3-6

 夏紀が帰ろうと玄関で靴を履いていると、ドアが開いて木下夫妻が帰ってきた。そして夏紀とハルが一緒にいるのを見て、驚きを隠せない様子だった。

「お邪魔してます。もう帰るんですけど」

「それは、良いんだけど……どういうこと?」

「あとでゆっくり聞こうか。とりあえず、ハル、夏紀ちゃんを送ってきなさい」

「い、良いですよ、すぐそこなので」

 という夏紀の意見は聞いてもらえず、ハルは良夫に外に引っ張り出されていた。夏紀は夫妻に謝りながら、笑顔で見送ってもらった。

 送ってもらう、と言ってももちろん、十歩もしないうちに門の前に着く。来る時は降っていた雨は、すっかり上がって地面も乾いていた。

「明日、ピアノ空いてるけど、どうする?」

 ハルがそう聞いたのは、夏紀がハレノヒカフェに戻ることに決めたから。

 悩んでいてもどうにもならない。好きなものは、好きだから。

「親父たちいないから、生徒も来ない。午後ならいつでもどうぞ」

 それなら一時半からお願いします、と言って、ふと見上げるとハルと目が合ってしまった。珍しくハルが笑うので、つられて夏紀も笑った。


 夏紀が家に入ると、キッチンで明美が妙に笑顔で待っていた。

 何か良いことがあったのかと聞くと、「あったのは夏紀でしょ?」とまた笑顔で返された。

「さっき外で話してたの、晴仁はるひと君?」

「誰? ハルヒトって……あっ、そっか、そうなんだ。だからハル……」

「ピアノ教室の息子さんでしょ。どこで知り合ったのよ」

「ハレノヒカフェの、オーナーだったの。傘を貸してくれたのも、あの人」

 夕食の席では、夏紀とハルの関係について、明美からの質問が途切れなかった。父親もいたので突っ込んだ質問は無かったけれど、明美は全てを知りたそうにしていた。もちろん、聞かれても夏紀は全てを答えるつもりはないし、第一、彼とは特別な関係ではない。


 ようやく明美から解放されて部屋に戻ると、夏紀はハルから預かった楽譜を広げた。よく見ると、夏紀の記憶にない解説が追加されていた。

(やっぱり……良い人としか思えないなぁ……。気まぐれなんて、嘘だよ)

 楽譜を目で追いながら、机で指を動かしてみる。メロディを脳内に再生させながら、ピアノの鍵盤を思い浮かべてみる。

 夏紀にとってピアノは身近な存在で、なおかつ特別だ。

 それはきっと、ハルに出会ったから。

 ピアノではないメロディが聞こえてきたのは、夏紀が楽譜に一通り目を通した後だった。もしかして、とカーテンを開けると、ハルの部屋に明かりがついていた。

 オカリナの音色は、ハルが奏でている。

 今までは夫妻のどちらかだと思っていたけれど、違った。違ったけれど、それは夏紀には嬉しいことだった。

 夏紀はハルには聞かなかったけれど。

 最初に出会った雨に打たれた日、ハルは夏紀が戻って来るのを待ってあのメロディを聞かせてくれていた。夏紀のことを知らなかったら、傘を貸してくれなかったら、別のメロディを奏でていたはずだ。

(ハルさん……やっぱり私……)

 秋の優しい風に乗って、夏紀の心はプロヴァンスを上った。

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