第29話

次の日の朝、ヨゾラはのれんの奥から出てこなかった。僕は信じられないほど騒がしくなった食堂のすみっこで目玉焼きをつついている。


「あのー、とかしくビーチって本当にウミガメ見れました?」


 大学生の一人に問われ、僕はウミガメを見てもいないのに力強く頷いた。いない時もあります、なんて言動は誰も求めていないだろうから。


「行っちゃったね」


 おじさんはいつものようにビールケースの椅子に座ってレンタカーが去ってゆくのを見守っていた。彼は昨日、僕たちの話題の中心人物だった事なんて知りようもないだろうけれど──と思いながら白髪交じりの後頭部を見つめていると、彼はぐるりと振り向いた。


「島の暮らしは気に入った?」

「そうですね」

「そっかあ、良かった。でも、ここには高校がないからね。那覇に行けばほとんどなんでもあるけどね。大学とか」


「あの……」

「ん?」


 やっぱりなんでもありません。と言葉を濁す。あなたは島に移住したこの半生をどう思っていますか──と尋ねたところで、素晴らしい知見が得られるはずもない、状況はそれぞれ違うのだから。


「……人生の悩みと言うのは年齢によって尽きないもので」


 おじさんはよっこらしょ、と立ち上がった。僕の顔はそんなに感情がわかりやすいのだろうか。


「今を過ぎれば安定した感情でもって、落ち着いた生活ができるはず──と思いきやそうでもない」


「……一生悩みはつきない、と言うことですか」


 逃げて楽になることはあっても、そこからまた違う悩みが発生する。当然かもしれないけれど、完璧でベリーイージーなルートなんてどこにもないのだとヨゾラのおじさん──平安名シンジは言う。


「うん、そうだね。それっぽい事を言うのは簡単だけど。人生の先輩として、一つだけ言う」


 一つだけ、と聞いて僕は身構える。


「芸は身を助ける」


 おじさんはそれだけ言うと、白いワゴンに乗り込んで集会に行くと告げた。


「なるほどな……」


 去り行く沖縄ナンバーのプレートを見ながら、不思議と納得するしかなかった。


 世間知らずで、愚かで、無力な僕には芸がない。いろんな意味で、僕はまだ若い。


 人生はあまりにも唐突に──悩んで悩んでいる時に、横から飛んできた言葉が心の中心に刺さることもある。


 一旦、僕の心は決まった。


「僕、東京へ帰ることにした」


 昼食後に皿を洗っているヨゾラの背中に向かって、僕は静かに帰郷の意志を告げた。


 痩せている、肩甲骨の形が分かってしまいそうなほど薄い背中が、かすかに上下するのが見えた。


「そっか。それがいいよ」


 ヨゾラは振り向くと、にっこりと笑った。まさしく接客業の女性らしい微笑みだ。


「誤解しないでほしいんだけど、それを決めたのは、昨日の話がどうこうって訳じゃなくて」


「沖縄に居ても、貧乏になるだけだもの。高校を卒業して、医学部じゃなくても良い大学に入って、ちゃんとした会社に就職する。──カレンダー通りの休みが取れるところがいいね。接客業はさ、連休が取れないから駄目だよ。自営業なんて、最悪──」


「そうした方が、いいと思う?」


 自分でも、この問いかけは相当情けないと思った。あまりにもみっともない。


「沖縄に移住した人のほとんどは、数年以内に帰るって言うからね。やっぱり、育った環境が違うと難しいんじゃないかな」


 会話が成立しているような、していないような。何とも言えないむずがゆい気持ちだ。でも、どうせ解散するのなら、今のうちにこのじっとりした距離感のまま過ごすのをやめて、開き直って観光客として過ごした方が、双方にとって幸せなのかもしれなかった。


「もう飛行機の日程は決めたの?」


 ヨゾラの問いに静かに頷く。


「明後日の午後の飛行機をネットで取った」


 すでに両親にはその事をメッセージのやりとりで伝えてある。


「そっか。明後日か……明日はどうするの?」

「何も。ゆっくりするつもり」

「そっか」

「手伝いでも、なんでもするよ。僕に出来ることなら」

「なら……明日の一日、あたしにくれない?」


 一日とは言わずとも、彼女が必要とするのなら僕の人生をどれだけ消費しても構わない。でも、彼女が僕に要求したのは、たったの半日だった。



 ──朝がやってくる。


 一度帰ると決めた瞬間から、まるでスイッチが切り替わったかのように、時間の流れが早くなる。


 今日が僕が渡嘉敷島で過ごす最後の自由な日だ。


 いつもの様に朝食を摂り、僕は庭の手入れと、風呂掃除をする。昼は焼きうどんで簡単に済ませて、二人でバイクに乗り込んだ。なんだかんだと毎日一緒に居た気がしていたけれど、一緒に出かけたのはスーパーと、一度シュノーケリングをした時だけだった。


 一時間で回れてしまうほどの大きさの島に一週間以上も滞在しているにも関わらず、島の地図はまだまだ訪ねていない所で溢れている。


「どこへ行くの?」

「秘密。とは言っても、行くところなんてそんなにないけどね」


 彼女のバイクは以前尋ねた『とかしくビーチ』を通り過ぎ、山向こうの反対側の集落──阿波連地区へ向かっていく。そちらにもダイビングスポットがあり、観光客が珊瑚を求めてシュノーケリングするのはむしろ奥側が主ということだった。


「泳ぐの?」


 肩越しに問いかけるとヨゾラはまあいいからついてきてよ──と返事をする。彼女のすることに反対なんてするはずもないけれど。


 バイクはゆったりと、濃い緑の間を抜けていく。野生の鹿──ケラマジカでもひょっこり顔を出さないかと左右を眺めていると、ふと人工物の気配がある事に気がついた。


「途中にある、小さな看板とか階段は何? 洞穴とか……」

「戦争の跡」


 ヨゾラが短く答えたその言葉に、僕はひゅっと息を飲んだ。知っているのに、知らなかった事がまだまだある。


 美しい島には、悲しい歴史が色濃く残っている。


 山を下ると、また新しい海が現れた。太陽の光を受けて金色に輝く水面の向こうにも、様々な島が見えた。ここは本当に慶良間諸島の入り口で、奥には更に別の世界が広がっているのだった。


「あっちの島にはね、空港があるんだよ」


 もう、民間の飛行機は飛んでないけどね──とヨゾラの言葉。ずっと昔から変わらない様に見えるこの島もここ百年ほどは激動の時代だったのだろう。


 次の五十年──島で暮らすヨゾラがよぼよぼのおばあさんになるまでの間には、何が起きるのだろう。


 願わくば、ずっと平穏で、それこそ退屈すぎるぐらいがちょうど良いのかもしれないとも思う。


「僕、何も知らなかったなあ。よくよく考えると、慰霊碑とかそういうヒントはいっぱいあって……と言うより、常識の範疇だよね……」


「歴史も大切だけどさ、観光客にその話をするとしんみりしちゃうと言うか、お説教くさいと言うか。現代に生きるあたし達の悩みとかカスみたいなもんよね、で全部うやむやになっちゃうからさ」


「……それは確かに」


「平和で、食べるもの、インターネット、通販もあって……昔の人からすると、幸せにもほどがあるだろっ! て言われると、何も言えない。幸せなのは間違いなくて、歴史を伝えて行く事は大切だけれど──それで悩むな! ってなるのはちょっと違いませんかー、と」


 贅沢は敵、とまでは言わないが、僕たちは生死の狭間にいるわけではない。ある程度の生活が保障されてはじめて、これからの人生どうしよう──と言う感情が生まれる。隣の芝生は青い。自分が持っていない物は、とても眩しく見えるものだ。


「現代の青少年の悩みってそういうのじゃないじゃない? ある意味人は人、自分は自分……比較対象は、常に自分よりキラキラしてそうな人。あたしはこの島が嫌い。けれど、捨てることはできない。だってあたしが居なくなると、代々暮らしてきたこの土地──家がなくなってしまう。歴史を捨てることはできないから」


 僕は何も言えず、ただ静かにヨゾラの言葉を聞いている。


「捨てても何も起きない。……起きないんだとは思う。でも、それはとても恐ろしい事で、ママもきっと同じ気持ちだったはず。でも、きっと、代わりにここにとどまってくれる人が──あたしができたから気持ちが変わったんだよね」


 バイクは緩やかに曲がり、心地よい風が頬を撫でた。


「難しいことは、わからない……。でも、恨んでいるとはちょっと違うかな。パパもなんだかんだ楽しそうだし。先の事はわかんないよね。新しく島にやってくる人も、戻ってくる人もいるわけだし」


「……そうだね」


「とにかくさ、あたしは、この島の思い出を、ぜーんぶ綺麗で、最高なままでキープしておきたかったの。後々オッサンになったハルト君が『僕は若い頃、沖縄に行って戦争の悲惨さを学び……』なんて、小難しい事を言うような思い出の一部になりたくないわけよ」


「それは確かに。僕も、おばさんになったヨゾラが『あたし、若い頃は本当にモテたんだから』って自慢してる所見たくないな……」


 ヨゾラは小さくため息をついた。


「ハルト君さあー、あたしの事モテると思ってるでしょ。見たでしょ、この島の事。あたし、全然モテないの。暗くて、偏屈でかわいげが無いんだってさ」


「この島、眼鏡屋がないのがいけない」


 バイクはキッと音を立てて止まった。僕の冗談があまりにつまらなかったせいだとは思いたくない。


 この島には信号がないので、つまりはここが目的地と言うことになるが……。


「漁港?」


 渡嘉敷港よりさらにこぢんまりとした船着き場は、何か見所があるようには思えなかった。

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