クマを殺した祖父

@monjpn

第1話 大したことじゃない

 フリードリッヒ・ニーチェの生涯には多くの興味深いエピソードがあるが、その中でも有名なのは「狂気の日記」と呼ばれる話がある。

 ニーチェは1889年1月3日、トリーアで精神的な崩壊を経験しました。彼は市の広場で倒れ、一人の馬車の馬に囲まれるという奇妙な場面が起きたといわれた。その後、彼は深刻な精神的状態に陥り、自分自身を神と名乗ったり、友人に手紙を書いたりしたという。


 これらの行為はニーチェの後期の哲学に影響を与えたらしい。彼の作品「ツァラトゥストラはこう語った」には、この経験から受けたインスピレーションが反映されている。ニーチェの狂気の日記は彼の精神的苦悩と哲学的思索の複雑な一面を示すものであり、彼の人生と思想における感動的な日々のエピソードであろう。


 私の祖父の名は忠⚪︎といった。祖父とカツヲの父は長年、不仲だったことから、祖父の人となりを詳しく知るような話を耳にすることは少なかった。祖父の没後、その生涯の逸話を知ることになる。


 祖父は故郷の、ありふれた農村の次男として生まれた。北陸で冬は雪深い土地。祖父には歳の離れた兄がいて、太平洋戦争の際、特攻の要員で散ったと聞いた。徴兵の検査で155センチ有れば優良とされた当時、身長は6尺(180センチ)以上あって、目立って長身であったという。許嫁がいたが、祝言を前に戦争にとられ、帰らぬ人になったらしい。次男であった祖父は終戦間際に戦地に赴いたが、無事帰国し、その許嫁と一緒になったという。しかし、詳しい理由は知らないが、離別し、遠縁の親戚と再婚した。その人が私の知る祖母である。


 私は所謂おばあちゃん子であった。父母は地場企業で正社員、共働きだったから、物心がついた頃には常に祖母がそばにいた。なんとなく覚えているが、4歳くらいの時、小児肺炎を患い、祖母におぶられ、大きな病院に連れらるらた記憶がある。そんな祖母には感謝をしているが、小学校から帰ったある日、ヒステリックに頭を平手で叩かれた記憶もある。子供ながらふざけてモノを壊したり、言うことを聞かなかったり、まあ自分に原因があったのだろうけど、昭和の時代だし、昔の気丈からだろう。


 祖母は64歳で亡くなった。私が小学5年のときだった。運動会のリレーの番を待っている時に教頭先生と青ざめた母が迎えにきたのを今でも覚えている。家族の死に向き合ったのはこれが人生で初めてだった。

 祖母は57歳で認知症だった。ドラマや映画でやっているように、ご飯を食べたのに、腹が減ったと言ったり、当然物忘れがあったり…。印象的だったのはたびたび、「女が泣き泣き帰った」と口にしていた。祖父の前妻のことらなのか、はたまた別の女性のことらなのか。真相を私は知らない。父母もこれについて何も語らなかった。少なくとも、当時は完全に認知症を患っていて、訳の分からない事を口にしていたから、介護をしていた母は、まともに受け応えをしていなかったと記憶しているが、私は「女が泣き泣き帰った」と焦点の合わない目でつぶやいていた祖母を強烈に覚えている。


 祖父は相当な遊び人だったと彼の晩年になってから親戚から聞いた。私にもその血がら流れているから、気をつけろと言われた。私が東京に出ることが決まった時も、祖父に「東京の女ぬは気をつけろ」と言われた。あとから知ったが、女遊びが激しかった祖父からの助言だったらしい。

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