Part 6
その時だった。突然、ものすごい速さで北の方から人影のようなものが現れた。それは背が低く、全身真っ黒で裸だった。
人影のようなものは、あっという間に、頼子の右手をさらっていった。すばしっこい猿のようにも見えたが、それは明らかに人間だった。
頼子は大きく悲鳴をあげた。しかし岩にしがみついている身では、どうすることもできない。
「なんてこと。ひど過ぎるわ」
「あれは〈地迷い〉だな」
置部の口調は、落ち着いていた。
「えっ、なに? ジマヨイ?」
「まあ、まずは岩を下りてしまいましょう。ここは危ないですから。それから、話をします」
「待てないわよ。今話して」
「あわてないでください。だいじょうぶですから。右手は必ず戻ってきます。僕が保証しますから」
「そんなこと言ったって……」
「まあまあ」
置部の冷静な説得に、頼子は怪訝な顔をしながらも、うなずいた。
その後二人は無言のまま下り続け、ようやく地上に立った。頼子は、その間幾度も岩で腕や足をこすったが、傷にはならなかった。この島では、置部が言うようにけがをすることはないのであった。
頼子は、身体のあちこちをさすりながら、心配そうに〈地迷い〉が去っていた南の方角を凝視した。今にも走り出しかねない様子だった。
「〈地迷い〉も元は人間だったんです。こうやって、人の体を盗んでは悪さばかりしているんです。とんでもないやつです」
「わたしには小さな化け物のように見えたわ」
「あいつは、この島で様々な罪悪を重ねるうちに、〈導き〉によって、あのような姿にさせられてしまったのです」
「どんな悪いことをしたの?」
「この島の規律というか風紀を乱したらしいのです。詳しいことは分かりません。随分と昔の話ですから。僕がこの島に来る前のことです。僕もある人から聞いたんですよ」
「〈地迷い〉、は島の影には入らないのかしら」
「ええ……普通、あのような姿になると、他の人の目が耐えきれなくなって、もうすぐにでも島の影に入るのですが、彼だけは特別らしいのです。精神がよっぽど強いんでしょうか。ある意味では、この島のルールを超越している者です」
「そんな奴から、わたしの手は取り戻せるの? どうなるの?」
「〈導き〉が何とかしてくれますよ。近いうちにね。心配いりません。必ずあなたの許に戻ります」
「そんなこと言われても……せっかくあなたのおかげで見つかったのに」
「何とかなりますから。僕を信じてください」
「彼は……現実の世界では永遠に生きるのかしら」
「そんなことはないと思います。ただ、彼はもう通常の判断がつかなくなっています。意識が暴走したまま、もとに戻れなくなっているんですよ。でも、永遠に生き続けるなんて有り得ない。たとえ、現実の世界で植物人間になっていたとしても、肉体にはいつか終わりが来るはずですからね。これは僕の推測ですが、現実の肉体が朽ち果てた場合、この世界の体もまた埃のように消え失せてしまうんじゃあないでしょうか」
二人とも、そのまま沈黙してしまった。終わり、という言葉が、彼らの胸に突き刺さり、死を強く意識してしまったのだった。
頼子は自らの右手を見つめて、いっそう不安げな顔つきになった。
「〈地迷い〉はどこに住んでるの?」
「僕も知りません。みんなが寝泊まりする、あの広場ではないことは確かです」
「何とかしてあいつの居場所を捜せないかしら」
「とにかく時が過ぎるのを待ってください。この島では焦らないことです。焦ったら、他の見つかる体も、見逃してしまう可能性がありますよ。とりあえず右手のことは、いったん忘れましょう」
「むずかしいけど、やってみるわ」
「その意気です。ひと休みしたら、また体をさがしに行きましょう」
置部は、また人を安心させる笑顔を浮かべた。
*
窪原と赤本は、広場の中央の建物に着いた。
昼間ということで、みな体さがしに出掛けていて、広場には彼らの他に誰もいない。
二人とも広場に行くまでの間、体のどの部分も見つけることは出来なかった。
カーテンウォールに囲まれた建物は、光を反射して輝いていた。現代的な造りは、この広場の雰囲気に全くと云っていいほど馴染んでいなかった。
窪原が、昨日の晩には入る気になれなかったくだんの場所である。明るい光のもとで改めて注視すると、さらに不気味な暗い雰囲気を漂わせていた。人が入り込むのを拒絶しているようにも見えた。
彼らは、長方形に切り取られただけの、扉の無い出入口に立った。
「さあ、地下室に行ってきな。俺は外で待っているよ」
赤本はそう言って、意味ありげな笑みを浮かべた。
窪原は、ためらいながらも建物に入った。足が自然と重くなった。嫌な予感が、頭を駆け巡っていた。
建物の中は、地下に続く階段だけがあり、二階に続くものはなかった。階段のない地上階……。不条理な構造を持つ建物に驚くというよりは、彼はいささかうんざりした。驚くという感覚も、連続すれば次第に麻痺していくことを窪原は知った。住んでる者はいないのだろうか。窓があったはずだが――彼は思う。
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