『君が死ぬ夏祭り』

君が死ぬ夏祭り

 冬の体温が及ばないほど鋭い寒さなんかより、夏の夜に吹く生温い風のほうがずっと人肌の恋しさを想起させると思う。行列が生えている焼きそばの屋台から、ほんのすこし、真夏をぎゅっと凝縮したような匂いがした。


 隣を歩く結月は、頭よりも大きい綿菓子の端っこを口で溶かしながら、喧騒よりも一段階大きな声で「次、何食べる?」と言った。


「結月は何がいい?」

「じゃあ、ベビーカステラ」

「はあい」


 この夏祭りに来るのは今年で二回目だった。会場は去年来たときよりもたくさんの人で賑わっているような気がする。あの日僕が「来年も絶対に来よう」と言ったときの、結月の困ったような笑顔をいまでも鮮明に思いだすことができた。


 すぐにでも零れてしまいそうな、「手、繋ごう」という言葉を僕は必死に飲み込むしかなかった。結月の手は小さくて、たぶん、小学生のころに自由研究で作った、夜空色のスライムに感触が似ていたと思う。


 なんとなく視線を移動させた先で目が合ったとき、結月は朝日が山から顔を出すみたいに笑った。肌のたしかな柔らかさが脳裏をかすめるたび、彼女を思いっきり抱きしめてしまいたくなる。真っ黒な瞳に、頭がきーんとするようなハイライトが乗っかっていた。


 この祭りが終わったとき、彼女は死ぬ。彼女自身はそれを知っているのかもしれないし、本当に知らないのかもしれなかった。僕の想像で彼女の思考を補うことはできない。とにかく、彼女との約束を果たす必要があった。


 結月と花火の話をしているとき、大きな黒目をした子どもと目が合った。僕とすれ違ったあとも、子どもの丸い目はずっとこちらに向けられている気がした。一年前の夏祭りのことを思いだした。


 * * * * *


 結月と初めて夏祭りへ行くに当たって、僕たちは互いにデートという表現を使わなかった。これはあくまで「一緒に遊びに行く」のであって、恋人同士が愛を実感するために行う外出とは違う。だから、手を繋ぐという行為には「はぐれないように」という建前があった。きっと彼女のほうも、そういう言葉を使えば互いに口が使い物にならなくなることに気づいていたのだと思う。


 交際し始めてもうすぐ一年が経つ。それなのに、僕たちにはまだ逃げ道みたいなものが必要だった。その理由は、交際を始めるとほぼ同時、結月が難病で入院してしまったことにあるのだと思う。ふたりで遊びに行くどころか、恋人らしいことは何もできなかったため、互いの存在を幼馴染の延長線上に据え置くしかできなかった。


 祭りの会場はたくさんの人で溢れかえっていた。身体を取り巻くすべての方向から、人々の熱、のようなものを感じる。熱は刺々しくあって、そしてたしかな優しさを帯びていた。活気に満ち溢れていた。


 人間はみんな精神病を患っている、と結月が言った。遅れて、その精神病は死に至る、と付け加えた。人間たちの分厚い呼気を片手で振り払いながら、「どういう意味?」、そう訊き返した僕はおそらく世界でいちばん呆けた顔をしているんだと思う。祭りが終盤に差しかかっても、夜空は暗転したままだった。エンドロール代わりの花火はまだ打ち上げられない。


「死に至る病は『絶望』って、デンマークの哲学者が言ってたんだけど」

「絶望」

「うん。それから、絶望は『自己の喪失』なんだって」


 結月はよく、難しそうな顔をして難しいことを話し始めるときがある。そういうとき、僕は彼女の眉間に寄った皺を軽くつついてやるのだ。そうすると結月は「わあ」と声を上げて、一度目を丸くしたあと、「なんだよう」と口を尖らせる。まあるく膨らんだ彼女の頬には、チークのような赤い熱が乗っかっていた。


「自己の喪失……、自分を見失うってこと? それ、精神病になんの関係があるの?」

「うーん。自分を見失うことっていうのは決定打になるだけで、幸せとか楽しいとか、他の感情も人を死に至らしめる力を持ってるんだと思う」


 焼きそばの屋台から伸びる列を膨らむように追い越しながら、「至らしめる」、感覚器に残っていた言葉だけを復唱した。「うん、至らしめる」、戯けたように結月が言う。


「感情は人を殺すってこと?」

「とにかく、心臓が止まっても脳が死んでも、絶望さえしなければ人は死なないんじゃないかな。それで、自分を殺すための絶望を持ってるのは、自分以外の誰かなんだと思う」


 僕が持っている言葉のすべてを使っても、結月が伝えたがっている内容のすべてを理解することは難しい。ベビーカステラの甘い香りがするのに、周囲を見回してみても匂いの出所はまるで掴めなかった。喉の辺りで熱が生まれ、口から吐きだされることなくゆっくりと上昇していく。感情が道を間違えて漏れだしてしまったような感覚だった。


「じゃあ、僕が絶望しなければ、結月は死なないってことだよね」


 絶望は人を殺す。彼女の言うことが真実なのであれば、結月が病魔に侵されて死んだとしても絶望しなければ彼女が死を迎えることはない。


「そうだよ」


 結月が胸の内側で堪えるみたいに笑う。非科学的だ、と思ったが口には出さなかった。人間は、誰かに忘れ去られたとか絶望したとか精神病とかそういう抽象的なものではなくて、血液の循環が止まり脳の機能が停止した瞬間に死が決まると医学的に定められている。


 だから、さっき僕が口にした言葉は、結月に短い寿命を与えた世界への当てつけであり、それから自分を無理に納得させるための言葉でもあった。


「だから、約束。私が死んだら――」


 結月が言い終わる前、腹の底を揺らすような重低音がして、次の瞬間、結月の得意げな笑顔が満天の花火に照らされた。「え」、訊き返すより早く、次の花火が打ち上がる。くるりと反り返った長い睫毛の、涙に濡れて受け皿のようになった部分に、空から降ってきたたくさんの光たちが溜まっていた。結月の手は、小学校の自由研究で作った、夜空色のスライムと同じ感触をしていた。


 さっきの言葉が聞こえなかったとしても、不自然ではないはずだった。だから僕は、結月の「約束」に返事をするのではなく、「来年も絶対に来よう」と別の約束を取り付けることにした。彼女は眉尻を下げて、困ったように笑うだけだった。


 結月が倒れたのは、最後の花火がちょうどその命を枯らした瞬間だった。それまでずっと彼女を苦しめてきた病魔がついに牙を剥いたようだった。


 やけに冷房が効いた病院の、待合室の端っこにある冷たい椅子の上で「結月が死んだ」と聞かされた。結局ベビーカステラの屋台を見つけられなかったな、と思った。


 * * * * *


 花火が打ち上がる直前だというのに、数メートル先にベビーカステラの屋台を見つけてしまったから困る。隣にいた結月が、「あった」、明るい声で言った。「うん」、返事をした拍子に結月の輪郭がほつれた気がして、慌てて手を伸ばす。僕の手は空気を掴んだだけだった。


「あ」


 その瞬間、身体が痺れるような音とともに、空に満天の花火が咲いた。視界が少しずつぼやけていくのを感じる。潮時だった。あのとき結月が取り付けた約束を、ここで果たさなければならなかった。


 結月が死んだ。そう聞かされた瞬間から僕は、結月が死を迎えることがないよう、ずっとずっと彼女の虚像を作り続けてきた。でも、結月との記憶はこの夏祭りで終わっている。記憶が途切れれば僕は結月の姿をこれ以上作りだせず、彼女がいなくなった事実に絶望することになるだろう。そうすれば結月は死んでしまうに違いなかった。


 破裂音は続いていた。覚悟をしてきたはずだった。それなのに、絶望するのが怖い。本当に彼女を失ってしまったら、自分がどうなるのか想像も付かなかった。やめてくれ、と思う。絶望せずに引きずって生きることがそんなに悪いことなのだろうか。


 絶望なんかではなくて、結月を失うことそのものが僕に死をもたらそうとしているように感じる。彼女の言うとおり、僕は精神病だった。心を持つことは崇高なことなんかではなくて、それ自体が人を死に至らしめようとしている。


 花火は眩しくて、暖かい色をしていた。


「――だから、約束。私が死んだらちゃんと絶望してね」


 今度は、はっきりと声を聞いた気がした。結月はもうどこにもいなかった。幻聴ではなくて、かといって結月が生き返ったわけでもなくて、声は脳のちょうどまんなか、結月との記憶をきっちり整理して収納していた部分から響いていたようだった。


 絶望はたしかに人を殺す。結月の両親や友人は、彼女の死に絶望し、「結月が死んだ」ことを受け入れたようだった。受け入れられて初めて結月はその人にとっての死を迎える。結月が医学的な死を迎えたとしても、自分は冷静でいられると思っていた。花火は最後の一輪を迎えようとしていた。


 人の死を受け入れることは、朝起きたばかりの眠気と同じようなことだと思う。一気に起き上がらなければ、眠気と別れるのは難しい。


 空気は煙の匂いがした。ベビーカステラの甘い香りはしなくなっていた。絶望は死に至る病であり、前を向くための儀式だった。

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