第14話

 二人でボウリング場を駆け抜けて、専用のシューズを受付に返却しないままにショッピングモールを抜けだした。澪田の手を握って、俺たちは二人で笑いながら走っていた。とにかく走った。何が面白いわけでもないのに二人で哄笑しながら。


 爽快だった。


 気分が良かった。


 晴れやかな空の下の雑踏を澪田と駆けて、心まで晴れやかになった。


「楽しいね! 久しぶりの二人っきり!」


 その後、二人で駅前のビジネスホテルに入った。料金は後払いだったが、澪田がなんとかなると言っていたので、たぶんなんとかなるのだろう。


「成宮くんはどうして自殺してないの?」


 澪田が先に、俺が後にそれぞれシャワーを浴びてから、二人で同じベッドに入った。夜の少し肌寒い真っ暗闇なホテルの室内で、澪田は天井を見つめたままでそう問いかけた。


「自殺しないことに理由がいるのか?」


「あたりまえだよ。この世には自殺する人間と自殺しない人間の二種類がいて、自殺することに理由があるのなら自殺しないことにも理由があって然るべきだと思うの」


「じゃあ、今死なずに生きている人間はみんな、自殺しない理由を持ってるってことか?」


「そうだね」


 澪田のすぐそばにあるデスクライトが、ベッドの上に仰向けになる澪田の顔をうっすらと照らしていた。時々窓の外から道路を走る車のエンジン音が聞こえる。


「自らの手で命を絶ってしまう人もおかしい。でも、それと同じくらい、こんな狂った世界でいつまでも生き続けている人もおかしい」


「……お前って、そういうこと言い出すようなキャラだったっけ」


「わたしは写真部だよ。成宮くんをセピア色の世界に閉じ込めようとするような人なんだよ。そんなわたしが自殺の話をするのは、だから普通だよ」


 俺を被写体にしていたことと自殺の話がどう繋がるのかいまいちわからない。


「それで、成宮くんはどうして死んでないの?」


 どうして死んでいないのかといえばそれは、俺があのとき、あの中華料理屋で黒猫の肉体を食ったからだ。


 ではなぜ俺は黒猫の肉体を食ったのか。どうして俺は黒猫の肉体を生で食ってまで生き延びようとしたのか。


「…………」


 俺の家庭は昔から貧乏だった。


 俺が物心つかない頃に両親が離婚したので、俺は今まで一度も自分の父親の顔を見たことがない。つまり俺は自分でも気が付かないうちに一度苗字が変わっている。離婚して母子家庭ということになれば、母親は当然のことながら毎日働きに出なければならない。兄弟もおらず、俺は小学生時代から家で一人で過ごすことが多かった。


 俺は親の愛情を知らない。家族の間だけに流れる独特の、心が通じ合った穏やかな雰囲気を知らない。


 だからなのか、それとも単に生まれつき俺の性格はそういう風にできていたのか、俺は根性がひん曲がったような性格になってしまった。高校に入ってからは自分ではかなりましになったと思っているが、小中学生時代はその性格のせいで友人関係に恵まれなかった。


 俺の瞳は腐っている。性根が腐っている。魂が腐っている。


 俺は昔から、他人の心が理解できない。そもそも、なぜ理解しなければならないのかすらわからない。他人の関わっていった先にあるのは、軋轢と衝突だけだ。


 信頼とは何か。愛情とは何か。気遣いとは何か。優しさとは何か。そういうものが、俺には尽く理解できない。


 だから俺は、今までの人生の中で、幸福を噛み締めたことがない。


 心が充実していた時期がない。


 俺の心の中では常に、草木が枯れ果て寒風が吹きすさんでいる。空には赤い月が浮かんでいて、真っ黒なカラスが不吉に啼いている。


 生きていて楽しいと思ったことなんか一度もない。


 人生からあらゆる快楽が消失すれば、そこに残るのは苦痛だけだ。


 何か明確なストレス源があるわけではない。明確な現実からの逃避願望があるわけではない。何かきっかけが、何か決定的なトラウマがあるわけでもない。


 それでも、今まで生きてきて良かったとは、一度も思わなかった。


「わたしが成宮くんを撮りたいと思ったのは、成宮くんが今にも死んじゃいそうな顔をしていたからかも」


 澪田は俺を焦りが感じられない人だと言った。俺はそれを、ただ生きる気力に欠けているだけだと解釈した。だがそれも違った。


 俺は、生きる意味を見失っていたのだ。


 これ以上生きていたって仕方がないと心のどこかで思っているから、俺は勉強をしない。部活も恋愛も友人関係の構築も、そんなことに取り組む意味が感じられないのだ。あるいは、俺は積極的に自分の生きていく意味を潰していくために、何もしなかったのかもしれない。


「それでも成宮くんは、人を捨ててまで生き残った」


 あのとき俺は、どうして生き残ったのだろう。どうして俺の生存本能は、あそこまで強かったのだろう。


 人を捨てて、亜魔人になってまで、俺はなぜ生き残ったのか。


「……俺はまだ、幸福の味を知らないんだ」


「え?」


「このまま、幸福の味を知らないまま、俺の人生はずっと不幸で乾いたままで終わりましたって思いながら死んでいくのは、あまりにも惨いだろ。俺にはそんなことできない」


 これは別に、中華料理屋のあの場面に限った話ではない。俺がこれまで、ただ苦痛なだけの人生をしつこくしぶとく生きてきたのは、幸せになりたいからだった。


 俺には幸せになる権利があるはずだと、信じてきたからだ。


「成宮くんは、自分がこれから幸せになれると思ってるの?」


「…………」


「成宮くん、わたしはさっきも言ったはずだよ。成宮くんにはもうまともな人権は残っていないんだ。成宮くんはこれから一生、あの組織で働いていく他に道はないの。そんな成宮くんが、どうやって幸せになるのかな?」


「…………それでも」


 俺は上体を起こした。うっすら照らされた澪田の表情が変わる。


「それでも、そんなのわからないだろ」


 たとえ先の見えない道であっても。先に光が全く見えてこない、暗くて冷たいトンネルの中を延々と歩いていかなければならないとしても。


 その先にきっと光があるはずだと信じて、辛くても苦しくても、歩いていくしかない。根拠なんかなくても、歩いていくしかない。


 いつか呪縛から解き放たれるそのときを信じて、生きていくしかないのだ。


 真姫も有栖川もアスカさんも、今までそうやって生きてきたはずだ。


 それを俺だけが投げ出すなんて、そんなことは。


「澪田。こんな俺でもな、責任ってやつを背負ってたりするんだよ」


 澪田は目を見開いた。信じられないものを目の当たりにしたような目だった。


 そこで俺の夢想は終わる。


 目を開くと、トイレの鏡が自分の姿を映していた。自分の野暮ったい寝ぼけたような表情と、その肩に顎をのせて安らかに瞑目している澪田の姿が、そこに映っていた。


「俺はもう、お前には騙されない」


 俺は鏡を見たままでナイフを取り出してそれを澪田の眉間に突き立てようとしたが、当然、その一見無計画な攻撃は瞬時に避けられる。


 しかしその回避は俺の予想の範囲内だった。ので、すぐにまた澪田にナイフを向けるが、澪田はその刃を自分の腕で弾いた。カキン、と金属が触れ合うような音がして、一瞬火花が散る。


 無論、普通の人間の腕では柔らかすぎて、ナイフを弾くことなどできない。


 つまり、澪田は普通の人間ではない。


 剛腕の魔人。それが今の澪田の正体だった。


 だから、俺のナイフでは澪田の剛腕を貫き裂くことはできない。しかし澪田の弱点は至ってシンプルだ。剛腕の魔人は、その名の通り剛腕が能力なので、逆を言えば腕以外の部分は堅くも強くもない。腕以外は、ただの人間の肉と同じだ。


 新米の俺が一人でも処理できるだろう。


「さすがに不意打ちはずるくない?」


「言うほど不意じゃなかっただろ」


 言いながら俺は澪田の胸や首を狙ってナイフを振り回すが、まるで俺の動きが全て読まれているかのような動きで俊敏にかわされる。


 俺は体術の指導を受けた経験がない。真姫や有栖川はもともとは暗殺者だったために体術の心得があるのだろうが、俺はほんの数日前まで一般人だったのだ。いくら亜魔人とはいえ技術が足りなさすぎる。しかしそれは澪田も同じはずなのに。


 あの澪田が、あの細くて貧弱な澪田が、ここまで動けるはずがないのに。


 いや違う。こいつは既に魔人なのだ。魔人だから、心も身体も澪田ではなくなっているのだ。


 あの頃の澪田とは全くの別人。いくら話し方や性格が似ていても、それは第三者の魔人が故意に似せているだけ。


 もう既に澪田はこの世に存在しない。


「成宮くん、あんな狂気的な組織から逃げなくて本当に良かったの? 成宮くんはたまたま真姫ちゃんに見つかっちゃったからこんな状況になってるだけで、亜魔人の能力を隠し通せば普通の人間として生活できるのに」


「俺の名前を馴れ馴れしく呼ぶな。俺とお前は他人のはずだ」


「え? 他人じゃないよ?」


「嘘つくな。澪田はお前が殺したんだろ。お前が澪田を殺して、その身体を乗っ取ったんだろ」


「わたしはちゃんと、人間の頃の記憶も持ってるからね」


「……は?」


「魔人になる前の、人間だった頃の記憶も持っている。身体を乗っ取ってるってことは同時に脳も乗っ取ってるってことなんだから、自然でしょ?」


「…………」


 俺は攻撃の手を止めない。


「わたしは全部覚えてるんだよ。一年生の頃に、わたしと成宮くんがどんな関係だったか、二人でどんな思い出を残していたのか」


「…………」


「わたし、本当は成宮くんのことが好きだったのかもしれない」


 魔人となった澪田の魂は、もうこの世にはないはずだ。


 しかし澪田の身体は俺の目の前にこうして存在していて、以前までと変わらぬ声と顔で俺と会話をしている。


 そして、人間だった頃の記憶、魔人になる前の十六年間の記憶を、今も保持しているのだという。


 澪田は俺との思い出を今も覚えている。


 あの日、空中廊下で俺の写真を撮ったときのことを、澪田は今も覚えている。


「あの頃、わたしが成宮くんに対して抱いていた想いも、わたしは今もちゃんと覚えているんだよ」


 澪田は人間だった頃の記憶を、経験を、思い出を、今も全て保持している。いつでも思い出すことができる。


 じゃあ、今の澪田は、本当に魔人なのか?


「だいたいさ、それまで人間じゃなかった存在が人間の肉体を手に入れたからって、その日からいきなり普通の人間に擬態して生活していけるわけないじゃん。人間の頃の記憶があるからこそ、人間に擬態できるんだよ」


 人間である澪田と魔人である澪田を見分られる点は、ひとつ、剛腕の能力の有無しかない。


 もし剛腕の能力がなければ、その剛腕で二人の人の頭をぶっ潰していなければ、俺は澪田が魔人になっていても全く気付くことができなかっただろう。


 澪田が剛腕の能力を発現させたから、澪田が殺人を犯したから、俺たちは澪田を魔人として処理しようとした。


 しかし、仮に。


 仮に、澪田が人間のままで、何らかの凶器や鈍器を用いて殺人を犯していたならば、俺は澪田を殺そうとしなかった。そして澪田が警察に捕まったとしても、死刑にまでは至らないかもしれない。


 人間と魔人の見分けがつかないなら。


 魔人だからという理由だけで殺すのは、論理が破綻しているのではないか。


 人間の澪田を殺すことができないのなら、魔人の澪田を殺すこともできないのではないか。


「成宮くん、もう一度チャンスをあげる。今ここでわたしと逃げることを選ぶなら、わたしは絶対に成宮くんに危害を加えないし、全力で成宮くんに協力することを約束するよ」


 澪田は俺のもつナイフの刃をぎゅっと握りしめて、俺の攻撃を封じていた。澪田の握る手から血が滲むことはない。


「でも、もし成宮くんがわたしの提案を拒否するのなら、わたしは遠慮も躊躇もなく、成宮くんの頭蓋骨を叩き割らせてもらうよ。そっちが先に攻撃してきたんだから、お互い様だよね?」


「…………」


 澪田は上目遣いで、どこか挑戦的な目で俺を見上げている。


「…………な、な」


 俺は一歩後ずさった。


 胃の奥底が激しく躍動して、喉の奥が酸によって焼けるように熱くなる。


 またあの吐き気だ。


 血液の魔物に対峙したときと同じ、意識が遠のくほどの強烈な吐き気。


 手先がびりびり痺れる。平衡感覚が失われて、立っているのが辛くなる。鏡に映る澪田の顔に、黒い靄のようなものがかかっているように見えた。


 どうすればいい。


 澪田は純粋な魔人だ。澪田は既に人間を二人殺している。しかし俺は、人を殺したことなんか一度もない。殺されたことが一度あるだけだ。


 真正面から正々堂々戦えば、俺の頭蓋骨は叩き割られるかもしれない。スイカ割りの要領で、トイレの床に俺の頭蓋の中身、すなわち脳漿をぶちまける結果になるかもしれない。


 俺は澪田についていくべきなのか。


 俺は、真姫やアリスやアスカさんを裏切るべきなのか。


 俺はまだ、あの組織に正式に属すようになってから一週間も経っていない。


 そんな組織を裏切っても、それはもはや裏切りと呼べるようなものですらないのではないか。裏切りによって瓦解するような信頼関係など、もとよりそこにはないのだから。


 俺が半ばパニックに陥りながら、血流の不足する脳内でそんな下手な言い訳を構築していたときだった。


「…………ァ」


 めきゃり、と。プラスチックが粉々に潰されるような音がした。ひどく間の抜けた、この状況にはそぐわない音だった。


 その音のおかげだったのか、一瞬だけ俺の視界はクリアになった。


 瞬時に明瞭になった視界の中で俺は、澪田の首があり得ない方向に曲がっていることに気付いた。澪田は少し驚いたような表情のままで、その横顔は停止していた。


 それから、電池が切れるように、澪田は正面から無防備に倒れこんだ。ばたり、と鈍い音が響いて、俺の足元に澪田の肩がくる。澪田の口の端から透明な液体が流れていた。


 そして、倒れこんだ澪田の後ろから、笑顔のアスカさんが現れた。


「遅いよ成宮くん。日が暮れてしまうだろう?」


 アスカさんは素手で、一瞬にして、どこにも傷を付けることなく、自分の恋人を亡き者へと変質させたのだった。

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