第2章 二日日 第3話 花火と写真

 温泉から出てきた小春たちが客室に戻ると、まだ夜の七時半だった。思ったよりも時間が経っていないことに、小春たちは驚いていた。もうすっかり、夜の十時過ぎだと思っていたのに、まだ七時半なことが信じられなかった。外はすっかり真っ暗になっていて、虫の声しか聞こえてこない。田舎だから、民家の灯りや街灯も少なく、時計が無いと時間が全くといっていいほど分からなくなりそうだ。

「いやー、美味しかったね、バーベキュー!」

 寝間着代わりの半袖シャツと半ズボンに着替えた秋奈の言葉に、小春たちは頷いた。

「そうだね。いっぱいおかわりしちゃった」

「特におじいさんの焼きそば、絶品だったな。あんなに美味しい焼きそば、生まれて初めてかもしれない」

 冬華と夏代が云い、秋奈も頷いた。

「うんうん! あの焼きそば、たとえ五百円でも売ってたら買う! 間違いなく買う!」

「小春ちゃんのおじいさんが、焼きそば作るのが上手だったとは意外」

 おじいちゃん、焼きそばは大好評だったよ。

 小春は自分が褒められたわけではないが、無性に嬉しくなってきた。

「小春ちゃん、道の駅でお惣菜やお弁当を売るのもいいけど、あの焼きそばを売ったら絶対に評判良いよ」

「間違いない! あの焼きそば食べられるなら、毎週でも道の駅に通いたい! というか、学校の購買に置いてほしいよ!」

「そうだな。評判になる事は、間違いない。もしかしたら、名物になるかもしれないな」

 三人の言葉に、小春は口を開いた。

「私も、ずっと前に同じことを思って、そう提案したことがありました」

「そうだったんだ! それで、どうだったの?」

 秋奈の言葉に、小春は残念そうに首を横に振った。

「おじいちゃんは『あの焼きそばを毎日作るのは大変だから、宿泊客か私が来た時だけにしてほしい』と、そう云っていました。なので、道の駅で多くの人に向けて販売したりする気はあまり無いみたいです」

「それ、すっごく残念!」

 秋奈はガックリと、首を垂れた。

「残念だけど、おじいさんに無茶を云うわけにもいかないから、仕方ないな」

 夏代も少し残念そうに云う。

「……あっ、そうだ!」

 秋奈は何かを思い出したように、顔を上げた。

「小春ちゃん、明日は化野ダムに行くって、昼間云っていたよね!?」

 その言葉で、小春はバーベキューですっかり頭の中から抜け落ちていたことを、思い出した。午前中にみんなで行った道の駅で、神山村の近くにある化野ダムの底が見えているというニュースがやっていた。そして道の駅で、明日は化野ダムに行って底を見ようと、みんなで決めたのだった。

 滅多に見られないダム底を、見に行く。きっといい夏の思い出になるはずだ。

「そうでしたね。ですが、それが何か……?」

「おじいさんにお願いすれば、焼きそば入りのお弁当とか、作ってくれないかな!?」

 秋奈の言葉に、なるほどと小春は頷く。そういうことでお願いすれば、もしかしたら特別に用意してくれるかもしれない。孫からの頼みなら、きっと断りにくいはずだ。

「なるほど!」

「ねっ! 早速頼んで――」

 しかしその時、冬華が口を挟んできた。

「ダメ」

 キッパリとそう云った冬華に、秋奈が驚いた表情になる。

「えー、どうして!?」

「おじいさんの焼きそばは、確かに絶品だった。でも、ダムカレーは譲れない!」

 冬華の目は、真剣そのものだった。まだ一度も食べたことが無い、ダムカレーに対する執着心は、誰からの意見にも耳を貸さない強い意識を産んでいた。

「絶対におじいさんの焼きそばを入れた弁当のほうがいいよ!」

「一理あるけど、ダムカレーは何が何でも譲れません」

「おじいさんに断られてから決めてもいいじゃん!」

「ダムカレーはずっと楽しみにしていたからダメ!」

 両者とも、一歩たりとも譲り合う姿勢を全く見せない。

 そんな秋奈と冬華の姿勢に、小春は戸惑っていた。

 秋奈ちゃんが、おじいちゃんの焼きそばをとても気に入っているのは、理解できました。ですが、そこまでしてでも食べたいものなのでしょうか? おじいちゃんにお願いすれば、作ってもらうことはそんなに難しいことではないはずです。食材なら、すぐに揃います。

 冬華ちゃんも、食に対しては人一倍こだわりがあることは知っています。ダムカレーは私も食べてみたいです。でも、冬華ちゃんなら弁当とダムカレーの両方を食べることは、難しいことではないと思います。先ほどのバーベキューでも、最も多く食べたのは、間違いなく冬華ちゃんです。

 ふと夏代を見ると、夏代はそんな二人の様子を時折見ながら、持って来たマンガを読んでいた。どちらでもいいから、決めておいてくれると助かる。そんな気持ちが、夏代の雰囲気から伝わってきた。

 あぁ、どうすればいいのでしょうか!?

 このままでは、間違いなく喧嘩勃発は避けられません。でも、せっかくの夏の思い出に、苦い思い出を加えたくはありません!


 誰か、助けてください!


 小春がそんなことを思った直後、廊下に通じている襖が開いた。

「小春や」

「おばあちゃん!」

 突然訪れた光代に、小春が声を上げた。

「どうしたの?」

「花火、やらんか?」

 光代が手にしていたのは、花火セットだった。

「わっ! 花火!」

 秋奈が光代に駆け寄り、花火セットをじっくりと見つめる。色とりどりの花火が入っていて、すぐにでも火をつけて色とりどりの火花を散らしたい。そう思えてくるような花火のセットだ。

 夏といえば、花火。

 そんな当たり前ともいえることを、私はすっかり忘れていました。どうして、思いつかなかったのでしょう。

「花火、やるか?」

「やりたい!」

 光代の問いに、いち早く返事をしたのは、秋奈だった。

「いいね、やろうよ!」

「花火とは風流だな。やるか」

 冬華と夏代も、花火に意識が向いていた。

 どうやら、皆さん先ほどまでの焼きそば弁当にするかダムカレーにするかのことは、すっかり忘れてしまったみたいです。願いが、通じたみたいですね。

 小春はそっと、胸を撫で下ろした。

「小春ちゃんは、どうする?」

 冬華から聞かれて、小春はハッとした。

「もっ、もちろんやりたいです!」

 小春が答えると、光代が頷いた。

「それじゃあ、表でやろうかねぇ」

 光代はニッコリとして、頷いた。



「わぁっ、真っ暗だー!」

 秋奈が、紅楽荘の外に出て叫ぶ。

 外に出ると、もう真っ暗になっていた。遠くに民家の灯りや街灯の灯りは見えるが、どれもポツリポツリとあるだけで、全くといっていいほど辺りは明るくはない。

 私は見慣れていますが、ずっと都会で過ごしてきた秋奈ちゃんは、驚いても無理はないのかもしれませんね。

 小春はそう思いながら、少し笑った。

 光代は水を入れた防火用バケツを持ってくると、ローソクとマッチを取り出した。

「それじゃ、ローソクに火をつけるから、ちょっと待ってておくれ」

 ローソクを地面に立て、マッチで火をつける。ローソクに火が灯されると、小春たちは花火セットからそれぞれ好きな花火を選んだ。

「それでは、早速……」

 小春がそっと、花火の先端をローソクの火につける。少し待っていると、ローソクの火から花火の先端に火が移り、色とりどりの火花がロケットのように噴射する。

「わぁ、きれい!」

「おっ、眩しいな」

 小春が叫び、夏代が花火を見て呟く。

「たくさんあるから、どんどん楽しんでおくれ」

 光代の一言で、小春たちは次から次へと花火に手を出していく。

 小春は火薬が燃え尽きた花火をバケツに入れ、新しい花火を手にする。周りに目を向けると、みんな花火に夢中になっていた。燃え尽きた花火は次々にバケツへと入れられ、新しい花火が夏の夜の闇を明るくする。

「すごい! 虹みたい!」

「色が変わったよー!」

「こっちは、大火力らしいぞ。どんなものだろうな?」

 秋奈、冬華、夏代が花火を手にしながら口々に云う。誰に向かっていうのではない、独り言のようなものだったが、それは心の底から楽しんでいることの証のようなものだった。

「若い子たちは、元気が一番さね」

「うん!」

 光代の言葉に、小春は頷く。

 懐かしい気持ちに、小春は浸っていた。幼い頃、夏になると毎年家族で揃って花火をしていた。実家だったり、今のように紅楽荘でやったりもした。色とりどりの火花を散らす花火に見とれる自分と、それを見守ってくれる家族と親戚。いつも楽しくて、今から思い返しても、キラキラとまばゆい夢のようなひと時が流れていたように感じていた。

 そして今、それとよく似たひと時が、目の前に流れています。家族や親戚ではなくて、学校の友達だけど、そこは問題じゃありません。大好きな人たちと一緒に、楽しい時間を過ごせていることが、大切なんです。永遠に続いてほしいと思う時間です。

 小春がそんなことを思いながら花火をしているうちに、花火の残りは減り始めていた。一本、また一本と花火は数を減らしていき、反対にバケツの中に突っ込まれた花火は増えていった。

 そして最後には、線香花火だけが残った。

「後は、線香花火だけになりました」

 小春がこよりの部分を持ちながら、云った。

「線香花火かぁ……」

「最後なんだ、全ての花火を楽しもうじゃないか」

 夏代はそう云うと、小春から線香花火を一本、受け取った。

 線香花火に火がつき、最後の花火がスタートする。小春も一本だけ手に持ち、線香花火のパチパチとした音を聴きながら、火花を見つめる。

「……なんだか、線香花火を見ていると、夏も終わっちゃう感じがするわね」

 秋奈が線香花火を見つめながら、そう云った。

「そうか? 私は風情があって好きだぞ?」

「夏が終わってしまうような感じというのは、なんとなく分かります」

 小春がそう云うと、秋奈の線香花火が燃え尽き、先端にできていた玉が落ちた。落ちた玉は、すぐに夜の闇へと消えていき、地面と見分けがつかなくなってしまう。

「あーっ、終わっちゃった」

「まだあるんだから、貰ってきたらどうだ?」

「そうするー」

 夏代の言葉に、秋奈はそう返して線香花火を取りに行った。

「あっ!」

 小春が持っていた線香花火も、先端の玉が落ちた。

「終わっちゃいました」

「今、こっちも落ちちゃった!」

 冬華の線香花火も落ち、夏代は秋奈が新しい線香花火を持ってくるまで、持ちこたえていた。

「残り、この四本だけになったわ」

 秋奈が、手の中にあるたった四本の線香花火を持って告げた。

「これで、いよいよ最後の花火だな」

「楽しかった時間って、本当にあっという間ですね」

 夏代と冬華が、先ほどまでの花火を懐かしむように云う。

「……そうだ!」

「どうしましたか?」

 秋奈が叫び、小春が問う。

「ねぇ! せっかくだからこの線香花火で、面白いことやってみない?」



 秋奈が全員分の線香花火を配り、一斉に火をつけた。

「誰が一番最後まで持ちこたえるか、勝負よ!」

「勝負って、最後まで残ったら勝ちなのか?」

 夏代が問うと、秋奈は頷いた。

「もちろん! 最後まで残った人に脱落した人が、明日の化野ダムでアイス奢りなんて、どうよ!?」

「異議なしです!」

 冬華の目が、光ったように見えた。

「面白そうですね。なんだかワクワクしてきました」

 小春も少し真剣な表情になり、線香花火を凝視する。

 パチパチと音を立てながら火花を放つ線香花火が、少しでも長く持ってほしい。小春たちはそう思いながら、誰の線香花火が最初に落ちるか、楽しみにしていた。

 やがて、誰かの線香花火の先端にできていた玉が、ポトリと地面に落ちた。

「あぁっ! 落ちた!」

 冬華が叫んだ。

「冬華ちゃん、アウトー!」

「これで、冬華は奢る側だな」

 秋奈と夏代が云い、冬華は悔しそうな表情になる。

 その直後、もう一つの線香花火がポトリと落ちた。

「あっ!」

 秋奈が叫び、ため息をつく。

「落ちた……」

「残念だったな」

 夏代がニヤリと笑った。

「ちえー」

 秋奈は線香花火をバケツに入れた。

「後は、小春ちゃんと夏代の一騎打ちかぁ~」

「小春、アイスは貰ったぞ」

「まだまだ、分かりませんよ?」

 小春はそう云い、じっと線香花火を見つめる。

 パチパチと音を立てている時間が、小春にはとても長く感じられた。

 しかし、それもそんなに長くは続かなかった。


 ついに、ポトリと線香花火の先端にできた玉が、燃え尽きるように落ちていった。


 先端が無くなった線香花火を持っていた少女が、ガックリとうなだれた。

「……負けた」

 夏代が、バケツに線香花火を入れる。

 最後に残ったのは、小春だった。

「ま……まだパチパチしています……!」

 小春が驚きながら云ったが、その直後、小春の線香花火も玉がポトリと落ちた。

 この瞬間、小春の線香花火が最後まで持ちこたえた線香花火となった。

「明日、小春ちゃんにアイス奢らなくちゃね~」

「あ、ありがとうございます!」

 線香花火をしていただけなのに、アイスを奢ってもらえることになっちゃいました。明日、化野ダムに行くのがより楽しみです。

 こうして花火は終わりの時間を迎え、小春は光代と共に花火の後片付けを行い、二階の客室へと戻っていった。



 客室に戻ると、小春たちは布団を敷いた。

 時計はすでに、十時を過ぎている。寝るには早い時間だが、いつ眠気が襲ってきて布団に倒れ込むか分からない。いつ眠気にやられてもいいように、先に布団を敷いておくのは、紅楽荘に来てからすっかりお馴染みになったことだ。

 小春は大容量バッテリーとスマートフォンを、充電ケーブルでつないで枕元に置いた。いつも寝る前には、コンセントか大容量バッテリーとスマートフォンを、充電ケーブルでつないでおく。寝る前の、小春の習慣だ。

「明日はいよいよ、化野ダムのダム底を見に行くのねー!」

 秋奈が時計を見ながら、楽しそうに云った。

「秋奈、小春にアイスを奢ることも忘れるなよ?」

「うぐっ!」

 夏代の言葉が痛いところを突いたらしく、秋奈は明らかに変な声を出した。

「三人でおカネを出し合うんですからね。逃げないでくださいよ……!」

 冬華が笑顔で云う。その笑顔からは、言葉に出さなくともじわじわと圧力が出ていることを、否応なく感じさせた。

「わ……わかっているわよぉ……」

「忘れないで、下さいね?」

 秋奈が苦虫を嚙み潰したような顔で云い、冬華が念押しするように微笑んだ。その微笑みにすら、恐ろしいものを感じてしまう。

「あはは……」

 そんなやり取りを見ていて、小春の口からは乾いた笑いが出てきた。

 小春はふと、天井近くに掛けられた写真が入った額縁を見上げた。額縁の中には、化野ダムを上空から撮影した写真が収まっている。

 明日はいよいよ、あの化野ダムのダム底を見に行きます。化野ダムができてから初めてのことらしいので、今から楽しみです。それにダム自体、あまり見に行く機会なんてありません。それこそ、夏休みでも無ければ難しいことです。

 そういえば、昨夜のおじいちゃんの怪談話で、化野ダムのことをおじいちゃんが話していました。あれはきっと、作り話のはずです。おじいちゃんからは、何度も化野ダムの怪談話を聞いたことがありますが、化野ダムがあった場所に化野村なんていう村があったという話は聞いたことがありません。あくまでも、怪談話は怪談話。近場ですし、昔は村を潰してダムを作ったということもありましたから、それを取り入れて作られた怪談話なんでしょう。

 小春が、化野ダムの写真を見ながらそんなことを考えていると、夏代が肩を叩いてきた。

「小春、そろそろ寝ようか?」

「あっ、もうそんな時間ですか?」

「ほら、あれを見てみろ」

 夏代が親指で指し示した先では、秋奈と冬華が布団に横になっていた。すでに深い眠りに落ちてしまったらしく、寝息をゆっくりと立てながら眠っている。

 いつの間に、眠ってしまったのでしょうか?

 小春が目を真ん丸にしながら驚いていると、夏代が微笑む。

「今日も色々と楽しかったから、遊び疲れたんだろう。明日は化野ダムに行くから、早めに寝ておいた方が、いいかもしれないな」

「そうですね。では、そろそろ私たちも眠りましょうか」

「ああ。だけどその前に、ちょっとトイレに行ってくるから、戻ってくるまで待ってて」

 夏代はそう云うと、客室を出てトイレに向かっていった。トイレは廊下を進んだ突き当りにある。廊下を進む足音が小さくなっていき、トイレのドアが開いて閉じる音が客室まで聞こえてきた。

 客室に残った小春は、もう一度化野ダムの写真を見た。

 しかし、そこにあったのは先ほどまで見ていた写真ではなかった。

「!?」

 小春は写真を見て、目を見張った。

 額縁に納められた写真は、ダムを上空から撮影したものではなく、どこかの村を上空から撮影した写真になっていた。それにカラーだった写真は、いつの間にか白黒写真になっている。

 額縁は、一定時間で表示された写真が変わるデジタル額縁ではない。当然、写真を誰かが入れ替えたりもしていない。ましてや白黒写真など、歴史の教科書か光代の持っている古いアルバムのどちらかでしか、見たことが無い。客室には白黒写真など、掛けられていたことなど一度もなかった。幼い頃から毎年、紅楽荘で過ごしていたのだから、すぐに分かる。

 それならば、あの白黒写真は何なのか。

 写真に写っている村は、どこの村なのか。

 小春は急に変化した写真に理解が追いつかず、不思議に思いながら写真を見つめ続ける。こんなこと、まるでフィクションの中の出来事。現実にはあり得ないはず。

「おかしいです……おかしいです……」

「何が、おかしいんだ?」

 突然声が聞こえ、驚いた小春は声がした方を見る。

 そこには、トイレから戻ってきた夏代がいた。

「夏代ちゃん……」

「小春、何かあったのか? さっきから、うわ言のようにおかしいおかしいって、つぶやいていたぞ?」

「あっ、あのですね……!」

 夏代ちゃんなら、一緒になって考えてくれるかもしれません。

 そう思った小春は、写真のことを話してみようと思った。

「あの額縁なんですが……」

「額縁?」

 小春が指し示した額縁を、夏代は見る。

 どこかわからない村を写した白黒写真なんて、きっとおかしいと思うはずだ。小春はそう信じて疑わなかった。

「……あのダムの写真が、どうかしたのか?」

「えっ、ダム……?」

 夏代の言葉に驚いた小春は、もう一度額縁を確認した。

 そこにあった額縁の中には、白黒写真になる前の、カラーの化野ダムの写真が納められていた。白黒の、どこかの村を上空から撮影した写真ではない。いつもこの客室に掛けられていた、見慣れた化野ダムの写真だった。

 先ほどまであった、白黒写真はどこへ行ったのだろう?

「あれ……?」

「小春、どうかしたのか?」

「い……いえ、なんでもありません!」

 どういうことか分かりませんが、これでは夏代ちゃんに話しても、寝ぼけていたと思われてしまうかもしれません。

 そう思った小春は、強引に切り上げた。

「ただ、明日あの化野ダムの底が本当に見られるんだと、思っていました」

「私も、ダム底を見に行くのは初めてだ。楽しみだな」

 夏代はそう云うと、壁にある照明器具のスイッチに指を当てた。

「小春、そろそろ灯りを消すけど、いいか?」

「あっ、はい!」

 夏代の問いに小春が答えると、部屋の中が暗闇に包まれた。

 暗闇の中で、小春は布団に入って横になった。

 きっと、疲れているのかもしれません。明日は化野ダムに行くのですから、今日はもうゆっくりと眠ることにします。

 そう思って、そっと目を閉じた。

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