Interval①

 『"怪物"と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

 

 おまえが長く“深淵”を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』


 或る秋の昼下がり。義兄が普段から愛読する本を朗読してほしい、と蛍は彼に強請った。

 未踏の大地を覗こうとする好奇心旺盛に輝やいた瞳。

 無邪気な妹の願いを叶えるのもやぶさかではない義兄は、柔らかな微笑みで応じた。

 本の虫でもある義兄は、子どもには難解な本すら分かり易い注釈も交えて読み聞かせてくれる。

 棒読みでは意味深な内容も、蛍の幼い脳へスラスラと浸透する。

 静謐な冬の空気に包まれるような声も、優しい音楽のように奏でられて心地良い。

 今回も涼やかな音色で朗読されたのは、ニーチェ著作・『善悪の彼岸』の一節。


 「怪物って、童話のお化けのようなものなの? お兄ちゃん。それに、深淵ってなぁに?」


 抽象的な概念を具体的に想像するには未だ幼い蛍。

 あどけない問いを投げる義妹に、義兄が呆れることは決してない。

 むしろ、上機嫌すら感じる笑みをくすりと零す。

 冬のように涼やかな瞳に慈愛を溶かして蛍を見下ろす義兄は、柔らかな口調で答える。


 「怪物は、まぁ、今は蛍の考える解釈で構わないかな。童話のお化けや魔女、悪魔の類も、僕達にとって恐怖の対象だ。深淵というのは、底が見えないほど深い場所のことだよ」

 「そんなに深い所に落ちたら、きっと二度と戻って来れないよ、とても怖いよ」


 深淵という単語の意味を、より簡潔な表現で教えてくれた義兄。

 一方、蛍は納得したように頷いた後、瞳に恐怖を揺らめかせていた。

 ‘’底なしの深い闇"から地獄を連想したらしい。


 「ふふふっ、そうだな。でも、深淵という言葉は、人間の心を表現する時にも使われる」


 対照的に、義兄は可笑しそうに口角を上げた。

 蛍の恐怖は杞憂だと揶揄しているのか、それとも蛍を安心させようとしているのか。

 どこか掴み所のない笑みを屈託なく零す義兄を、蛍は不思議そうに見上げる。


 「人間の心も、外側から見るだけでは理解わからないんだ。井の底に何があるのか。身を乗り出してでも覗き込むか。いっそ、飛び込んで見ないと知り得ないように――」


 静かに呟く義兄の淡い瞳は、月を映す湖のように澄み渡っていた。

 長年の土埃つちぼこりつたで埋まった木板で閉じた古びた井戸が、家の裏庭にあるのを思い出す。


 「でも、井戸は危ないって教えられたよ。特に蛍は子どもだから駄目だって」

 「当然だろうね。井戸の底に落ちれば……暗く、狭く、冷たい水に溺れてしまい、二度と帰ってこれないかもしれないから。人間も、心の深淵を覗く時はいけない」

 「気を付けるって、何に?」

 「”怪物“と忌み嫌われる存在――。そんな相手の心を知ることは、知った人間の心も呑み込まれることもある――おぞましい“何か”に――」


 どこか憂いに揺らめく義兄の瞳に、幼い蛍は魅入られるようにじっと見上げる。

 暫く後、桃の蕾のような唇をまごつかせていた蛍は自分の素直な考えを零した。

 おずおずと迷う幼い声は、義兄を慰めるような優しさも帯びていた。


 「……それでも、蛍は知りたい――そう思うのは大丈夫なのかな」

 「蛍は、人の心を知りたいのかい?」

 「うん! 分からないことも蛍はたくさん知りたいよ……好きなものだって」


 理解らないことはちゃんと知りたい。

 最後はどこか恥ずかしそうに頬を染めながらも、はっきりとした声で紡がれた結論。

 幼い蛍が示した無垢な知欲に義兄は意外そうに瞳を瞬かせた。


 「……知りたい、という心。蛍のそういう、純真で好奇心の高い所、僕はと思う」


 冬に咲く花のような微笑みがほころぶ。

 何故、義兄はいつになく嬉しそうなのか。

 冷めた冬空色の瞳には珍しく恍惚とした炎さえ見えた。

 不思議そうに首を傾げる蛍に向かって、義兄は意味深な微笑みを崩さずに囁いた。


 「人が最も恐れる怪物の正体。その一つを、僕は知っているんだ」

 「え? 知っているの、お兄ちゃん。誰なの?」

 「それは――“よく分からない"という感覚だ」


 怪物の正体は魔女でも悪魔でもなく、実体を伴わない一つの概念。予想外の答えに無垢な瞳は困惑に見開かれる。


 「人は人である限り、”知りたい"、と常に追求せずにはいられない本能を背負って生きる。けれど同時に、自分の理解を超越するものを一方的に恐れ、逃げ惑い、忌み嫌い、容赦なく傷つける」

 「そんなの、かわいそう……」

 「ならば、恐怖や迫害感情を克服する最も単純シンプルな方法は、分からないものを自分の目で見て知ろうとすること」

 「それだけで、いいの?」

 「簡単なようで、実は大人ですら難しい大切な答えを蛍はまだ六歳なのに、既に自分で悟ったんだ。これほど素晴らしくて、美しいことは他にないさ」

 「そうなの? お兄ちゃんがそう言うのなら私も嬉しい」


 正直、幼い蛍は義兄が本当に伝えようとしていた言葉の意味深くを分かり切っていない。

 それでも、義兄が嬉しそうに微笑み、普段の瞳にはない輝きを灯すことができたのは、蛍にとっても喜びの源だ。


 「蛍は本当にいい子だね」

 「お兄ちゃん、えへへ……」


 敬愛する義兄の褒め言葉に、蛍は不思議そうに首を傾げるが、直ぐに満更でない様子ではにかんだ。


 「どうか、蛍は……いてほしいな。これからも、ずっと――」


 甘く澄んだ声に孕んだ不思議な感情を言葉に零す。

 義兄は膝に抱く幼い義妹を支える手に、そっと力をこめる。

 目の前で波打つ艶やかな黒い絹のような髪へ白い指を通す。

 不意に蛍が振り返れば、慈愛に満ちた冬色の瞳と目が合う。

 これからの蛍が紡ぐ”美しい未来"を祝福するような眼差しに向かって、彼女も無邪気に微笑み返した。


 しかし、幼い蛍は未だ気付く余地もない。


 屈託のない綺麗な微笑みの下に秘めた、消えぬ炎のような感情にも――。


 幼き心に植え付けられた「  」という甘やかな呪いの炎種にも――。



 ***



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