残暑のヨゾラ

辺野 夏子

第1話

 京浜東北線。降りるべき駅の看板を、僕は車両の中から見送った。


 九月一日。始業式。僕はそのまま満員電車に詰め込まれ、東京都内を南下していく。行き先は決まっていない。ただ、学校ではないことだけは確かだ。


 僕は今日、学校をサボる。


 高校二年生の夏休み明け、月曜日。世の中はすっかり平常運転である。


 どこで降りようか。見知らぬサラリーマンの肩越しに、ぼーっと景色を眺める。有楽町、のアナウンスでふと我に返る。


 先に家を出た父さんはここで降車しているはずだ。とっくに勤務先へ辿り着いている予定ではあるが、もしも何らかのトラブルでまだ駅に居て、そこで自分が見つかってしまったらどうしようか……なんて『ありもしない妄想』をしてしまうのは罪悪感のなせる技なのかもしれなかった。


 浜松町。いずれは横浜に辿り着く事は路線図で分かってはいるけれど、ここから先はほとんど馴染みのない見知らぬ駅ばかりだ。一旦降車し、駅のトイレに駆け込む。


 ひとまず、僕の安全な逃避行が少しでも長く続くためにはアリバイ作りが重要なのだった。


 ホームルームが始まり、僕が登校していない事が発覚する前に学校に電話を掛けなくてはいけないのだ。


 数回の呼び出し音の後に応答した声は聞き覚えがない女性のものだった。おそらく別の学年の教師だろう。


 担任ではなくて助かった──声の調子で、僕の言動が嘘だと勘付かれてしまっては困る。


「すいません、二年三組の沢田ですが。今日、学校を休みます」


 電話の向こうの相手は高校生といえども、生徒本人が欠席の連絡をして来たのを若干訝しんでいる様子だった。


「母の具合が悪くなりまして。心配なので病院に付き添いに行きます。担任の先生に伝言をお願いします」


 それだけ告げて電話を切る。親の急病はまったくの嘘だが、少なくとも今、彼女の気分は最低なのは間違いないから、健康とは言いがたいのは事実だ。


 そっと赤くなった頬をさする。そこはわずかに熱を持ち、鈍い痛みを僕にもたらす。


 昨夜、僕は母と『ちょっとした口論』をした。


 今日の朝、母さんは起きてこなかった。家庭内ストライキと言うやつである。それは僕に自我が芽生えてから──史上初の出来事だった。


 そのおかげで僕は制服ではなく私服で脱出する事が出来、こうして違和感なく駅に溶け込んでいるわけだが──彼女がその判断──今日の僕を無視しようと決めた事──をあとになって後悔するのかどうかは、知らない。


 知ったこっちゃない、というのが正しいだろうか。とにかく、アリバイ工作は済んだのでスマートフォンの電源を切る。連絡が来ると厄介だ。少なくともあと十二時間ぐらいは、時間の猶予があってほしい。


 コンビニのATMにキャッシュカードを入れる。僕名義の銀行口座には、お年玉で貯めた三十万円が入っているはずだ。パスワードは僕の誕生日だと思っている。


 震える指でキーを押す。間違えると、おそらくATMは『番号が違います』と大仰なアナウンスを流すだろう。何回かミスが続くと、アラームが鳴る事だってありえる。


 四桁の数字を入力して、少し躊躇いながら確定キーを押すと、引き出しを三十万円で確定するかどうかの確認画面に進むことができた。こうなってしまうと、あとは流れ作業でしかない。機械の動作音の後、僕の目の前には三十人の福沢諭吉がいた。


  あっさり第一のハードルを越えられた。超えてしまった。セキュリティの観点からすると全く褒められた事ではないだろうが──今は助かったと言える。


 ……これは助かったのだろうか、はたまた泥沼への片道切符なのだろうか?


 震える手でポーチに札束をしまい込む。曲がっていない、真新しい一万円札のピンと張った感触に、落ち着かない感情を覚える。


 僕は今日、これから家出をする。

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