第5話 禁煙席のモノローグ


「雨風が凌げるならゴミ捨て場でも寝られる」と豪語するダリマだが、唯一煙草の匂いだけは昔から苦手だった。彼女にとっては電子煙草もそれ以外も大差はない。そのため、アトリエ近くのハンバーガーショップを利用するときは必ず、喫煙室から遠い窓際のテーブル席を選んで座る。


「ねェ、あたしダリマ。かわいこちゃん、お名前は? ちょっとでいいから教えてよ」

「セージュ」

「今の声超セクシーだな、100点。でもあたしがお話ししたいのはあんたじゃなくて、後ろのべったりガールなもんで」


 黙っていろ、とジェスチャーで伝えられ、セージュはおとなしくアイスティーの入ったカップを手に取った。

 セピア色の長い髪を耳にかけ、改めて雨蕾々が読んだ怪談を頭の中で反芻し、思案に耽る。


 自宅で雨流の話を聞いたとき、セージュが抱いた疑問は主に3つだった。


 まず、呪いの主はなぜ朗読にこだわるのか。何らかの理由で字を書けなかったため――という線は捨ててもいいだろう。不可解なものは突如として現れるものだ。「怪異が最初の動画をどのように録音・編集し、配信したか」などと考えることにはあまり意味がない、とセージュは考える。命がどこから来るのか、死んだらどこへ行くのか、それを考え悩む行為によく似ているように思う。


 次に、なぜ呪うのか。さらに言えば、呪い自体がどこか奇妙だ。


 雨流は女の姿をした何かにまとわりつかれることを「呪い」と表現した。録音に入る前、セージュは雨蕾々にも女の霊について聞いてみたが、やはり雨流と同じようなことしか言わなかった。むしろ漠然とした雨蕾々の説明より、雨流の言葉のほうがいくらか具体的でわかりやすかったかもしれない。


 だが、雨蕾々が直面した怪現象を「呪い」と呼ぶのは少々弱い気がする。

 今のところ、彼が被った害は少しばかりのサプライズと寝不足程度だ。少なくともセージュの目には、兄弟が重篤な危機に晒されているようには見えなかった。


 果たしてそんな生易しい呪いに意味があるのか。呪いのビデオや不幸の手紙のように、人々が呪いや災いから逃れようとしなければ、呪いの連鎖は続かない。

 ならば案外、あの動画の目的は呪いを拡大することではないのだろうか。


 だとしても、セージュは雨蕾々から「ルヴナンもどき」を貰ってきた。

 セージュは朗読を聞きはしたが、動画を視聴したわけではない。めぼしい何かルヴナンを見つけ次第手に入れようと目を光らせていたから、怪異にはそれが行儀の良い態度に見えなかったのだろう。結果、ルヴナンに押し負ける形で失神はさせられたものの、一応は手土産を貰ってくることに成功した。


 怪談そのものに何かを伝播する機能があることは間違いないだろう。この辺りは雨流が語った噂通りかもしれない。


 3つ目の疑問は少し趣向が変わる。なぜ夕霧雨流は呪われなかったのか。雨流は雨蕾々によって呪いの動画を見せられたが、雨流の前に女の霊は現れていないと言う。


 実際に朗読をする雨蕾々だけが『配信者』と見做され呪われた、ということだろうか。

 ならば朗読を聞いたセージュにルヴナンもどきが憑いたのは、怪異の怒りを買ったせいか、単なる偶然ということになる。何しろ、セージュは雨流以上に動画配信との関りが希薄で、呪いの主からターゲットと見做される要素が少ないのだから。


 が、その辺りは何とも言い切れない。そもそも雨流はセージュのように、わざと怪異の怒りを買うような真似はしないだろう。それに、セージュに憑いているルヴナンもどきと雨蕾々の前に現れた女の霊とが、まったくの同種なのかも未だ不明だ。果たしてセージュが噂通りの呪われている状態であるのか否か、現在の時点では知りようもない。


 あるいは、動画を見た最初の人間一人だけが呪われる仕組みとも考えられる。だから雨蕾々だけが呪われ、雨流は呪われずに済んだ。そして雨蕾々の動画の最初の視聴者と見做されたのが、たまたまセージュだったのかもしれない。


「彼女は意図的に僕を選んで憑いたわけじゃないのかしら」


 セージュの小さな独り言に、ダリマは首を傾げた。歪つに潰れたハンバーガーを齧りながら、じっとセージュの後ろを見遣る。彼に憑いているものの気を引くことはもう諦めたらしい。二人ともはなから期待していたわけではないが、案の定、収穫は何もないようだった。


「わかんないけど、タイラーはおばけちゃんに好かれるのが壊滅的に下手だし、気に食わないから嫌がらせのつもりで憑いてやっただけってェのは大いにあり得る」


 ダリマはホットココアの入ったカップをその白い頬にあてながら、わざと大きく目を見開いて大げさにセージュの顔を凝視した。


「タイラーはアレだ、ルヴナンにとっちゃァ、往来で中指立てて踊りまくってる激ヤバお兄さんみたいなもんだからね」


「僕が? そんなの、怖がって誰も寄って来ないと思うけどな」


「じゃあ例えを変える。月曜朝の駅のホームで、ハーイごきげんようって能天気に話しかけてイラっとさせる無職っぽいお兄さん」


「うん。それなら自覚がある」


 セージュはくすくす笑いながらアイスティーのストローを咥える。

「そういやァさ。件のぼっちゃんの呪い? 女の霊に憑かれてるっていう件は解決したのかね。もしかしてあんたがテイクアウトしてきちゃったんじゃないの、それ」

 ダリマに顔の横を指さされ、セージュは何度か頷きながらカップをトレイの上に置く。

「そうだった。まずはそれを確認しよう。アメルくんに聞いてみる」


 昼の時点でダリマは、セージュから「呪われに行くから迎えを頼むかもしれない」としか説明されていなかった。そのため、ろくに事情も知らぬまま兄弟の家を訪ねたのだが、この店へ来るまでの道中、一連の出来事は既にセージュから聞かされている。


「……でも今は少し面倒くさいな、特にきみの話をするのが。先にルヴナンについて整理してもいい?」


 ダリマはココアを口に含んだまま人差し指を上げた。その仕草を「ご自由にどうぞ」という意味と捉え、セージュは唇に軽く指の先をあてる。ダリマに聞かせるためではなく、自らの頭の中にある雑多な情報を確認するため、セージュはゆっくりと口を開いた。


「そう……僕が以前から考えていた仮説がある。例えば『カシマさん』や『てけてけ』が呪う話。洒落怖だと大方は自己責任系というカテゴライズで、どれもその話を聞いた人が同様の怪現象に見舞われる、というおまけが付く。カシマさんの話を聞いた人が『八尺様』に襲われた、というような話は、僕はほとんど聞いたことがない。カシマさんの話を聞いた人の元にはカシマさんが現われる。大体の話はそういうふうに出来ている。


 なぜカシマさんが現われるのか。答えは多分、その設定が一番怖くて忘れ難いから。それがカシマさんの生存戦略なんだ。これが僕の仮説。

 幽霊や妖怪は、ダリマや野沢さんにとっては違うかもしれないけれど、僕を含めほとんどの人間にとってはシュレディンガーの猫のようなもので、いるのだかいないのだかわからない」


 ダリマはホットココアのカップを持ったままニタリと笑った。


「存在を確かめるため無闇に箱を開ければタイラーみたいに憑りつかれる。猫ちゃんの死体が入ってるのもかなり嫌だが、どっちにしろ触りたくない箱にゃァ違いない」


「うん。そうして敬遠され続けると、箱の存在は忘れられて、本当にいなかったことになって消えてしまう。

 怪異は、人の記憶に残ることでしか存在を保てないのかもしれない。忘れられると弱っていくし、想われれば強くなる。そういう人間の思念や信仰が長年蓄積すれば、神にも妖怪にもなり得るのだろうけれど……とにかく怪異が怪異で在り続ける最低ラインは、忘れられず語り継がれること。それが彼らの生存戦略で、人々の関心を繋ぎ留めるためにキャッチーな怪談話やVHSを利用するのは王道のセオリーなんだ」


「ふーん。死霊の類でも生存本能っていうのは死なないもんなのかねェ」


「人はただ在るだけで常に『死』ではなく『生』を目指している。死霊の場合もその点だけは生者と変わらないのだと思う。生きている人間の場合、努力しなくても心臓は動くし、勝手に血が巡って小指の先まで酸素が行き渡る。すべての内臓や細胞が突然生きることを諦めて止まったりはしない。どんなに死にたい気分になっても、子孫を残すことを諦めても、ミトコンドリアにはそんなこと関係なくて、僕らの意志を無視してでも生きようとする活動をやめない。そういうシステムを含めて一個の人間なんだ。


 きっと死霊でも『自分』という感覚があれば無意識の生存本能は受け継がれる……あるいは生まれるはずだ。少なくとも人の姿を保っている幽霊に関しては、生前の感覚と地続きなところは多いと思う」


「んー、まあ、生きてる人間とルヴナンが地続きの存在ってことにはまったく異存なしだ。人とルヴナンの間にボーダーが無いとは言わないが、アイデンティティがボーダレスである可能性までは否定できないね。死んだ人間がルヴナンになるとき、電気のスイッチみたいに一瞬でパチンと切り替わるとはあたしも思ってないもんで。はい、それで?」


 残りのハンバーガーをすべて口に詰め込むと、ダリマはテーブルをトトンと叩いてセージュに話の続きを促した。


「雨蕾々くんから聞いた怪談のタイトルは『田舎の家と赤い女』だった。赤い女が現われる……僕の目には微かにしか視えないけれど、このルヴナンもどきが『赤い』と言えるのかどうか、正直言うとよくわからない」


「同感。あたしが見てもタイラーのほうが10倍赤いくらいだ。もちろん『着ぐるみ』は多少赤いかもしれないけど、もしかしたらそいつの本質は……」


「特別赤くはないのかもしれない。だとしたら呪いの主と赤い女とは無関係……別々の怪談なのかも」


「エンジンかかって来たかァ?」


 牙のように尖った八重歯を見せて笑うダリマに、セージュもにやりと笑みを返した。透明なカップに入ったサラダを手に取り、フォークでトマトの欠片を突き刺しながら、さらに話を続ける。


「赤い女というアイコンは怪談の定番だ。口裂け女も赤いコートを着ている。これは僕の個人的な意見と妄想だけれど、白い服を着た女の霊は合理的だと思う。例えば室町時代以降の数百年間、日本では死に装束も喪服も白色だったから、死者と白色が結びつくことには整合性がある。


 対して赤色の霊がスタンダードになった理由を僕はよく知らない。けれど赤は血肉を連想させる色だし、赤色をモチーフにした怪談なんてどの時代のどの地方でも、誰でも思いつく可能性がある。だからこそ、白い霊と比べて明確なルーツを想像しづらい。


 なぜ赤いのか。少なくとも現代人にとって、意味や目的がわからない霊は理不尽で怖いものだ。その点では白い霊よりも赤い霊のほうが不気味で、印象に残りやすいと思う。


 さっきは異なるふたつの怪談が混じっているのかと考えたけど、もしかして呪いの主は赤い女を生存戦略に利用したのかな。退屈な怪談では生存できないと考えた呪いの主は、赤い女の着ぐるみを被ってでも人々の関心を惹きたかった」


 ダリマはホットココアを啜りながら軽く膝を叩いた。


「もしあんたの仮説通りなら、件の怪談話から赤い女の要素をバッサリ切り落として、残ったところが呪いの主を突き止めるヒントになるわけだ」


「あの怪談は案外、実在する人物の体験がベースになっている『限りなく実話に近い創作怪談』なのかもしれない。だとすれば辻褄がべェ」


「おいおい、大丈夫かタイラー」


 両手で口を押え俯いてしまったセージュに、ダリマはアイスティーを差し出し、ついでにサラダカップの中を覗いてみた。レタスの陰に見える3mm角ほどの塊は、おそらくベーコンを刻んだものだろう。セージュは体質的に肉類や魚介を受け付けない。


「ひどい。前に注文したときは入ってなかった」

「マジ可哀想。泣くなベイビー、こんど武蔵小杉にできた映え映えのヴィーガン・カフェに連れてったげるからさ」


 口の中を洗うようにアイスティーを含み、ハンカチで口元を拭いた後、セージュはふうと溜息をついた。


「最初はこのルヴナンもどきが僕の目にも視えることが少し不思議だった。けど、いまはそれが、僕の想像していることがそうそう的外れじゃないという裏付けに」


「つまり?」


「ダリマは亡霊や悪いルヴナンを視るのが得意だけれど、僕はどちらかといえばそれとは逆のものと相性が良いということ。頃合いだ、ダリマ。今度こそ場所を変えよう。ダリマがいてくれれば、僕は呪いの主と直接話ができる。この怪異はよりは強くない。ルヴナンもどきに憑かれたとき、一瞬だったけどそんな感じがしたから」


 水滴で濡れたアイスティーのカップをハンカチで軽く拭い、セージュは中身が半端に残ったそれをダリマに差し出す。ダリマは仏頂面のままカップを受け取ったが、すぐにはそれを口にはしなかった。


「あー、それは全然構わないんだけどさァ。あんたァ、前にこのアイスティーのこと『アールグレイ味の茶色い水』って言ってたじゃん。そんなんで使い物になんの?」


「なる。なぜなら僕は案外これが嫌いじゃないから。準備ができたら合言葉を」


 頬杖をついて微笑むセージュに見守られながら、ダリマはわざとらしく首や肩を回して見せる。ダリマは氷ごとアイスドリンクを呑み込むのが好きだった。プラスティックのストローを蓋ごと外し、カップのふちにキスをするように唇を押し付けた。


Corveeクワバラ


 小さく囁き、アイスティーを口に含む。それに合わせてセージュもまた唇を動かした。


「ありがとう。Cottagerコトホギ


 いくつかの細かな氷の欠片とともに、強いアールグレイの風味がセージュの口内に溢れる。香りを満喫するようにゆっくりと瞬きをすると、次の瞬間にはもう、セージュは柔らかな光が射すガラスドームの中にいた。




「――さあ、これで僕も『あなた方』と話をする準備ができました。まずは何からお話ししましょう? とはいえ残念ながらじっくりと皆様から積もる話をお伺いする時間もありませんので僕のほうから一つご提案を申し上げます」


 草木と花々、そして大きな砂時計以外に何もない空間に向けて、セージュは早口でまくし立てる。何もないが、ダリマの協力を得たセージュは先ほどより鈍感ではない。


 つい先ほどまでは、ダリマにも視えていなかった。だが「ルヴナンもどき」と呼んでいたそれの先に『彼ら』がいると、今は肌からさえ感じることができる。

 ならば、感じることも視ることも、触れることさえいとも容易い。


「これまで永きにわたり、わぁこべさのんかんを信仰していらした皆様。今から僕が申し上げますのは決して悪くない取引のご提案かと思います。どうぞご清聴ください」


 甘く、果てしなく柔和な声でそう言うと、セージュは薄金色ブロンドの長髪を垂らすように、一人、深く一礼した。



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