03
「はあ……はあ……はあ……」
床に座り込んで、ずっと荒い呼吸を繰り返している瑠衣。場所は、さっきの教室から少し離れたところにある、この学校の音楽室だ。部屋の入口付近にはマリーがいて、近づいて来る者がいないかと外の廊下を見張っている。
二人は教室からここまで、全速力で走って逃げてきたのだった。
「はあ……はあ……」
だから、今もなかなか瑠衣の呼吸が落ち着かないのも、走って息が上がっているせい……だけではないだろう。
「はあ……はあ……」
「……全く」
呆れるように、そんな瑠衣を見るマリー。そばに歩み寄り、そっと彼女の肩に手を添える。
「いい加減に、落ち着きなさいな? 貴女それでも、私の……」
しかし、
「ひ、ひぃーっ⁉」
瑠衣は、自分に触れたマリーの手を、また天井からカエルが落ちてきたのだと勘違いして情けない声をあげる。そして、部屋の隅まで這いつくばって移動して、さらに体を小さくしてガタガタと震えだした。
「全く。なんてことなのかしら……」
先程のセーラという少女の能力によって、彼女は完全に恐怖に支配されてしまったようだった。
「い、一体、なんなんですか……。突然綺麗なお嬢様が出てきたと思ったら、小鳩ちゃんも別のお嬢様と一緒に現れて……。し、しかもそのお嬢様が何かしたら、私の嫌いなカエルや蜘蛛がたくさん湧いてきて……。もう、意味わかんないですよ! な、なんで……なんで私だけ、こんなことに……。いつだって、そうだ……。私だけ、いつもバカにされて……。いつもイジメられて……。こんな苦しい思いばっかり……いつもいつも……」
ブツブツと、そんな独り言を繰り返す瑠衣。そんな瑠衣を刺激しないように距離を取りながら、マリーは話し始めた。
「さっきのあの子は……というか、私とあのセーラという子は、この世界に住む貴女たちとは全く別の存在。こことは別の世界からやってきた、貴女たち人間よりも遥かに気高く、美しく、由緒正しい、
「レイ……ディ……?」
体の震えは止まっていないが、それでもその話に興味を持って、ゆっくりと顔を上げる瑠衣。マリーは続ける。
「私たち
「こ、小鳩ちゃんが……?」
「そう。つまりさっきのセーラは、あの小鳩って子を自分のメイドとして選んで、既に彼女と『契約の口づけ』も済ませているみたいね。だから彼女、『悪役お嬢様』の淑女能力として、貴女の嫌いなカエルや蜘蛛を出す、なんていう芸当が出来たのよ」
「……え? え……じゃ、じゃあ……」
瑠衣は戸惑いの表情でマリーの方を見つめる。それから、恐る恐る尋ねた。
「あ、あなたが……マリーさんが、さっき私に……キ、キスをしようとしたのは……私を自分のメイドにしようとしたから、なんですか? 私をメイドにして、自分も、さっきの人みたいな、不思議な能力を使えるようにするため……?」
マリーはまた、呆れるような表情でそれに答える。
「……私、ついさっきそう言ったばかりよね?」
「う、うう……」
瑠衣の顔が、徐々に赤く染まり始める。瞳には、何か熱いものがこみ上げてくる。
それは、さっきのキス未遂のときに一人で舞い上がってしまったことによる恥ずかしさ。そして、瑠衣自身にも原因はよく分からない、謎の憤りからだった。
「まあ、とにかくそういうわけだから……」
そんな瑠衣の様子に気付かないマリーは、相変わらず音楽室の入口に注意を払いながら、また彼女の肩に手を添える。
「今のうちに私たちも、『契約』だけでも完了させておいた方がよいでしょうね。そうしないと、さっきのあの子たちにやられっぱなしだわ」
そして、出会ったときとは違ってかなり事務的に、自分の唇を瑠衣の唇に近づけ始めた。
しかし、
「や、やめてください!」
瑠衣は、そんなマリーを拒絶した。
「な、なんなんですかっ⁉ お嬢様同士の戦いとか……キスしたら不思議な能力が使えるようになるとか……。そ、そんなの、私には関係ないじゃないですか⁉ 私の気持ちも考えずに、そんな一方的に自分の都合を押し付けて……そのせいで、さっきの私が、どれだけ怖い思いをしたか!」
カエルや蜘蛛に襲われたことを思い出して、更に体の震えを激しくさせる瑠衣。彼女にとってさっきの出来事は、本当に、少しの我慢も出来ないくらいに辛いものだったのだ。
「ふふ……」
激昂する瑠衣に対して、マリーは相変わらず落ち着き払っている。ドレスの懐から何かを取り出すと、震える瑠衣の前にそれを差し出した。
「これは、そんな貴女にとっての
マリーが差し出した
「っ!」
次の瞬間に、ショックのあまり目を見開いて絶句してしまった。
ケロ、ケロケロケロケロケロ……。
それは、さっきの教室で瑠衣を襲ったアマガエルの一匹だったのだ。
「ひ、ひぃぃぃーっ! な、何でそれ、ここまで持ってきてるんですかぁぁぁーっ⁉ わ、私カエル嫌いって言ったじゃないですかーっ⁉ す、捨ててくださいっ! どこか遠くに、今すぐ捨ててくださいぃぃぃーっ!」
せっかく少し落ち着き始めていたところだった瑠衣は、一瞬にしてそれを台無しにさせて、また絶叫をあげて取り乱し始めた。
「は、早く、早く! わ、私の見えないところに捨てて下さいってばっ! あー、もうヤダっ! ヤダヤダヤダヤダヤダヤダーっ! ホントにもう、ヤダよぉー……」
「ふふ。違うのよ。ほら、よく見てよ」
そんな瑠衣を教え諭すように、マリーは告げる。
「さっき言ったように、今この空間には、私たち以外の生き物は存在出来ない。だから、たとえあのセーラって子の能力が『相手の嫌いなものを出す』というものだったとしても、『本物の生き物』をこの場に出現させることは出来ないの。当然、このカエルだって、実は本物じゃないのよ」
そう言うとマリーは少しも躊躇することなく、そのカエルの両脚を左右に引っ張り始めた。
「ちょっ⁉ な、何してるんです⁉ そ、そんなことしたら、そのカエルが引きちぎれて、中から、気色悪い内臓が……!」
瑠衣の言葉に耳を貸さず、引っ張り続けるマリー。やがて。
ブチっ。
「ひ、ひぃーっ!」
結局そのカエルは、無惨にも緑色のカラダの真ん中から真っ二つに裂けてしまった。
しかし、そこで見えたのは、瑠衣の言ったようなグロテスクな光景ではなかった。
ケロ……ケ、ロ……ケ……。
引き裂かれたカエルから出てきたのは、歯車やネジのような部品、小さなスピーカー、そしてボタン電池だ。
「ね? 言ったでしょう? この
至極当たり前だというように、そう言ってバラバラになったカエルのオモチャの残骸を瑠衣に差し出すマリー。
しかし……。
「ふ、ふざけないでください!」
瑠衣はそんな叫び声を上げて、彼女の手を乱暴に払った。
「オモチャだから、とか……怖くない、とか……。そ、そんなの、勝手に決めないで下さい! 私は本当に……本当に本当に、カエルも蜘蛛も大嫌いで……たとえオモチャだって……ニセモノだと知ってたって……嫌いなものは嫌いだし、怖いものは怖いんです! 勝手なこと言って、私のことを分かった気にならないで下さい! 私の気持ちを、あなたが勝手に決めつけないで下さい!」
それは多分、今のマリーにだけ言っているわけではないのだろう。
瑠衣が、今まで小鳩や他のクラスメイトに散々馬鹿にされ、虐げられ、自分の気持ちをないがしろにされてきたことの蓄積。自分をイジメる相手に言いたくて言えなかった言葉たちが、とうとうこの瞬間に爆発してしまったのだ。
「……」
「私は本当に本当に、心の底からカエルが嫌いなんです! 寒気がするほど蜘蛛が嫌いなんです! そ、それに……吐き気が止まらないくらいにゴキブリも嫌いだし……パイナップル入りの酢豚なんて食べたら、身体中が
「……何の話?」
「つ、つまり……誰にだってそういう、震えがするほど大嫌いで苦手なものが一つや二つくらいはあるってことです! そんなの、当たり前だって言ってるんですっ!」
「今の話だと、一つや二つじゃ足りなそうだったけど?」
「こ、細かいことはどうだっていいんですっ! と、とにかく……そういうふうに他人が嫌いなものを平気で目の前に持ってこれるようなあなたが、すごく非常識で、無神経だっていう話をしているんですよ、私は! お、お嬢様だかなんだか、知りませんけどねっ⁉ あ、あなたみたいに他人の気持ちもろくに分からない人のメイドになんて、私、絶対になりませんからねっ⁉ だ、だから、戦いなんてするわけないし……さ、さっきのキスの続きだって……」
瑠衣が少し口
「……はいはい」
「え? な、何を突然……」
「もう、分かったわよ。ええ、確かに。貴女の言うことは正しいわね」
マリーは瑠衣に背中を向ける。そして、どこかへ向かって歩き出した。
「ど、どこに行くんですか? ま、まだ話は、終わっていな……」
取り乱した自分に対する反応としては、あまりにもアッサリとしている。そのせいで、瑠衣は全然納得がいかない様子だ。
しかしその問いにも、マリーはやはりアッサリと答えた。
「どこ、って? 当然、あの二人のところに決まっているでしょう? 私たちの戦いは、もう始まっているのだから。さっきも言ったとおり、すでにここは私たちしかいない
「え……? で、でも……」
「ああ。貴女は大丈夫。ここで、気が済むまで隠れてくれてればいいわ。どうせあの子たち程度の相手、私一人でも楽勝ですからね」
「で、でもそれじゃあ……マリーさんは、……メイドがいないままってこと、じゃないですか? あのセーラって人みたいな能力も、使えないってことなんです……よね?」
「ま、そうなるでしょうね」
マリーは、瑠衣に背中を向けたまま続ける。
「でも、何とかするわ。何とか出来るに、決まっているでしょう? この私を、誰だと思っているの? 美しさと気高さはもちろんのこと、勝負においても常に最強。完全完璧であることを神に約束された、マリー様よ? あんな子たち程度、メイドや淑女能力なんてなくても、負けるはずがないわ」
「そ、そんな……」
そして、一人で音楽室の出入り口の方へと向かって行ってしまった。
ケロ……ケロ……。
さっき瑠衣が払って床に散らばってしまったカエルのオモチャの残骸から、断末魔のような鳴き声が聞こえてくる。
「……」
しかし、気持ちが別のところに行っていた瑠衣はそれには気づかず、遠くなっていくマリーの背中を無言でじっと見つめていた。
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