Part 2

「あら」

 相手の人影に気付いて、先に声を掛けたのは女の方だった。女は満面の笑みを浮かべていた。窪原に会えて本当にうれしそうだ。


「……君も来ていたのか」

「ええ。あなたも危篤になっていたのね。知らなかった」

「二人して大変なことになったもんだな。俺たち――たしか夫婦だよな」

「たぶん」

「間違いないよ。俺は君との結婚式の夢を昨晩見た」

「結婚式? わたしは見なかったわ……でもわたしたち、やっぱり結婚していたのね。うれしいいわ」

 女はそう言って、無邪気な感じで笑った。


 そうか、あの結婚式は彼女にとって楽しい思い出なのかもしれない、と窪原は思う。もちろんまだ見ていない可能性もあったが。


「わたしたち、夫婦なんだから協力しましょうね」女は言った。

「あっああ、そうだな。ところで、君の名前はなんていうんだっけ?」

「えっ、知らないの?」

 妻は目を丸くした。

「ああ。思い出せないんだ。でも仕方がないだろ。まだ夢の中に君の名前を呼ぶ場面が出てこないんだ」

「そうね。しかたないわよね。頼子よ、頼子。思い出した?」


「……ああ。そうだったね。ところで君は、俺の名前を知っているのか」

「秀弘でしょ。わたし、夢の中で、いつもあなたの名前呼んでるから。嫌な想い出ばかりだから、泣きながら叫んでいる感じだけど」

「…………」

 窪原は絶句した。

 二人の間に、奇妙な緊張感が漂った。何かしっくりこない気まずい雰囲気だった。


 頼子は、その雰囲気を振り払うかのように、例の写真を取り出し、窪原に見せた。

「……これが君にとって、いちばん気分の落ち着くものなのか」

 頼子は返事をする代わりに、ゆっくりと俯いた。


 窪原は頼子に、すまない気がしていた。彼にとって最も気分が落ち着くものは、煙草であり、決して頼子との思い出ではない。それに、その煙草に火を灯すライターが、亜矢香のものであると知った昨日からは、紫煙に特別の意味が加わっていた。窪原は煙草をくゆらす度に、亜矢香への想いに沈んでいたのである。

 しかしながら、そんな気持ちでいる窪原の前で、頼子は再会できた喜びを素直に表している。


「ところで君は、どのくらい体を見つけたの?」

「まだ右手だけ。秀弘は?」

「あっ、うん。俺もそんなもんだな。まだまだだ」

 今日の午前中の成果で、体さがしが順調になっていることを、とても頼子には言えなかった。


 窪原に同情にも似た気持ちが湧き上がってきた。

「いっしょに体をさがそうか」窪原は言った。

 頼子はただこくりと、うなずいた。彼女の瞳が微かに潤んだ。

 彼女は、すっと右腕を絡ませてきた。二人の持っているスコップが、触れ合って小さな音を立てた。


「どこに行こうか」

「まだ行ってないところとかあるの?」

「西側の海岸なんかどうかな」

「そうね、いいわ」

「じゃあ、こっちだ」

 二人は、頼子の歩いてきた方角に歩き始めた。


         *


 北の海の黒影は、今日もまた多くの人々を飲み込んでいた。一人、二人と吸い込まれるように、海に消えてゆく。死に向かう彼らには、もはや抗う気力は残っていない。この島での凄まじい葛藤の果てに辿り着いた結論には、澄んだ諦念があるものだ。


 ごく稀に、途中で立ち止まったり、僅かに引き返したりする者もいるが、再び砂浜にまで戻ってくることはない。その者たちは、やがて安心しきったように微笑みさえ浮かべて、まるで海に抱かれるようにして、消えていくのが常だった。


 赤本は、昨日と同じように北の海の砂浜に寝転がって回想していた。


 今までの人生のことを。それは、この島で見た悪夢のつなぎ合わせのようなものだったが、不幸な人生を振り返るにはそれで充分だった。


 私鉄沿線郊外の汚いアパートの三畳間に住み、飲まず食わずで俳優の養成所に通った十代の頃。オーディションを受けても受けても通らなかった頃。街角でティッシュを配るバイトをしたら、行き交う人々は振り向いてもくれず、なかなか終わらなかったこと。次々に挫折して行く仲間たちとの別れ。年を経るごとに募る焦燥感。初めてテレビドラマで役をもらったまでは良かったが、ディレクターにしごかれて結局降板させられたこと……。


 赤本は、ゆっくりと立ち上がった。スラックスの砂をはらう。また頭をさがそうとする気持ちに彼はなったのだった。心の中は、悔しさでいっぱいだった。

 昨日窪原に出会ったことで、少し前向きな気持ちになったことも手伝っていた。窪原みたいないい奴も、現実の世界には、きっとまだ大勢いる。出会うべき人間にまだ出会っていないだけなんだ。赤本は、そう思うことにした。


 彼はもう一度、海を眺めた。

「俺の人生がこのまま終わっていいはずはない」気が付くと彼はそう呟いていた。


 赤本は、特に理由もなく東の方に道を取った。この十一日間というもの、さがせるところは全てさがしたはずだった。ただ闇雲に歩き回ったわけではない。三日目からは、島をブロック別に分けて念入りに歩いたのだ。再度さがしたブロックもある。それでも頭部は見つからなかった。いったい何処をさがせばいいのだろう、彼は途方に暮れた。たった今決心したことが、早くも鈍り始める。


 彼は、ともすれば止まりそうになる足を引きずるようにして、歩き続けた。


 常緑樹の林を抜けると、島の北東部の海岸線が露わになった。まるでリアス式海岸のように、岩が複雑に海岸を浸食している先に、小山のように盛り上がった細長い岩があった。

 赤本は、その細長い岩の近くから、人影が現れるのを見た。

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