第7話

『おーい。ハルト君。おーい。ごはんー』


 ドアの向こう、階段の下から僕を呼ぶ声がして僕はうたた寝から覚めた。睡眠不足で、いつの間にか眠ってしまったようだった。


 夕飯ができた──女性の声はそう言っている。そういえば、朝夕付きと言われていた。


 メニューはサラダ、豆腐とわかめの味噌汁、カレーライスだった。大鍋に入ったものはお替わり自由。離島では飲食店が限られているため、素泊まりではなく食事付きにするのが一般的だ──とヨゾラは付け加えた。


 中の肉は薄切りの豚バラ肉が入っている。それ以外は何の変哲もない、ごく普通のカレーライスだった。沖縄っぽさはまるでない。キッチンと食堂を行き来する、ヨゾラと言う少女の事を除いては。


 テレビを見ながら黙々と食事をする。何か違和感があるのは空気のせいかと思いきや、なんの事はない、単純にテレビの画質の問題のようだった。


「普段見ている番組があれば変更してもいいよ」


 ヨゾラは少し離れたキッチンカウンターの所に座っている。彼女も同じ物を食べているようで、『夕食』そのものに僕が加わるシステムらしかった。


「テレビ、見ないから」

「なんで?」

「時間が吸い取られる」

「へぇ」


 ヨゾラはすっと僕から視線を外し、カレーと向き合う事にしたようだ。一口食べ、考えこむそぶりを見せる。


「カレー、どう?」

「おいしいよ」

「でもそれ、一番安いカレールーだよ」


 ヨゾラは僕に、食べるのがゆっくりだから我慢して食べているのかと思った──と告げた。単純に僕は食事に時間がかかる。それはよく噛んで食べろと言いつけられてきた長年の習慣からだった。


「違いなんてわからないよ……今日は朝からパンしか食べてなかったから、なんでも美味しい。炭水化物と脂質、タンパク質、野菜。完璧なメニューだよ」

「随分難しい事言うね」

「家庭科の教科書に書いてある」


 ヨゾラはわずかに唇を尖らせ、話題を変えた。


「家ではどんな具が入っている?」

「牛肉。ごろっとしたやつ……」

「へぇ、おぼっちゃまだ」

「文化の違いではなくて?」

「だって、値段が全然違うじゃん」


 牛肉の方が値段は高いことには間違いないだろうが、価格差がいまいちわわからなかったので口をつぐむしかなかった。


 沈黙が訪れる。僕は黙々とカレーを食べる。好き嫌いはないし、出された食事は残さないのがうちのルールだ。


 彼女はまだじっとこちらを見ている。彼女の態度はまるで接客業とは思えず、いいところ親戚のお姉さんと言った雰囲気ではあるが、一応彼女の中では業務上の手続きとして、客である僕が食事を終えるまで見届けなければいけないルールがあるのかもしれなかった。


 しかしそれは杞憂だったらしく、ヨゾラはゆっくりと立ち上がり、空になった皿を持ち上げた。僕もその後ろについて行く。食堂よろしく食器は自分で片付けるシステムかもしれない、と思ったからだった。


 のれんの向こうにはこれまた古ぼけたキッチンがあり、炊飯釜も食器棚もおよそ僕の家では置き場がないぐらいのサイズで、冷蔵庫の隣には大きな冷凍庫がある。家庭のキッチンではなく、調理場だ。


 ヨゾラはそのまま、僕の存在に気が付いているのかいないのか皿洗いを始めた。


「ええと……そういえば、あのおじさん……親子、なの?」


 そうだろうとは思いながら、もし違った場合はどんな顔をすればいいのだろうとおそるおそる尋ねる。


 親子にしては顔が似ていないので、妻です──と言われた場合、それこそ顔に動揺を出さない自信がなかった。


「そうだよ。……似てないから怪しかった?」


 振り向いたヨゾラは、やはり家主とはあまり似ていなかった。彼は東京からの移住者だと言っていた。つまり彼女は沖縄と東京、両方の血を引いていることになるのだろう。


「夜空、って本名?」

「そうだよ。カタカナ。よく『美空』と間違えられる。最近はみんなそんなもんじゃない? マリン、ショア、碧い海と書いてアミ……とか」


 ヨゾラは指折り数えながら人名を暗唱する。おそらく、実在する同級生の名前なのだろう。海に親しんで生きている人が、水や海にまつわる名前を付けるのは分かる。僕だって多分、父親が農家出身だから晴れの人、と書いてハルトなのだから。


 しかし、それにしても、なぜ彼女は『ヨゾラ』なのだろう。海と空、昼と夜。僕はカレー皿を手に持ったまま、ぼんやりと彼女の事を考えた。


 ヨゾラが僕の手を──正しくは皿を手に取った事で、我に返る。彼女が僕の目の前に立ち、じっと僕を見上げているのだった。


 彼女のガラス玉のような瞳に、ゆがんだ僕の姿が映っている。雰囲気に気圧され、後ずさると後ろにあった冷凍庫に激突してしまう。


「アイスがあるから、食べたければどうぞ」


 食べ足りないのではなく、ただ落ち着かなくて誰かと話したかっただけ、とはとても恥ずかしくて言い出せなかった。



「お風呂場はこっちね。節約したい人は、お風呂に入ったついでに手洗いしている人も居るみたい。床が水浸しにならないようにだけ気を付けてね」


 皿洗いを終えたヨゾラは僕に風呂場の説明をしていなかったと言い、手招きした。


 民宿とレンタカー屋が併設されているので当たり前と言えば当たり前なのだが、やはり東京と地方は家の大きさがまったく違う。


 廊下の奥には学校の水飲み場のような巨大なシンクがあり、蛇口が三つと、その下に洗面器。横の扉が浴室だ。


「今日は誰もいないから」


 ヨゾラは壁に掛けられたクリップボードをトントンと叩いた。繁忙期には順番待ちのため予約制になると言う。


 壁には「使用中」「湯沸かし中」「清掃中」の三種類の掛札があり、他の利用者に状態を知らせることになっている。


 脱衣所は引き戸になっており、確かに内側から閂のような鍵を掛けることができた。まるで銭湯──僕は行ったことがないけれど──のように木の棚があり、ピンクや水色の脱衣カゴがその中におさまっている。


 水色のタイル張りの浴槽は広めで、既に湯が張ってある。カランは一つだがシャワーが二つ付いており、家族や気の置けない友人同士なら、一緒に入って回転を速めてください、と言う所だろう。


 この後の予定は何も無かったので、そのままシャワーを浴びる事にする。


 設備は古いものの、清潔で、急に水になったり熱湯になったりする事もなく、概ね快適に入浴を終えることができた。ただ、備え付けのドライヤーの風量はいただけなかった。


 シャワーを浴びて戻ると、食堂の方が騒がしくなっていた。そっと覗くと、知らない男性陣が集まってテーブルを囲んでいた。宿泊客は僕以外居ないと言っていたのだから地元の人だろう。


「あっ、タナカさん。いっしょにどうですか?」


 おじさんが赤い顔で話しかけてきた。問題は僕に話しかけてきたのはこの家の主ではなく、まったく知らない『おじさん』だと言うことだ。


 最初の誘いは聞き取れたが、その後にごにゃごにゃと続いた言葉は聞き取れなかった。接客モードではない沖縄人のテンションに僕は後ずさる。


「いえ、その。今日はやめときます」


 もごもごと言い訳をしながらその場を離れる。彼らから嫌な雰囲気は感じず、一期一会の交流を楽しもうと言う親切心からきた誘いである事には間違いがないのだろうが、さらなる悪事を重ねようとは思わなかった。


「お酒飲めないの? タダだよ。適当に相槌を打っていればいいだけだし……」


 階段をのぼる僕に、エプロンをつけたままのヨゾラが背後から声をかける。


 おつまみは彼女が作っているのだろうか。それならばそれだけでもご相伴にあずかれば良かったとか、おじさん達に囲まれて彼女は居心地が悪くないのだろうかと、よくもまあこんなにもヨゾラの事を沢山考えられるものだと思う。


「人見知りだから……」


 未成年なのでお酒を飲むことはできない。とっくの昔に非行少年なのだが、これ以上罪を重ねると精神がどうにかなりそうだった。


「人見知りが一人で来るなら、ホテルに泊まらなきゃ。てかさっき堅苦しいの嫌いって言ってたけど。キャラぶれてるよ」


 ヨゾラの言うことはもっともだった。僕は確実に営業マンには向いていないだろう。


「沖縄の人はね、しょっちゅう飲み会をするの。お客さんがいるときはやらないけど、一人だからいいかなーって思ったんじゃない? 嫌だったら、うちのパパはちゃんと聞いてくれるから言うよ」

「あ、そ、そうなんだ。別に気にしないよ……」

「もうそろそろ帰ると思う。一応言っとくけど、飲酒運転とかしてないからね。うちはクリーンな民宿だから」

「……グレーの民宿があるの?」

「念のために言っただけ。それ、揚げ足取りって言うの。覚えといて」


 ヨゾラはそう言いながら、僕の横をすり抜けて階段を上がっていく。何か用事があるのかと思って彼女の背中を見送ろうとすると、ヨゾラはついてこい、と言う。


「うるさいでしょ。屋上があるから、そこで涼むといいよ」


 実はこの建物は三階建てなのだとヨゾラは言う。外から見ても大きいが、中の構造は複雑で、施設の全貌がまだつかめない。


 三階へ向かう階段をのぼっていくと、食堂の喧噪が遠ざかり、波の音に紛れていく。


 屋上には物干し竿、古ぼけたテーブルと椅子、バーベキュー用のコンロ、ダイビング用のウェットスーツ。この島はないものばかりだけれど、僕の家にないものばかりがある。


「落ち着くまでここで涼んでいるといいよ」


 僕は返事ができなかった。目の前に広がった景色に気を取られているからだ。


 そこに、星があった。


 照明がないからよく見える──そんな言葉じゃ表せないぐらいだ。星が大きい。そして、多い。黒い画用紙に、星の砂をぶちまけたみたいだ。


 東京だと、目を凝らしてみても片手で数えられるぐらいの星しか見えないのに。ここではこんなにもクリアに、夜空に向き合う事ができる。


 改めて、一日も経たずにこんな景色のある所にまでやってこられたのが信じられない気持ちだった。


「なにか見えた?」


 ヨゾラは降りていってしまったのかと思ったが、まだ僕の背後に居たらしい。


「星……」

「ああ。なるほどね」

「でも、この緯度だと、見えている星はほとんど同じじゃない?」

「星座には、詳しくないから……」


 空の色がまるで違って見える。見渡す限りの星空で、満天の──それこそ、ここが確かに宇宙の一部だと思わせてくれるのだった。


「ふうん……」


 ヨゾラは僕の感動について無関心な様子だ。彼女はこの景色を自慢したいわけではないのだ。


 ならどうして、彼女はここにとどまっているのだろう。今日これまでのように、何か説明をする訳でもなく、ただじっと僕を見つめている。


 観察されている。そう思うと、急に彼女の事が恐ろしくなり、あとずさる。ギシッと、足元の床が軋んだ。


 その動きがさらによろしくなかったらしい。ヨゾラは僕の足元を見ている。やがてゆっくりと顔をあげ、一歩前に踏み出す。僕は更に後退し、手すりにぶつかる。


「君、一体誰なの?」


 ヨゾラは小さく、そしてゆっくりと、あなたは予約客の『タナカハルト』ではないでしょう、と続けた。

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