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 夏紀の休みと雨が重なって、夏紀がハレノヒカフェを訪れたのはポスターを見てから二週間も後だった。既に決まってしまっているかもしれないと思いさやかに連絡すると、「まだ店の前にポスター貼ってたよ」という明るい返事が返ってきた。

 坂を上って汗をかいてしまっては嫌なので、まだ涼しい朝のうちに、開店時間にあわせて家を出た。

「いらっしゃいませ、あ、夏紀ちゃん。今日は一人?」

 さやかと何度も訪れているせいか、店員にも名前を覚えられていた。近くに住んでいる主婦だという城崎恵子しろさきけいこは、店内の花に水をあげていた。

「あの……」

「どうしたの? 悩み事? とりあえず、座って。ちょっと待ってね、いまお水入れるから」

 恵子はカウンター席におしぼりを置いて、夏紀にその席をすすめた。客として来たわけではないけれど、恵子に申し訳ないので夏紀は着席した。

「あの、城崎さん……、外に貼ってるポスターなんですけど」

 夏紀がようやく話を切り出すと、恵子は「あら、ピアノ?」と嬉しそうに夏紀のほうを見た。夏紀が頼んだグレープフルーツジュースを出して、「弾けるの?」と聞いた。

「そんなに上手くはないんですけど……。あれって、毎日なんですか?」

「ううん。まだ詳しいことは決まって無いんだけど、来れる時だけで良いんだって。いつもはお店のBGMはCDなんだけど、たまには生演奏はどうだ、ってオーナーの提案」

 恵子は一旦言葉を切って、店の奥のほうを指差した。

「あそこのスペースにピアノ置くって言ってたわ」

 指差されたほうを見ると、何もない空間が四畳半ほどあった。置くのはきっとグランドピアノだろう。そこで演奏しているのは、店内すべての席から見えそうだ。

「どんな曲を演奏するんですか?」

「さぁ……人が決まってから考えるってオーナー言ってたかな? そんなに高いレベルは求めてないと思うけど……。ただ、うちのオーナー、気まぐれだから。いつ決まるのかしらね」

 ははは、と笑いながら、恵子は一旦カウンターの奥へ姿を消した。

 グレープフルーツジュースを飲みながら、夏紀はもう一度考えてみた。

 好きなカフェで好きなピアノを弾いて、店員や客ともっと仲良くなるのを想像してみた。

 自然と頬が緩んでしまう。

「夏紀さん、なにニヤニヤしてるんですか?」

「あっ、徹ちゃん……」

 声をかけてきたのは、ハレノヒカフェでアルバイトをしている大学生の小池徹二こいけてつじだった。彼は非常に人懐こい、爽やかな青年だった。話をするのは楽しいけれど、残念ながら年下すぎて恋愛対象にはならない。

「さっき城崎さんに、あそこにピアノ置くって聴いて……素敵だろうな、って想像してたの」

「でも、オーナー気まぐれだからな……いつになるんだろ」

「恵子さんも言ってたよ。でも、こんな良いお店作れるんだから、良い人なんじゃない? 料理も美味しいし」

「メニュー考えたのはオーナーですけど、作ってるのは僕ですよ。夏紀さん専属のシェフになりましょうか?」

 徹二は言いながら真剣に夏紀を見つめた。

「何なら、ずっとお世話させてもらっても良いですよ」

 ずっと夏紀から目を逸らさず、徹二は夏紀に微笑みかけた。夏紀も負けじとじっと見つめる。そして笑顔になるけれど──。

「こらこら、どれだけ頑張っても何も出ないよ」

 夏紀は徹二から視線を外し、残念、と笑った。

 二人で話すのが楽しいのは徹二も同じなのだろう。

「はぁ……失敗。あ、でも、もし僕が夏紀さんより年上だったら、本当に彼女にしたいです。本当ですって」

 だって僕、夏紀さんに一目惚れしたんです、という言葉を徹二は飲み込んだ。出来るなら言ってしまいたいけれど、声には出なかった。ため息をついて少し項垂れた。

「あ──ありがとう徹ちゃん。私、徹ちゃんのことは好きだよ?」

「本当ですか?」

「うん、あの、その……友達として? だけど」

「それでも良いです! やった!」

 と言いながら、徹二は大きくガッツポーズをした。

 ちょうどそのとき恵子が店内に戻ってきて、何を笑ってるのと聞きながら徹二の隣に立った。

「夏紀ちゃん、ピアノのことで来たって言ってたわよね」

「はい。他に誰か来ましたか?」

「ううん。夏紀ちゃんが最初」

 ということは、夏紀が応募して辞退しなかった場合、ハレノヒカフェでピアノを弾くのは夏紀に決定だ。もちろん、最終決定をするのはオーナーになるけれど。

「そういえば──城崎さん、ピアノの色、聞きましたか?」

「え? 色? 黒じゃないの?」

 恵子が聞くと、徹二は首を横に振った。

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