第肆拾話 陰陽国の光と影〈四〉


 朔夜と赫夜による宣戦布告から一夜明けた翌日。いつも通り出仕した中納言“桔梗キキョウ”は、内心面倒な朝議に出席するため、御所の中の『紫微宮しびきゅう』に向かっていた最中であった。早朝に弱い身体に鞭を打ち、大欠伸を噛み締めながら気だるげに歩く桔梗の身だしなみだけは整っており、これを毎朝欠かさずしてくれるのは彼の娘の“蛍袋ホタルブクロ”である。

 正妻は既に二人目の出産の際に亡くなっていて、現在桔梗は娘と二人で広い屋敷に住んでいる。普段抜け目のない一面を見せている桔梗だが、生活面ではだらしなさと適当さがあからさまに露見して、身なりに関しても無頓着である。そんな父を見兼ねた蛍袋が率先して父の身支度に口を出すようになったのは、まだとうの頃であった。世話焼きの母の血を継いだのか、父の世話を焼く蛍袋は今や結婚適齢期を迎えながらも、どこにも嫁ぎ先がない始末。そんな行き遅れ一歩手前の娘の行く末を案じながら、上弦門をくぐる桔梗の肩を背後から叩いたのは、いつもの上機嫌な笑みが形を潜めた大納言の陽春ヨウシュンだった。


「…これはこれは陽春殿。朝からなにやら浮かぬ顔ですな」

「…浮かぬ顔にもなります。あの噂を聞いた後では」

「噂?」

「桔梗殿はご存じないのか? 昨日さくじつ、御所内で兎君と烏師による激しい姉弟喧嘩が起こったらしい」


 本当に知らないのか?と訝しむ陽春にはて、と首を傾げて耳にしていないことを示しながら、内心桔梗はずぼらな友人に対して腹を立てていた。御所内の噂や出来事に関しての情報は、いつも右大臣の界雷カイライから仕入れており、何かあればその日のうちに報せが届くのが常。しかし偶にこのように界雷が報告を忘れることも暫しあり、こうして情報通を謳いながら他の官吏に先を越されることもある。胸の内で密かに界雷への悪態をつきながら、概要を陽春から詳しく聞き出した。


「…はて、聞いておりませんな。陽春殿、よろしければ詳しく教えていただけますかな?」

「勿論です。事の始まりはどうやら烏師の行啓ぎょうけいにあるようで。赫夜が訪れたのがなんと、中納言の常夏殿の屋敷だったとか」

「ほお、常夏殿の。一人の官吏を贔屓しない烏師が一体何用で?」

「桔梗殿も噂くらいはご存じでしょう? ほらあの、『烏師派』だの『兎君派』だの、の噂」

「…あぁ」


 陽春に言われて桔梗もその噂について思い出す。ここ最近、宮中の片隅で密かに囁かれていた派閥抗争の噂については桔梗も勿論知っていたが、何せ大臣たちがまったく関与せず、勝手に両殿下を巻き込んでの抗争だったため、特に大事にもならずに自然消滅するであろう、と見立てていた者の方が大半で、噂自体もあまり広まっているようには感じなかった。故にまさかその話題に繋がるとは予想していなかった桔梗は驚きの声を上げる。


「…まさか、あんな荒唐無稽な話に烏師様が乗っかったのですか?!」

「まさにその通り。そのせいで今度は朔夜までもが、兎君派の首謀者である敗醤ハイショウ殿に接触したとか」

「そんなことをすれば、御所は真っ二つに割れてしまうではありませんか。現にお二人は言い争いをしていたのでしょう?」

「そうらしいのです。正直、私としては他の者たちの権力闘争になどまったく興味はないのですが、この結末が兎君を廃すことにならないか、そのことだけが気掛かりなのです」


 陽春の思惑は勿論、自分の娘を兎君の后に据えることであり、彼が今望むのは現状維持。もしこれで烏師派が優勢となり、兎君が座を追われることになどなれば、陽春の計画も水泡に帰すこととなる。そんな自己中心的な悩みを抱える陽春に苦笑いを浮かべながら、この件について完全に蚊帳の外にいる大臣たちの思惑について思案する。


「…しかし、あまりに事態が大きくなれば流石の界雷殿も動き出すのでは?」

「それが界雷殿も冬牙…殿も、この件に関しては傍観を貫く、と聞きました。故にどちらの派閥の者とも接触していないようです」

「成程。なら、

「な、何故そう思われるのですか?」

「長年の、“勘”ですかね。冬牙殿はともかく、界雷とは同じ時期に大学寮学舎で育った旧友としての信頼がありますから」


 それでは、と何の憂いもなくなった桔梗はなんとも清々しい顔で先を急いだ。その足早な背中に陽春は最後の質問を投げた。


「も、もう一つ! 桔梗殿は、どっち派なのでしょう?!」


 陽春のその質問に桔梗は足を止めて振り返ると、薄い笑みを浮かべて答えた。


「–––私は“中立”です。今も昔も、これからも」



 ❖ ❖



 そしてその日の朝議の空気は、桔梗が予想していたよりも遥かに重々しかった。大臣から参議までの太政官たちが全員その場に集まり、位順に前から左大臣、右大臣の二人が並び、その後ろに大納言ら、その後ろに桔梗含める中納言、そして最後尾に参議がそれぞれ席につき、平伏して朔夜、赫夜の出座を迎えた。普段、朝議などのまつりごとの場に烏師が出向くのは稀であり、朔夜から「面を上げよ」という合図と共に顔を上げた桔梗たちは、朔夜の隣に座す赫夜の姿に声も上げずに驚いた。何故政を行わない烏師がこの場にいるのか、その疑問が満ちる中、冷静な左大臣の冬牙が口火を切る。


「――おはようございます、両殿下。本日は烏師様もお越しいただき、恐悦至極に存じます」

「…皆の者、本日も大義である。すまぬが烏師からの強い要望でな、本日は同席することを許してほしい」

「滅相もございません。本日は事の他頼もしく思います」

「…皆の者、突然すまぬな。よろしゅう頼みます」


 冬牙の巧みな話術によって今日の朝議には烏師自ら出席の意思を示したことをこの場にいる他の者たちにも表明してみせた。それはつまり、烏師の方に政への関心があることの表明であり、今後兎君を廃しても烏師が万事政を行えるようにするための下準備、とも受け取れた。そのことは誰しも口には出さなかったが、この場にいる全員は察していた。事の他積極的な烏師の行動に密かにほくそ笑む常夏に対して、敗醤の方は僅かに焦りを見せていた。そんな二人の気配を背後に感じながらも、界雷と冬牙の表情は少しも変化しなかった。

 密かに水面下で行われている権力闘争の噂を聞いたばかりの桔梗は、てっきりこの場でその話を議題として挙げるのか、と冷や冷やしたが、朝議の内容は至って平凡な話題だった。


「――さて、では始めようか。まず初めに、国司こくしによる各領地の報告を…」


 至って通常通りに始まった朝議の最初の話題は、陰陽国の周囲の各領地に配置されている国司こくしたちによる報告。

 国司とは、各領地の監視及び税の徴収を目的として陰陽国より派遣される行政官のことである。この役職を設立したのは第三代兎君であり、初代の頃からの忠臣の末裔とはいえ、各領地を治める一国の主である領主たちへの疑惑の目を光らせるために設立されたという。国司の役所、及び屋敷は各領地の都に建てられ、陰陽国と領主たちを結ぶ外交官の役目も担っている。その重要な役職である彼等には月に一度、税の上納と共に領地や領民の様子などをまとめた報告文書を提出する義務がある。そしてその内容を兎君が聞く場が、この朝議である。

 読み上げるのは右大臣の界雷カイライの仕事。


「各領地、共に上納に然程の差異はありませんが、例年に比べてどの領地も等しく不作のようです」

「…等しく、全て?」

「はい。各国司の調査によりますと、各領地それぞれに天災による問題を抱えているとのこと」

「天災…。話しには聞いていたが、そんなに被害が出ているのか?」

「城下町までは及んではいませんが、確実に被害は拡大している模様です」

「…そうか。一刻も早く原因を突き止め、領主たちを安心させてやりたいものだ」


 国司の報告通り、ここ三、四年の間頻繁に原因不明の天災被害の報告が増えていることは明らかで、この原因については今もって不明。一部の噂では、“先代兎君が役目を放り出して玉座を捨てた天罰”と囁く者たちもいる始末。兎君の威厳のためにもなんとかして手助けしたい、と考える朔夜を遮って、突然赫夜が横から口を挟んできた。


「…別に、各領地のことはその領主たちに任せておけば良いではないの。彼等も一国の主、それくらいのことは自分達で何とかしてもらわねば困る」


 皆もそう思うでしょう? と笑顔で同意を求めてきた赫夜に、冬牙と界雷は一切微動だにせず、桔梗と陽春は硬直し、敗醤含める兎君派は呆然として、常夏含める烏師派は皆一同に首を縦に振った。共感を得て嬉しそうにほくそ笑む赫夜だったが、横から刺すような叱咤を投げかけられぴたりと表情を硬直させた。


「――烏師、誰が発言して良いと言った? 其方の発言権は今この場にない。大人しく座っていろ」

「…はいはい、失礼致しました」


 赫夜の横槍を一切許さないと言わんばかりの朔夜の冷たい視線に、赫夜は仕方ないといった様子で肩を竦めて口を閉じたが、周りの官吏たちはそれだけでは留まらず、凍り付くその場に今にも心身ともに凍えそうになっていた。普段温厚な朔夜とは真逆なその姿は、生前の十六夜イザヨイを彷彿とさせるものがあり、彼女に口で買った事のない陽春は人知れず個人的な恐怖を感じていた。

 この発言を受け、朔夜を御輿に掲げる兎君派の敗醤たちは内心歓喜した。

 そしてこの空気の中でも動じず各国司の報告を読み上げ終わった界雷は、一先ずこの場においてはこの議題は保留、ということで決着させて次の議題に移った。


「…次に、両殿下の正式な即位式について」

「準備の方は滞りなく進んでおります」


 二人の即位式の準備は、今界雷と冬牙が一番に取り組むべき案件であり、最も重要な案件であった。

 朔夜と赫夜は一ヶ月前に元服の儀を終えて互いの玉座を継承したが、まだ正式に即位の儀礼を行ってはおらず、所謂『お披露目』と呼ばれる儀式は、元服とは別の日に行われる。その日取りについて、今日は冬牙から提案があった。


「本日は即位式の日取りについてご提案がございます」

「申してみよ」

「諸々の準備と各領地の状況から鑑みて、日取りは翌年の水張月みずはりのづき(六月)がよろしいでしょう」


 その提案された日にちを聞いて驚きの声を上げたのは、陽春だった。


「お、お待ちください! それでは一年も後になるではありませんか?!」

「はい。それが何か?」

「い、以前、亡き烏師様のご遺言で、“后を迎えるのは即位後”と、聞いた覚えが…」


 陽春が心配しているのはやはり、実の娘の入内の事であった。

 朔夜の母である烏師・十六夜イザヨイは遺言に、まだ幼いうちから後宮に后を置くのを良しとせず、早くとも即位後、と界雷たちに言伝を残した。その為、一刻も早く娘を后に据えたい陽春にとって、一年は長かった。


「ご遺言はご遺言。しっかり守らねば、いくら分家とはいえど末代まで祟られますぞ?」

「ぐぬ…っ、致し方ありませんな」


 「この借りは“陰君子いんくんしの舞”で」と捨て台詞を密かに吐くと、陽春は押し黙った。その『陰君子いんくんし』の単語を聞いた桔梗が、もう一つ間近に迫る恒例行事の存在を思い出した。


「…そういえば、二月後ふたつきごには“陰君子節会いんくんしのせちえ”もございますな」

「勿論、その準備も抜かりなく」


「…はてさて、


 二の夜には、先祖たちに奉納する『陰君子の舞』を宮城の禁裏内の舞台で選ばれた重臣の娘たちが舞うことになっている。

 つまり陰君子、陰(かげ)の君子である烏師の祭事であるわけだが、皆が一様に楽しみにする一方で、兎君派の敗醤が独りぼそり、と呟いた一言でその場の空気は一瞬にして凍りついた。あまりに含みのありすぎる敗醤の発言に、流石に黙っていられなかった常夏は声を上げた。


「…それは一体どういう意味ですかな、敗醤殿?」

「これは失敬、聴かせるつもりはなかったのですが。勿論、言葉の通りですよ」

「それはつまり、祭事の前に烏師の御身を危ぶむ、という叛逆の発言として受け取ってもよろしいと?」


 常夏がそう鎌をかけるも、彼の口にしたことに対して敗醤はわざとらしく怯えて見せた。


「おぉ、なんと恐ろしいことを! 私などでは到底考えもつかないことを、さも当然の如く口になさるとは。そういう常夏殿こそ、常にそのような野蛮なことをお考えなのでは?」

「っ貴様!」


 生来、煽りに対して堪え性のない常夏が小馬鹿にするような敗醤に対して大声を上げて掴み掛かろうとした、その時。


「――両者とも、やめよ」


 頭上から重くのし掛かるような声に二人はぴたり、と口を閉ざし、徐々に溢れた額の脂汗を流しながら玉座の方を凝視する。そこには二人の見苦しい喧嘩を不愉快な表情で見物する朔夜がいた。


「この場をどこを心得る? 我が御前で見苦しい真似はやめよ」

「し、失礼致しました!」

「申し訳ございません!」


 慌てて頭を下げる二人に朔夜は大きく溜め息をつくと、ある事を告げた。それは二人だけでなくその場にいるすべての者たちをあっと驚かす内容であった。


「…明日の朝議にて、今宮中を賑わせている噂の決着をつけようと思っている。故に其方たちの諍いも、明日まで保留しておくが良い」

「そ、それはつまり…っ」


 それはつまり、ということを指していた。これこそが、朔夜が敗醤に言伝た“合図”である。兎君自らその場をもうけるということの意味を理解している敗醤は既に勝者の笑みを浮かべ、一方の常夏は悔しげに唇を噛み締めた。


 その二人の対称的な様子を朔夜と赫夜の二人は、ただ黙って玉座から眺めるのだった。



 ❖ ❖



 その後の朝議は滞りなく終了し、朔夜、赫夜両名の退室後に立ち上がった桔梗たちは各々の帰路に着く。その道中、まだ争い足りないのか、敗醤と常夏は互いにいがみ合いながら歩いていた。その様子を桔梗は冬牙と界雷に挟まれながら傍観する。


「これで勝負はありましたな。兎君自ら動かれた以上、其方ら一派に勝ち目などない!」

「馬鹿なことを。それは当日、

「何? まさか貴様、恐れ多くも兎君をしいするつもりではあるまいな?!」

「馬鹿な、もしもの話だ。だが、我々が手を下さずとも、“”はある」

「な、なんと恐ろしい。自身の出世の為なら、担ぎ上げるお方すらも利用するか」

「なんとでも吠えるが良い。その忌々しい口も明日までの命よ」


 二人は手こそ出さないものの、持ち得る語彙の限りで相手を罵り、隙あらば自身の御輿の話を始める。その繰り返しにいい加減我慢の限界を迎えた冬牙は、早々に道を逸れた。


「…まったく、下らない。私はお先に失礼致しますよ、界雷殿」

「はい。お疲れ様でございました」

「界雷殿も早々に退散された方がよろしいですよ。絡まれれば面倒な事になります」

「…ご忠告痛み入ります」


 宮中では好敵手ライバルのような二人だが、官位を抜きにすれば案外馬の合う界雷と冬牙の会話を聞き耳を立てていた桔梗は冬牙が去った後、界雷に今回の事柄について何の報告もなかったことを今になって問い詰めた。


「…ところで界雷、何故今回こんな面倒な事になっていたのに、この俺に知らせなかった? 納得のいく返答を頼むよ、界雷“殿”?」

「すまない。耳の早いお前のことだから、もう知っていると思ったのだが」

「流石に御所のことはすぐには難しいな。その為に親友殿がいるわけじゃないか」

「…まったく。その人脈をうまく使えば、出世するのにも苦労しないだろうに。まだ中納言そこに留まるつもりか?」

「いいんだよ。俺はもとより出世には興味がない。適度な地位が一番良いのさ」


 常に自由奔放な人生を貫いてきた桔梗は、今更上に官位に興味はなく、適度に業務をこなしたのち老後は静かな場所で隠居したい、などとよく零していた。しかし二人の前を歩く敗醤と常夏の背を見て、そうも言ってられないかもしれないというのも本音。


「…はてさて。朔夜様も赫夜様も、一体この件をどう決着させるつもりなのか」

「…何か考えがあるようだが、兎に角面倒な事にならないことを願うばかりだ」


 そう言って顔を突き合わせた二人は、今後の不安を大きな溜め息と共に吐き出した。

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