其ノ三『窮民の巣窟』①

 石井被疑者の身柄確保から三日経過した頃。

 協働捜査チームは児童救済相談所と慈愛ホームの職員、さらに私的プライベードに石井と接点のある人間を聴取していくと、ある程度の進展と成果は得られた。

 事件より一ヶ月前、施設の空屋で佐々木と石井が激しく口論していた姿を複数の職員は目撃した。

 それ以降、勤務中も石井の様子がおかしかったことも判明した。

 しかし、石井本人は今も沈黙を固く貫いている。

 逮捕とは別の恐ろしい“何か“へ異様に怯えたように。

 一方で、第一事件の被害者の遺体に詰め込まれていた「五千万円の偽札」を回収した分析部は「」を発見した。

 文字が断片的に印字された四枚の偽札を一列に繋ぎ合わせると、一つの文章が完成するらしい。

 分析部から情報の複写を送られた蛍達が確かめると、やはり第二事件と同様、第一事件の遺体にも犯人は怪文章を残していた。


 『自由とは、自由であるべく、不自由になることである』


 著名な哲学者であると同時に、小説家や劇作家として活躍していた『サルトル』の格言。

 サルトルといえば、“モノ“は目的があって生まれるが、“人間“はから、生存目的と存在意義を自ら探す、という観点から“人間“の主体性と自由意志を支持した。

 サルトルもまた、蛍の義兄が愛読していた哲学書の著者。

 本当に、単なる偶然の一致なのか。


 「やはり、第一と第二事件は同一犯の仕業とみて間違いない。後は、容疑の石井が全てを吐き出せば確証は得られるだろう」


 事務所での報告会議中、浜本リーダーの言い放った暫定結論に、他の刑事官達も固唾を呑んだ。蛍達を内心困惑させているのは「惨殺と遺体蹂躙」と「謎の異物」、「哲学怪文章」等、両事件の共通点から導き出せる可能性と猟奇性だけではない。

 携帯通信機画面に映る報告書に目を通しながら、蛍の様子を横目で窺う光。

 隣の蛍から冷気のように感じ取れる彼女自身の動揺と困惑。

 氷の仮面を被ってはいても、瞳には薄氷の亀裂に似た揺らぎが浮かんでいる。

 蛍もまた、第二事件の捜査かずっと注がれ続ける光の視線に気付いているが、今は何も言い明かすことはない。


 『こちら、ルーナ警察留置所。緊急連絡です』


 まさに青天の霹靂。協働会議は情報共有から捜査の作戦へ進行する最中。

 浜本の携帯通信機から突如舞い込んだ、AIの無機質な緊急連絡音声に、チーム一同に緊張が波紋する。

 留置所の管理責任者との通話が繋がると、浜本は事務的に応じた。

 ただならぬ様子のリーダーを見守る蛍達も音声へ耳を傾ける。

 すると、蛍と永谷部長を覗く刑事官達はみるみる驚愕の表情へ変わり、信じ難そうに眉を顰めた。


 「石井被疑者が――? どういう状況か説明しろ!」


 理知的な浜本らしからず、珍しく語気を荒げて問い詰める様子から強い動揺と困惑は窺えた。驚くのも無理はない話だ。

 一見冷静沈着な蛍ですら、この世に有り得ざる現象を目撃したような驚きと共に暗い霧が胸に立ち込めるのを感じた。


 『一体どんな手段を用いたのか分かりかねません。扉付近には二名の看守、階全域に数体の監視ロボットが巡回していた十一月十七日・午前五時頃に脱獄したと推定できます』


 留置所の管理責任者の報告曰く。

 定時に朝食を自動配給するロボットが石井の部屋へ向かったきり戻ってこないのを看守は不審に思った。

 すると、扉の覗き窓越しに見た石井の部屋はもぬけの殻だった。

 配給ロボットはいつまでも手付かずの朝食を手に途方に暮れたように停止していた。

 真っ先に異変へ気付いた管理責任者は、石井の牢室の監視警備システムの点検と監視カメラの記録分析の各担当者を呼んで調査を始めた。

 しかし現状では、留置所と警察署内の監視警備システムに故障も異常も確認されていない。


 「馬鹿な……っ! 鼠すら感知する警察の監視警備セキュリティシステムを、奴はどうやって潜り抜けたというんだ!? 


 窓も隙間もない鉄壁の白い、警察関係者とロボットのみに開閉が許可されない分厚い扉に隔てられた密室をさらに囲う警察署内牢城

 高度ICT導入による安全管理革命以降、脱獄者を一人も出したことのないルーナシティの『安全監視装置セキュリティシステム』。

 随一なシステムは、ルーナ警察署全域張り巡らされている。

 魔法で“透明人間"にでもならない限り、脱獄逃亡は現実的にはほぼ不可能。しかし、現に石井被疑者は留置所から音沙汰も姿形も残さず忽然と消えた。

 この前代未聞の脱獄事件がマスコミにでも知れ渡れば、"完璧“と謳われる安全監視装置とルーナ警察の信頼は揺らぐ。

 上層部からは、一刻も早く尚且つ市民に気取られる前に石井を逮捕する命令が刑事部へ下された。

 上層部の焦りも憤慨も理解はできるが、浜本も蛍も内心呆れを覚えた。

 上層部は高見の安全地帯から現場の人間へ一方的に無茶な命令を出してくるものだ。

 一般市民の安全ためというよりも、国一の大都市の秩序と治安を預かるルーナ警察の名誉と体裁の固守、批判からの保身ばかり考えている。

 それでも、浜本も蛍達も最善を尽くすのみだ。

 たとえ上層部が無能で理不尽であっても、自分達の仕事が結果的に市民と秩序を守ることに繋がると信じて。

 幸い、石井の関係者への聴取で得達情報から、逃亡先の目星は既についていた。


 『"あの晩"も、彼は挙動不審で……声をかけづらいほど異様に殺気立っていました』


 以前、石井が保育士マイスターの研修実習を受けていた施設で出会い、交際していた管理栄養士の女性は以下に証言した。

 佐々木所長の死が発覚する二日前の晩に、『怪しい区域』へ出入りする石井を目撃した。

 交際女性は、最近石井に連絡しても不在着信ばかりでメールの返信すら寄越さない石井に不安と共に浮気を疑った。

 女性は退勤時間を見計らって待ち伏せし、彼を問い詰めようとした。

 しかし、久しぶりに再会した石井の変貌ぶりに女性は絶句した。

 生気の失せた眼差しにひどくやつれた石井は幽鬼のように今も消えそうだった。

 一方、女性を視認した石井は逆ギレしたように罵声を浴びせ、一方的に別れを告げた。

 当然、それで納得のいかなかった女性はもう一度話をするために、石井宅のマンションで待ち伏せた。

 しかし、夜中になっても一向に帰ってこないことに痺れを切らした女性がやむなく夜道を引き返した時、偶然見てしまったのだ――。


 「『朧月石井』が入っていったのは、『エクリプス区』の最奥に建つあの廃業ビルだそうです」


 『エクリプス区』――月蝕を彷彿させる常闇に満ちた退廃的な区域へ、人目を忍ぶように独り足早に入っていった石井は何を考えていたのか。

 石井を密かに追跡した女性の証言を参考に、早速蛍達は真夜中の貧困廃墟区へ足を踏み入れていた

 十一月十七日・九時過ぎの夜。

 元交際女性の目撃証言を参考に、早速蛍達は石井が潜伏していると思しきエクリプス区内へ潜入する作戦を実行した。

 とはいえ、見かけない顔が大人数で訪れると、区内の貧民に警戒と不信を買われる。

 特にエクリプス区に住み着いた貧民は、政府と公務職への尋常ならぬ反感と確執を抱いている。

 霜月班と葉月班は、一組二名ずつに分散する体制で区内の各位置についた。

 今回は石井が陽の届かぬ場所へ逃げた可能性も見越して、浜本は二名の刑事官を"潜入捜査“へ遣わせた。


 「秋の月が一番綺麗だってのは、本当だなあ。この浪漫的ロマンチック状況シチュエーションに"イケてる"男女二人。悪くねーぜ?」


 秋夜の閑散としたエクリプス区の物陰に潜めている二人は一歩ずつ慎重に歩む。闇を生きる難民を導くように煌めく月光を頼りに。


 「不都合なことでも? もう少し静かにしないと見つかりますよ、黒沢刑事官。それと――」


 蛍と黒沢は警察であることを気取られないために背広を脱いだ。蛍はくすんだ灰色の頭巾服パーカーワンピースの下にいつもの黒い全身タイツ、瓦礫や砂利の道を歩くのに適した灰色の地味目な運動長靴スニーカーブーツを着用している。

 ネカフェや貧民街を行き来する家無し女らしい装いの蛍は、背景に馴染んではいる。

 一方、隣で軽口を叩きながら我が物顔で闊歩する同僚へ、蛍は冷ややかな眼差しで問いかける。


 「何故に、そのような格好を?」


 地味で目立たない格好を意識した蛍から見れば、別人並みの変貌を遂げた今の黒沢に違和感しかない。

 普段の金髪・柔鶏冠ソフトモヒカンから、元の黒い地毛に戻したまではいい。

 問題は頭に被った黒いニット帽から覗く細長い縄束髪ドレッドヘアと茶褐色に日焼けした肌だ。

 月光に妖しく光る黒の騎乗者外套ライダースジャケットに穴空きジーンズ、黒い長靴を着用している。

 蛍自身は髪色や肌の色に関する偏見はないつもりだし、無法者じみた派手な身なりも、ルーナシティ唯一の無法地区に馴染んでいる。

 とはいえ、一度きりの潜入捜査のためだけに、わざわざ日焼けサロンと散髪屋、服屋へ出向いてきた黒沢のノリも、あえて目立つ格好をする無鉄砲さも理解不能だ。


 「はぁ。こりゃ、光も気苦労が絶えねーなぁ」

 「何故、ここで彼のことが出るのか分かりません。彼ではありませんが、私語は慎みましょう?」

 「おいおい。勤務中だが、そこまで淡泊な反応だと泣けてくるぜ? 俺には男としての魅力がないって暗に言われてる気がしてよぉ」


 黒沢本人に至っては、普段と変わらぬ飄々とした態度で喋ってくるため、蛍は溜息を呑んだ。

 危険地帯での潜入捜査においても、男女関係や光との仲について茶化される上司の身にもなってほしい。


 「心配には及びません。私から見ても、黒沢刑事官は男性として十分魅力的です。ただし、美形であるという客観的評価と私自身の好みは、まったく別ですが」

 「それでフォローしたつもりかよっ。さっきの一瞬の純情なときめきを返せよ!」


 口説き文句に近い冗談にも真面目かつ淡々と返す蛍。

 黒沢はわざとらしく落ち込んだ表情で肩をすくめながら、ここにはいない親友に軽く同情した。

 ついには、任務集中で口を閉ざした蛍に、黒沢も退屈を持て余すように周りを観察する。


 「うぷ……っ。なあ、蛍。クレセントムーン区とはえらい違いだが、エクリプス区はここまでひでぇのか?」


 薄暗い路地を突き進む途中、黒沢は吐き気を堪えるように鼻口を覆い、眉を深くひそめた。

 理由は区内へ入った時から周りへ意識を向けていた蛍にも明白だった。

 区内の奥へ進むにつれて濃密に感じられるのは、不衛生な悪臭と空気の汚濁。

 人離れした野性の五感を誇る黒沢には、息をするだけで脳まで汚染されそうな苦痛に違いない。

 腐った土水や食物、死骸に汚物が混ざり合うような悪臭の源の一つは、区内に分散する貧民だ。

 凍てつく夜風を凌ぎすらできない襤褸ボロを頭から被り、死体のように横たわるホームレスの姿は、路地の片隅や廃墟の瓦礫の影などに見られた。

 に蛍と黒沢の気配へ一瞥するだけで、「虚無」以外を一切宿さない陰鬱な眼差しと風貌に、さすがの黒沢も皮膚が粟立つのを感じた。


 「……見ての通り、勘の鋭いあなたなら気付くと思います。この場所、ここの方達に宿る"闇"に」


 一方、自分よりも華奢な女が眉一つ動かさずに歩いて行く姿に、黒沢は内心感心した。

 罪と穢れの汚泥に咲く清廉潔白な蓮の花を彷彿させるからか。

 冷凛とした眼差しは、荒れ果てた地区と人間に対する侮蔑や不快感、憐憫とは異なる静けさに澄んでいる。

 黒沢は陰惨な景色と悪臭に滅入っていた心が浄化される気すらした。


 「黒沢刑事官は、聞いたことありますか。政府による『ICT化計画』を推し始めた頃に起きた、“或る事件"を」


 大いに眉を顰めて首を傾げる黒沢の様子から、彼がルーナシティの成り立ちに精通していないと察した蛍は簡潔かつ丁寧に説明した。

 光曰く、歴史や社会科等の座学も小難しい話も好かない黒沢は、警察筆記試験にはギリ合格だったという。


 「ルーナシティの中心区域で、政府によるICT安全監視警備システム導入を果たせなかった唯一の地区。他の区域で居場所を無くした浮浪の民が密かに住み着ついた無法地帯――それがエクリプス区」


 地図上では、ルーナ警察署があるクレセントムーン区の東北上に位置する豆粒サイズの小規模区域。

 ICT安全監視警備システムを都市全体へ導入する試みは、安心・安全を保障される豊かな大都市を実現させた。

 ただし、高度な技術発展は恩寵を与えた一方、代償として"失業貧困者の急増"も招いた。

 本来は警察署等の公共機関や富裕層に限られていたICTとAI主流の監視警備システム。

 しかし計画が進むにつれて、貧富問わず市民の行き来する娯楽施設から市場、住宅マンション・アパートにまで一般化された。

 さらに高度なICTとAIを扱う高度な電脳・機械工学の専門技術者が不足する日昇国人に代わり、海外の専門技術者を雇い、海外企業からの資金援助も受けてきた。

 つまり――。


 「今まで働いてきた市場のレジ打ちも公共交通機関の運転手も、機械とAIに取って代われた人間は"用済み“、というわけか?」

 「鋭い指摘です。突如、働く場を失った人達の六割程度は再就職先の目処が立たず、生活費も高額化した住宅費を払う収入がゼロになりました」


 結果、一時期の日昇国には大量の失業者と家無しが生まれた。

 システム導入による弊害貧困問題弊害と代償を見越した政府は再就職支援も打ち出していた。

 しかし、実際は各区域の自治体によって支援の手厚さと効果、積極性に大きな格差が存在し、失業後の支援制度をまったく周知されなかった区民も多かった。

 そして今から八年前、ICT化以前から治安も貧困も深刻化していたエクリプス区に残遺する貧民と浮浪者の立退と廃墟の撤去――事実上の"解体"を政府は決行しようとした。

 すると、当然ながらエクリプス区内で既に共同体コミュニティを結成していた貧民による「反対運動暴動」も起きた。

 国民への保障政策も説明責任も果たすことなく。

 最後まで国の都合で仕事と家、さらに最後の砦まで奪おうとする政府の身勝手な強硬姿勢に、貧民の不信感と憎悪は爆発した。

 事実、エクリプス区民への説得材料として救済制度も掲げた政府の魂胆を区の貧民と彼等を支持する有識者達は見透かしていた。

 結局、政府は両者共に多数の負傷者を生んだ反対運動事件を機に、撤退と計画中止を余儀なくされた。

 以降はエクリプス区へ手出しする者達は現れず、政府と他区域の市民にとって、実質上は“存在しない区域"となった。


 「つまり、国の発展によって淘汰された寄る辺なき奴らの巣窟が、『エクリプス区窮民の巣窟』というわけか」


 貧しきエクリプス区と民が生まれた経緯とそこに眠る闇を知った途端、珍しく黒沢から笑みが消えていた。

 逃亡先として相応しい場所を選んだ石井の真意へ想像を巡らせているのだろうか。

 かつては、豊かな社会で生きる希望を胸に勤しむ者、穏やかな生活が続くと信じていた者達が“発展の方舟“から零れ落ちた先。

 それは精神の髄まで蝕む汚濁と悪臭、そして"絶望“に濃縮された闇は、至る場所へ全てを嘲笑うように広がっている気がした。


 「こちら櫻井刑事官。目的のビルへ着きました。今から"潜入開始"です」


 蛍達は目的地の第二地点へ着いた。蛍は煤色すすいろ襟巻スカーフ、黒沢はいかつい黒編帽に隠した無線インカム相互通信構内電話越しに、別地点で待機する仲間達へ報告する。

 二人の視界に見えたのは、一軒の駐車場ビル。

 石灰柱から錆びた鉄筋が露わになって形骸化した建物は四階建ての高さだ。

 しかしチーム内で永谷と浜本に次いで唯一、警察の資料を読み尽くしている蛍は今も"記憶“している。

 資料に誤謬がなければ、間違いなく"存在する"はず――。


 *


 「――すげぇ。まさか、"こんな場所“が本当に存在したとはな」


 エクリプス区・第四駐車場ビルの地下一階まで降りた蛍と黒沢は見つけた。

 地下駐車場の闇と瓦礫に隠れていた扉の向こう――過去に廃止された駅地下の跡地。

 本来であれば、どこもシャッターを閉じた地下商店街に鉄道の通らない無人駅が広がっているはずだった。


 「人が集まれば"共同体“は生まれる。その次は、"生計“を維持する仕組みとして"生産“を始める。それは、この場所にも当てはまるのでしょう」


 二人を迎えたのは予想しなかった驚きの光景だった。

 さびれた無人の地下空間であるはずの場所は、混沌に彩られた市場、刹那の京楽に耽る貧民達で賑わっていた。

 妖艶な緋色に揺らめく提灯が両側に連なる地下通路。

 閉じたシャッターを背に設けられた市場には、物珍しい手製の商品が取引されている。

 芳しい出汁と香辛料で漬けて焼いた肉や、小麦粉と水・卵を練った香ばしい揚げ菓子や我楽多ガラクタを集めて加工したらしい宝飾品や衣類、電子機器等の山と列。

 今のルーナシティでは電子金と仮想通貨のみで取引されている。

 しかし、ここでは旧時代の物的貨幣と物々交換が行われているようだ。

 かつての旧時代に存在した下町の繁華街へ時間旅行タイムスリップしたよう。

 珍しい光景に黒沢は興奮に目を輝かせ、冷静沈着な蛍すら興味津々に観察している。

 エクリプス区の『解体反対運動』を機に決定的となった政府と地上との訣別、区民同士の仲間意識で結ばれた貧民。

 彼らはこの廃ビルの地下空間に共同体の拠点を作ったのだろう。

 冷酷な政府にも世間にも邪魔されない秘密の闇穴で。


 「そこの美しいお嬢さん。一つどうだね? 採れたて野菜を炒めた美味しい肉まん。百円玉で安くしてあげるよ」

 「まあ、美味しそう。頂きます」


 不意に声をかけてきた気配に振り返った黒沢は思わず慌てた。

 いつの間にか傍を離れていた蛍は、商いの老婆の前で足を止めていた。

 しかも、普通なら持っているはずのない銀ピカの百円玉を右手から渡すと、同時に左手は二つの肉まんを受け取っている。


 「まいどあり。もう一つは、そこの男前な彼氏さんの分かい? こんな別嬪な彼女さんの奢りとはいいねぇ」


 蛍へ駆け寄った黒沢に気付いた老婆は、愛嬌に溢れる笑顔をしわくちゃな顔に咲かせる。

 古参と思しき老婆からの予期せぬ歓待、普段と比べものにならないほど社交的で場に馴染んでいる蛍に黒沢は戸惑うばかり。

 にこやかに話す蛍と老婆の手前、大人しく受け取った肉まんを肉まんを黒沢は凝視する。

 もっちりした熱々の包子から漂う、驚くほど芳しい肉と野菜と脂の香り。

 確かに、普段から到着時にはすっかり冷めてしまう配給食よりもひどく食欲をそそられる。

 とはいえ、貧困区の人間が手がけた食べ物となれば、不衛生な環境で生産・加工された食材は汚染されているかもしれない。

 潜入捜査のためとはいえ、政府の食品衛生監査を通していない非合法食品を口にすることに躊躇を覚える。


 「んー。とっても美味しいわ。さすが手作りらしい素朴な優しい風味がするわ」


 一方蛍は、老婆と楽しそうに談笑しながら、当たり前のように肉まんを美味しそうに頬張る。

 度胸があるのか、それとも本当に神経が図太い天然なのか。

 いずれにしても、普段の冷然さの抜けた“普通の少女“らしい無邪気な姿を眺めていると、つい身構えている自分が馬鹿らしく思えてきた。

 しっかりしろ、普段の俺らしくねぇ。

 すっかり毒気を抜かれた黒沢も肉まんを一口頬張ってみた。


 「あっつ、うぅうぅめえぇっ!?」


 蒸し立ての肉まんは本当に美味しかった。

 新鮮な野菜の柔らかくも絶妙な歯応えに、動物的な肉と脂のとろみと旨味が、もっちりとした生地へ溶け込んでいる。

 大袈裟なまでの感激ぶりを発露した黒沢に、蛍と老婆だけでなく左右隣の商人も微笑ましそうにする。


 「ほう、それは気の毒じゃねぇ。お前さん達はここへ人探しにきたわけかね。もちろん、教えてあげよう」


 老婆と打ち解けた蛍は、最近この秘密の地下街へ出入りするようになった人物の話題を切り出した。

 自分達は石井の特徴に当てはまる若者を探していること。

 怪しまれないために、“行方不明中の家族“かもしれないから見つけたい、という設定で聴取していく。

 秘密の地下街への入り口は地下駐車場の一つしかない。

 毎日この場所で商いをする老婆は、地下街へ出入りする全ての人間を見て記憶しているらしい。

 心当たりはあるらしく、悪戯に双眸を細めた老婆は蛍と黒沢へ意味深に耳打ちしてきた。


 「それ、マジか……? なら、ビンゴじゃねーか、蛍」


 何かしらの確信を得た黒沢は虚無的ニヒルな笑みを浮かべた。

 老婆曰く、身なりも肌艶も悪くない二十代の若い男が地下街へ出入りする姿を、この一ヶ月の間に数回見たらしい。

 エクリプス区の狭い界隈では見ない顔で異質に映ったせいか、商店街にいるほとんどの区民は彼の姿をしっかり記憶していた。

 最初は政府の密偵者スパイではないか、と警戒する区民もいた。

 しかし、石井らしき男は不自然なほどに狼狽え、不安気な足取りで素人なのは明白だった。

 パワハラや発病、虐待、借金等の様々な理由あって仕事と住処も失い、地上で生場所いばしょを奪われた不憫な若者が闇の廃区域へ逃げてきたのだ、と。

 不幸不運か自業自得のどちらにせよ、“理由あり“で流れ着いてきた貧民で結成されたエクリプス区では珍しい話ではない。

 共同体の脅威でなければ石井を詮索する必要もなかった。


 「ありがとうございました。では、またどこかで」


 冷凛な微笑みで感謝を告げた蛍は黒沢と共に市場を後にした。

 友好的な微笑みで手を振る老婆の瞳には、提灯の鈴生り道を突き進んでいく二人が映る。

 地下街の奥でぼんやりと浮かぶ黒穴ブラックホールのような闇を、二人が消えてからも老婆は暫し見つめ続けていた。

 ブヨブヨに醜く皺んだヒキガエルのように微笑む老婆の瞳は、どこか虚無的に揺らめいていた。


 *


 『二人……とも、ご苦労……だ……やはり……櫻井君……情報通り、だ……』


 賑わいも灯りも失せた地下街の深奥にて。蛍が記憶していたエクリプス区資料に記載されていた地下鉄の裏口を隠し通路に、既に先回りした光達と合流した。

 無線機からはエクリプス区の外から指令を送る浜本の声が漏れてきた。

 政府の管理外にある無電波の区域では、警察端末ポータブルポリスは上手く機能しない。

 無線インカムも地下へ降りたせいか、壊れたように音声は掠れ、頻繁に途切れている。

 しかし、通信障害等の危険も予め想定していた浜本と蛍は卒なく指示を仰いでいく。


 『幾つかの目撃情報をまとめた結果、“朧月“は地下街の奥にある隠れ店・『雑貨フィロソフィー』へ行った可能性が高い』


 『では作戦通り、各自の配置へ。シミュレーション通りに、各自の配置へ向かってください。朧月が違法薬物への関与も疑われます。大変危険な状態にある可能性も考慮して、迅速かつ慎重に対応してください。いいですね?』


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