第31話
「食べたいもの、ある?」
「なんでもいいよ」
「そのなんでもいいよ、ってのが一番困るのよ」
真面目に考えていないのではなく、彼女が作ってくれるものならば僕はなんでも喜んで食べる。
「うーん。この前食べた、大根と豚肉の炒め物と……ナスの味噌汁」
「そんなんでいいの?」
「タンパク質も野菜も取れて、半端な食材を一掃できる。ご飯にも合う」
「なんか、それ前にも似たようなことを言ってたね」
民宿に戻った頃には、おじさんが台風が来るからと物置から運び出した大量の板を窓に打ち付ける作業をしていた。
手伝おうかと声をかけたが最後の日なのでゆっくりしてと言われ、僕はいつものように食堂に座り、時が流れるままに任せる。
一旦、この島でやる事は終わった。僕はもうすぐ、ここを出る。
夕食の時間は普段より早めだった。ヨゾラはなんと、あのスーパーで見かけたどぎつい水色の魚、ここでは『イラブチャー』と言うらしい──の刺身を出してくれた。
そのほかにも、色々衝撃的な事実が発覚した。
僕が何も考えず、ただ美味しいと思っていたナスの味噌汁はナスではなく「ナーベラー」と呼ばれるヘチマで、大根と肉の炒めものだと思っていたのは青パパイヤだったと半笑いで教えられた。
「気がつかないなんてこと、ある?」
「いや、ちょっと変わった風味がするなーとは思ってた。言ってくれればいいのに」
「だって、見慣れないものは食べたくないってお客さん、結構いるから。特に男性には多いかな」
「僕はなんでも食べる」
「そうだね。好き嫌いなかったね。偉い」
「そこだけね。……いただきます」
僕の食事はゆっくりだ。それこそ今日は、いつも以上に。
「そういえばおじさんは?」
「飲みに行ったよ」
「……こんな時間から?」
「そう。こんな時間から」
友人の家に飲みに行って、奥さんが送ってくれることもあれば、そのまま帰ってこないこともある。持ち回りで会場が提供されており、今日はよその家で飲み会らしい。僕がやって来た日は、たまたま会場がここだったと言う訳だ。
「不安にならないのかな?」
他にお客さんがいる日もそうだと言うことは、民宿に男性客とヨゾラの二人だけ、と言う状況も普通にあり得るのだ。そもそも、宿泊客がいる最後の日に、客と娘を置いて飲みにいってしまうおじさんが謎だった。
気を遣われているのかもしれないし、逆に何も考えていないのか──僕には彼の事がよく分からない。いい人だと言うのは間違いないが。
「そんな事言ってもあたし、もう大人だしね。下宿の方がよっぽどじゃない?」
その言葉にドキリとする。ヨゾラは大人なのだ。下宿をしたことがあり、免許を持っていて、働いている。僕が知らないことを知っている。そのほか、もっとかもしれない。
僕はまだ、彼女の事をなんでも知っているわけではないのだ。
夕食が終わり、僕はまた一人で屋上にいる。
ヨゾラと一緒に居て、何かを話したい気持ちはあるけれど──そうすると、残りの時間が少ない事を思い知らされてしまう。これもまた、僕お得意の現実逃避の一種なのであった。
空を見上げると、満天の星にところどころ雲が被さっている。南の方から、ぐんぐんと台風が近づいているのだった。
「用意、終わった?」
「うん」
いつの間にか、ヨゾラが僕の後ろに立っていた。荷造りと言うほどの事は、特にない。増えたのはTシャツとサンダル、そしてキーホルダー、それだけだ。
「いやー、あっと言う間だったね」
一般的な旅行に比べると長く、それでいて濃い時間を過ごしたとは思う。それを前提としても、まだまだ足りないと言うのが本音だった。
「今まで、ありがとう──本当に、この島に来て、良かったと思っている」
沖縄なら、都会の喧噪を離れた所なら、どこでも良かった訳じゃない。ここにヨゾラが居なかったなら、僕の旅はもっと孤独で、つまらなくて、何も得ることがないまま、早々に終わったのかもしれなかった。
「別に……大した事はしていないよ」
「そんな事はない。本当に、感謝してる」
具体的に何が成長したのだと問われると、身長も伸びていなければ学力も向上していないが、この島に来て、僕は少し変われた。
「自分の駄目さがよーく分かった。でもそれは、能力と言う意味ではなくて、心が駄目だったんだ」
「自己評価が低いところは、全く変わってなくない?」
ヨゾラのからかう様な声。いろいろなヨゾラを見たけれど、僕はこの状態の彼女が一番好きだ。
「ね、これは他のお客さんから聞いた話なんだけど──アメリカの人って、自分が生まれた州から出ない人がほとんどなのだって。県と州じゃスケールは全然違うけどさ──だから日本と違って海を見たことが無い人は山ほどいるんだろうなーって、その時思った」
今夜のヨゾラは話したがる。それはきっと、信頼もしてくれているだろうけれど──僕がここを去るからだ。自分が思っている事を、近しい人にさらけ出すのは大変だ。
だから、考えている事を正直に、今まで溜め込んでいたことを全部、なんでもかんでも教えてくれるのだと思う。僕はそれを咀嚼し、自分のものにする。
心に、身体にしまい込んで、はるか彼方の東京まで連れて行く。そうしてヨゾラの言葉の欠片達は、東京の『キラキラ』の一部になるのだ。
「満たされているから動かないだけかもしれない──でも、きっと、どうしたらいいか分からない人も沢山いる。皆動けないの。だから行動するだけで偉いよ」
「どんな人でも、やろうと思えば出来る。でもできない。やらない。だから、行動する人としない人の境目は、ギリギリのところで、全く違う世界なの。それこそ、砂浜と海の中ぐらいに。だから──ここに来ただけで、すごいよ」
僕は偉くないし凄くもない。それは世界の真実だ。でも、それでも、彼女は僕の美点を探してくれる。大きな流れに逆らってここまでやってきたのだから、無駄な事なんてなにもない。
それは僕にとっての、祝福の言葉だった。
「東京って、どんなところ?」
ヨゾラはいつかのように、僕にもう一度問いかけた。
「なんでもある。でも海は無い。星もない」
「星はあるでしょ。さすがに。てか、海もあるでしょ」
「ないよ。あれは海じゃない。東京湾だ」
「海は海。繋がってるんだから。全部一緒。──あ、見て、あれ」
ヨゾラが声を上げた。水平線の向こうに、丸い夕日が沈んでいく。
「あたし、バカだからよくわかんないけど……沖縄と東京って、時差はないけど日の出と日の入りの時間がちょっと違うんだってね」
その事実に、僕は初めて気がついた。確かに、緯度が違うために沖縄の日の出は遅く、日の入りもまた、東京よりゆっくりなのだった。
一日が長いと感じたのは、そのせいもあるのかもしれなかった。
「ヨゾラって、物知りだ……」
学力テストなら、僕の方がずっと高い点数を取れるだろう。でも彼女は、自分なりに考えて、色々な角度から世界を見ている。
「あたしはお客さんが話した事を、ただ繰り返しているだけ。世界には、そんな事もあるんだ、ってただ思うだけ。……あ、これはハルト君と同じかな」
ヨゾラは立ち上がってたんたんと階段を下っていった。戻ってきた時には、手に黄色く熟したゴーヤを持っていた。
「ゴーヤ、熟れすぎちゃった。一緒に食べよ」
市場に出回っている緑の物は未成熟の状態で、完熟したゴーヤは黄色く、そして甘いのだと言う。
オレンジ色になったゴーヤの種の部分をスプーンで掬って食べる。赤くなり、水分を含んだ種は苦甘い味がした。
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