって言うんですか」とりんはたけを見つめる。

 「……三島であんな態度を取っていたくせに」たけの追求は止まらない。

 「だから、だから私は日影様のものなので、ずっとそばにいるのは私なんです」

 「なに訳の分からない事を言い出すの。私の邪魔をしなくたって、あの人のものであることは変わりが無いじゃない。それに日影様のものは結局私のものになるのよ」とたけはりんをにらむ。

 「おたけさんだけは駄目です」

 「この小娘は一体何をいいだすの。他の女なら良いとでも言うのかしら」たけはりんを見下ろしながらあきれて言った。

 「他の女って……それより小娘って呼ばないでください。そう言うなら私はおたけさんのことを行き遅れって言います」

 「な、なんですって」

 三島を出てから宿場について湯屋に行くたびにのようなことを繰り返しているふたりであった。

 離れた所に陣どっていた前田主水は毎度のごとく、ふたりが何しているかも気が付かずにのんびりと湯を楽しんでいた。全くりんとたけを気にしている様子がない。因みに日影兵衛の場合も似たようなものである。

 湯屋から戻ってきたふたりを見て「またか。湯屋に行くたびに何故そうなるのか」と、戻ってきたふたりを見て日影兵衛は嘆くように言った。永山宗之介はにやにやしている。

 「何が言いたい、永山殿」

 「いいえ、別に何でも」永山宗之介は巻き込まれたくないかのように日影兵衛から視線を外す。

 「いやー、さっぱりした」と、そこに空気を読めない前田主水が帰ってきた。

 「お前は気楽でいいな」そう言って日影兵衛と永山宗之介は入れ替わりに湯屋へと行った。

 ふたりが戻ってきて全員部屋に揃うと「明日は早い。もう寝るか」と日影兵衛は言って、表面上はみんな仲良く床についた。

 翌朝、みんな揃って由比宿を出発した。次は薩埵峠を越えて興津宿おきつしゅくに泊まるつもりである。流石に難所を越えたあとに、そのまま先を急ぐ事もないだろうということだ。りんとたけも連れている事でもある。

 そして思ったとおり、りんとたけはぜいぜいと息を尽きながら「もうやだ」と言い出した。

 永山宗之介が「もう少し行けば天辺ですよ。とても眺めが良くて綺麗な風景が観られます」とふたりに声をかけると「え、ほんと。観たい観たい。そこでお弁当を食べよう」といきなりりんとたけは足を早め始めた。

 「なんだ、元気じゃないか」と、そのふたりの背中を見つつ日影兵衛はつぶやいた。

 彼女達から大分だいぶ遅れて三人が到着すると「ふたりともいない」と前田主水が日影兵衛と永山宗之介の方を向いて言った。

 「まさか先に行くはずは……」と日影兵衛は言いつつ辺りを見るとある物を見つけて駆け寄った。

 「これはおりんとおたけの振り分け荷物ではないか」そして「これはおりんの飾りくしだ」そう言って日影兵衛が拾い上げたのは、踏みつぶされたのかふたつに割れたりんの櫛だった。

 「かどわかしか、もしかして箱根湯本の……」

 前田主水が言い終えるのも先に、日影兵衛は三度笠を引きちぎるように外して投げ捨てながら駆け出した。永山宗之介も「おたけ殿」と言いつつそれに続く。

 「お、おい」と前田主水はりんとたけ、そして日影兵衛と永山宗之介が落としていった振り分け荷物に目をやりつつ「に、荷物を気にしている場合ではない」と言って跡を追う。

 日影兵衛は前方に待ち構えていたとでもいう様な集団を見つけると、立ち止まって背負子しょいこを下ろす。

 「知らせとは全く違うぞ。男ひとりと女ひとりが増えている」腕を組んだ頭らしき者がそう言うのを聞きながら、日影兵衛はりんが繕ってくれた風呂敷包みを背負子からびりっと外す。

 「お前は小娘ひとりも守れない、役の立たない用心棒だな」相手がそう言うと「用心棒だと。何を言っている。」と言って背負子からひと振りの刀を取り出す。それを見て相手の周りにいた手下合わせて十人と、その後ろにある荷車を護るように立っていた四人が刀の柄に手をかける。

 「俺は皆本俊輔と言う。と名乗ってもわからんか」そう言いながら首元に巻いていた黒い布を目の下まですりあげた。相当腕に自身があるらしい。刀の柄に手もかけていない。

 「黒錦党こっきんとうだと。何故おりんを狙う」黒い覆面を見た日影兵衛の声色こわいろが変わった。

 その問いには答えずに、皆本俊輔が「さっさと京に連れてくると思ったが、頭領は痺れを切らした。ここで貰い受ける」と言い放つと、手下が揃って刀を抜いた。

 日影兵衛は「こやつらに使うのはもったいないが」と手にした刀をすらりと抜き、脇構えを取る。その刀は佐々木琴を倒して手に入れたものだ。無影剣を振るっても折れる事はないと日影兵衛は信じているのか。

 「貴様らはに死ね」

 そう言い放つと、彼の姿が消えた。

 「なんだと」と皆本俊輔が驚いて刀の柄を取って抜こうとする。しかし目に入ったのは何をしたらそうなるのか、突然斬り飛ばされたかのように倒れていく十人の手下だ。あたり一面血煙が舞う。

 そして。

 日影兵衛は突然と皆本俊輔の目の前に姿を表した。その皆本俊輔を見る顔は無表情で血の気が無いほど白く見えた。

 皆本俊輔は既に自分の両腕両脚が失くなっている事にも気づかずに、声を上げる間もなく日影兵衛に蹴り飛ばされた。そして荷馬車に激突し崩れ落ちる。

 それを見るまでもなく、山名宗之介と前田主水が脇を駆け抜け、残りの四人をまたたくもなく切り捨てる。

 全て一瞬の出来事である。

 日影兵衛はまだ息のある皆本俊輔の顔に切っ先を向けると「もう一度聞く。何故黒錦党こっきんとうはおりんを狙う」と無表情に言った。

 「ひ、ひいひい」としか言えない皆本俊輔。その姿を見下ろす日影兵衛はまだ無表情のまま言い放った。

 「両腕両脚はおりんとおたけの分。そしてこれは

 皆本俊輔の頭は横の茂みまで吹き飛んだ。

 日影兵衛は残った胴体の襟首をつかむと、刀を奪う事もなく反対側の茂みに投げ捨てる。

 最後の一太刀にどんな思いが込められたのか。

 

 前田主水と永山宗之介はりんとたけを荷車から助け起こし、いましめを解いた。

 前田主水は「こちらをを見るのではない」といって日影兵衛の方を身体で隠し、永山宗之介はふたりを惨劇の場が見えなくなるところまで連れて行った。

 その場には十四人の無残な斬殺死体と持ち主のない両腕両脚が転がっていたのだ。

 

 前田主水は「荷物荷物」と言いながら戻って行くと、放り出されていた彼らの持ち物を抱えて三人のもとに走ってきた。

 「あの、日影様は」

 永山宗之介はそう問いかけるりんを見つめると、後ろを振り返った。

 そこに何も起こらなかったというような顔をして、日影兵衛がやってきた。

 日影兵衛はりんに近づくと、腰を落として「すまん、風呂敷包みを破ってしまった」と、りんにつくろってもらった風呂敷を手渡した。「薩埵峠はまだまだ続く。興津宿に着いたらゆっくり休もう。その間にまた作ってくれまいか」そう言う彼は滅多に見ることのできない優しい笑顔でりんを見つめていた。

 「ああそうだ、忘れるところだった。おりん、これ。壊れてしまっている」と日影兵衛は懐からりんの飾りくしを取り出した。りんはそれを受け取り「どうしよう。代わりの前髪飾り、持ってきてなかった。でもおしゃれしても似合わないからいいか」と少し残念そうに言った。「もともと地味な櫛だったし、なくてもあまり変わりないし」

 「おりんちゃん、女の子はそんなんじゃだめよ。取り敢えず私のを貸したげる」たけは自分の荷物の中から飾り櫛を取り出すと、りんの乱れた髪を整えてさしてあげた。たけが持っていただけにやたら華やかな櫛である。

 「……おりん。全く似合ってないな」

 そう言う日影兵衛に「どうせ地味な里ぐらしの小娘ですよ」と言ってりんはいじける。

 「そうむくれるな。代わりを興津で買ってやるぞ」りんはそう言われてぱっと笑顔になり「おたけさんおたけさん、実はこの小袖と帯も日影様が買ってくれたんですよ」とたけに自慢げに見せつける。

 「……なんですって。なんで今まで黙っていたの」とたけはりんのこめかみをぐりぐりとした。

 「痛い痛い、やめてやめて」

 「だまらっしゃい、そうれそうれ」

 そんなふたりを見て永山宗之介は「問題なさそうで良かったですね」と日影兵衛に言った。

 「うむ。では興津に向うか」と答えると「なあなあ、弁当は。儂は腹が減った」と前田主水が口を挟む。

 「……弁当はぐしゃぐしゃになっただろう。興津まで我慢しろ」と言って日影兵衛は立ち上がり、りんの手を取って歩き始めた。

 「な、なんでおりんちゃんばっかり」たけはりんの反対側に回ると、日影兵衛の腕に自分の腕をからませる。

 「おい、おたけ。歩きづらい。してくれ」

 そんな三人を見て、前田主水と永山宗之介は笑いながらついていった。

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