第参拾話 君とまた巡り逢う時〈三〉


 瞼の向こうから子供たちの笑い声と眩しいくらいの光を感じて、六花リッカはそっと目を開いた。暗闇の中に長い間沈んでいた眼球は、突然の光に白塗りとなった視界の中で次第に順応していき、その先に広がる光景を六花の紅眼こうがんに映し出した。

 まず最初に視界に飛び込んできたのは、心地良い風に身を任せて揺れる無数の藤の花たち。六花が顔を上げれば頭上には長年掛けて伸びた蔓が複雑に絡み合い、そこから垂れ下がった枝に咲き誇る藤の花たちが彩る立派な藤棚が聳えて立っていた。見覚えのない藤棚の下にいつの間にか立っていた六花は鼻腔に充満する藤の香りを感じながら周囲を見渡し、藤の簾の向こうにとある光景を見つけて凝視した。


「――― ?」


 簾のように六花の視界を覆う藤の花の隙間から覗くその光景には、縁側の高欄こうらんに凭れて楽しそうに笑う黒髪の少年の姿。六花は朔夜の生前の姿を見たことは一度もないが、直感が彼女に告げた、“あれは紛れもなく朔夜サクヤである”と。そしてその朔夜の隣で彼の屈託のない笑みを引き出しているもう一人の人物の姿に、六花は思わず見惚れた。それはとても綺麗な少女だった。肩まで伸ばした一点の曇りもない真っ白な髪が一番の特徴のその少女は、その真紅の慈しみに満ちた瞳で朔夜を見つめながら艶やかな唇でたわいのない世間話を語って聞かせては、朔夜の笑みを引き出している。朔夜が笑うたびそれに釣られて一緒に笑うその顔はより一層美しく、きっとこれが朔夜の恋焦がれていたものなのだろう、と六花は思った。そしてあれこそが、あの人物こそが、朔夜がずっと捜していた“赫夜カグヤ”なのだと確信したその瞬間、六花は不意に呟いた。


「… 


 それが憧れなのか、それとも羨望なのか、将又ただの感想なのか、それとも、よくわからなかったが不意に零れた独り言にハッと気づいた瞬間、目の前のまるで天国のような光景はパッと消え去り、ただの暗闇が六花の周囲を覆った。自分の身体以外を認識できない完全な闇の中で、ぬっと背後から伸びてきた白い二本の腕に六花の細い首がいとも簡単に鷲掴まれ、圧し掛かってくる体重に身を任せてその場に仰向けに倒れた。最初は無意味な抵抗を見せたが、首に掛かる指に一切の圧を感じないことにそこからの敵意の無さに六花は抵抗をやめた。締め上げることはないが決して放そうとしないその腕の人物の顔は暗闇の中に埋もれて認識できなかったが、その指細さ、腕の白さ、枝垂れかかる黒髪の艶やかさ、そのすべてを六花は知っていた。


「…母様、私ずっとね、


 腕の人物は相槌すらも打たないが六花は続けた。


「私ね、早く母様がこうしてくれてれば、あんな扱いをされることなく、残りの人生家長の正室として真っ当に生きていけたんじゃないのかって、思わない日はなかった」

「私のような荷物が、母様の残りの人生を駄目にしてしまった。それなのに、私の自己満足でその命を散らしてしまった」


「ごめんなさい、ごめんなさい…、母様」


 六花はこの際、胸の内に溜め込んでいたすべてを母親の幻影に向かって吐き出した。普段、気丈に明るく振る舞っている六花だったが、その胸の内には常に黒々とした闇が湛えており、死に際の母の姿を夢に見ては密かに飛び起きていた。朔夜と契りを交わしたあの日、母の心は既に壊れきってしまっていたのを見て今後もう元に戻ることはない、と諦めた故の決心だったが、もしかしたらあの時諦めずに母の命だけでも助けていれば、母はいずれ回復したのではないだろうか。もしかしたらまた、二人だけで楽しく静かに暮らせたのではないか。そんな想像だけの世界が六花の脳内を駆け巡り、過去の自分への無意味な復讐心がその心を黒く蝕んでいた。


 きっとこれは罰だ。夢の中で母親が復讐しにきたのだと、六花は勝手に自分の中で完結させると目を閉じて身を委ねた。


 すると突然、何者かに横から制止された。


「――駄目だ、これ以上はいけない」


 横から突如伸びてきた骨太でありながら色白な男の手が、首を絞める腕を掴んで止めた。そして優しい声で腕の主を諭した。


「……これ以上、


 優しく制止する青年の声で六花はハッと目を開いて、今自分の立ち位置を再確認したと同時に驚愕した。首を絞められていたと思い込んでいた六花の立場はいつの間にか逆転し、六花は仰向けに倒れる人物の細い首を絞めるために圧し掛かる側になっていたのだ。…否、最初から六花は己が手で己が首を絞めていたのだ。震える手を首から放し、よくよく倒れている人物の姿を観察してみればそれは自分と似た姿をした木偶人形だった。すると突然カタリ、と動いた木製の目玉が六花の方を向いた瞬間、六花は飛び跳ねるように退き、よろめいた身体を横やりを入れた青年が支えた。木偶人形から離れると途端に周囲の闇が一瞬にして霧散し、次は晴れやかな青空の続く世界が二人を包み込んだ。

 そんな周囲の変化に気を配れるほどの余裕がない六花は、ゆっくりと見上げてその青年の顔を確認すると、そこで六花を見下ろしていたのはまるで仏のように慈愛に満ちた、しかしどこか憂いを帯びた優し気な笑みを湛えた青年——赫夜カグヤの顔だった。


「…どうして、ここに?」

「さてね。俺も今の今までずっと、自分の殻の中で深く眠っていたから。でもきっと、君は俺とよく似た“性質”を持っているからかな」

「似た、“性質”?」

「…まぁそれはさておき。ほら、早くここから目覚めた方がいい。君の声を待っている人たちがいるだろ?」


 赫夜にそう諭されて六花はようやく、今の朔夜と青葉のことを思い出す。そして自分が気を失って攫われたことを思い出し、この場からの出口を探すように周囲を見回した。しかしそこには扉のようなものはなく、赫夜は笑みを零してそうじゃない、と六花の頬を両手で包み込むとお互いの額と額を重ね合わせて言った。


「…“六花リッカ” ここは君の夢の中だ。君が現実を恋しがれば自然と目が覚める。ほら、早く現実にお戻り」

「…赫夜は? 一緒に戻ろう、だって、だってきっと、朔夜が———っ」


 会いたがっている、と言おうとした六花の言葉を指先で遮った赫夜は困ったように笑うと、六花の瞼をゆっくりと二本の指で下ろしながら最後に告げた。


「――。でもきっと、いつか必ず…」


「―― 


 薄れていく意識の中、瞼の裏に残された赫夜の言葉を一言一句すべて聞き取った六花は夢の外へと吐き出された。




 次の瞬間、すぐに六花の瞼は開かれた。そして焦点の合わない視界の中で六花が最初に見たのは、自分の身体を抱えて深く眠る赫夜の美しい相貌かおだった。夢の中ではあんなに生き生きとしていたのに、なんだか不思議な気持ちになりながら眠ったままの赫夜に六花は初めて挨拶をした。


「…初めまして。私は、貴方の大切な弟君に救われ、幾度となく助けられた者です。名前は六花リッカ…って、もう知ってるよね」

「……」

「ねぇ、貴方はあの夢の中でまだ会えないって言ってたけど、やっぱり少しでいいから、朔夜に会ってあげて」


 お願いね、と微笑んだ六花は抱えていた赫夜の腕を解き、所々軋む身体に鞭打って咳き込みながら玉座の前に立つと、首に刻まれた朔夜との繋がりの“絲”を引き抜いた。首から離れた赤い“絲”が空中に消えると、首から溢れ出た黒い影が六花の身体を包み込み衣を黒く染め上げた。包んでいる影が消え去る前に動き出した身体は、眠る赫夜の頬を包み込んでその愛しい名前を呼んだ。


「っ―― 逢いたかった、赫夜カグヤ!!」



 ❖ ❖



 六花が目覚める少し前、瓊音ヌナトの命令で二人を取り囲む常夜衆の僧兵たちに青葉が吠えて震え上がらせていた。本来は刀二本で戦う青葉だが、今は片手が朔夜という荷物で塞がっているため、愛刀の内の『比良八荒ひらはっこう』のみを抜き、その刃を僧兵たちに向けた。片手が塞がっているという不利な状況であるということには変わりないはずだが、刃から伝わる青葉の鋭い殺気に僧兵たちは恐れ慄きその場から一歩も動くことができず、その場は暫しの膠着状態となっていた。その状況に焦れて最初に声を上げたのは、苛ついた様子の瓊音だった。


「っ何をしてるの!? 早くそこの痴れ者たちを排除なさい!!」


 瓊音の怒声によって恐怖を払い除けた僧兵たちは再び奮い立つと、手にした薙刀を振り上げながら青葉たちに襲い掛かった。その蜂起する声に青葉も『比良八荒』を握り直すと、突如片手に持っていた朔夜の頭蓋を天高く放り投げた。その予想だにしなかった行動に呆然と宙を舞う髑髏を見上げる僧兵たちの隙を突き、もう一本の愛刀『鳥曇とりぐもり』を素早く引き抜くと刃を反した二振りの刀で僧兵たちの胴体を薙ぎ払った。峰打ちによって倒れた僧兵たちを気に留めることなく尚も前進してくる兵たちの薙刀をひらりと躱すと、峰から刃に反し直した愛刀で薙刀の刀身部分を見事にへし折った。武器を失った僧兵たちが戦意を喪失する中、未だ武器を握っていた後方の兵たちまでも慄いて一歩後退った。

 ひとまず前進してくる敵兵を薙ぎ払って膠着状態を復活させた青葉は一息つくと、愛刀の片方を鞘に収めて頭上から落ちてくる朔夜の髑髏を見事に受け止めた。ストン、と青葉の手のひらの上に収まった朔夜は、それまで感じていた浮遊感から青葉に文句を言ったのは当然のことだった。


「っなんて無茶なことをするんだ!? 万が一にも落ちて砕けたらと思うと、ぞっとする!!」

「そんなヘマするわけないだろ。勿論落下時間を計算してやったんだ」

「まったく。次やったら六花に言い付けてやるからな!」

「やめろよっ」


 もはやこれだったら大人しく巾着の中に収まっている方が安全かもしれない、と思った朔夜は青葉に早々に巾着の中にしまわせ、塞がった片手が解放された青葉も心置きなく愛刀を手にした。完全に戦闘態勢を整えた青葉に怯えながらも睨み合う僧兵たちの今にも一触即発な状況の中、彼等の目の端で小さな人影が動いたことに気づき、全員の視線が上座の玉座に集中した。そこにはゆらり、と幽霊のように立ち尽くす小柄な人影——六花リッカの姿があった。目覚めたはずの六花は青葉たちの方に振り返ることなく、じっと玉座に座って眠る赫夜を見つめながら何か呟くと、首の刺青の“絲”を解いた。その瞬間、青葉の腰元に下がった巾着の髑髏しゃれこうべから心なしか重みが減ったのを感じ、同時に六花の身体が真っ黒な影に覆われた。そして影は完全に霧散する前に伸ばされた両手が深い眠りの中にある赫夜の頬を包んだ。


「っ―― 逢いたかった、赫夜!!」


 目の前の幸せを噛み締めるように赫夜の名前を呼んだ朔夜は、生前のまだ幼い姿で自分よりも一回り大きく成長した赫夜の精悍な顔立ちを愛おしそうに見つめながら、目覚める様子のない状態に涙を流した。瓊音の語り様から察してはいたが、実際に今の廃人同然の赫夜の姿を目にすると、これが自分の行いの結果なのだと思い知らされ、応答のない赫夜に縋って謝罪の言葉を繰り返し囁いた。


「っ…ごめん、ごめんね、こんなになるまで待たせて。僕は君への遺言を残して逝ったつもりだったんだけど…、どうやら届いてなかってみたいだ…」


 この地に戻ってきたことで朔夜は一つ、過去の記憶を思い出していた。それは死の間際、青林セイリンに斬首される前に付き人のトモエと交わした最期の会話だった。



『——巴、こんなところまで付き合わせてすまなかった。お前は宮城に戻れ』

『っお待ちください! 私は兎君に仕える中将です、主一人を自害させてのこのこと戻るなんて出来ません!』

『巴…』

『どうか、どうか私にも御供を—— 『それはならぬ』 ——何故!?』

『…巴、お前には最期に重要な使命を言い渡す。これを遂行したのち、お前は陰陽国での地位も責任もすべて捨てて、お前の名前など誰も知らない静かな土地にて残りの生涯を終えろ』

『…これは?』

『……赫夜、そして宮城に残してきた父様とうさま揺籃ヨウラン、“梅枝ウメガエ” “蛍袋ホタルブクロ” 皆に宛てた遺言だ。この手紙を必ず、宮城に届けてほしい』

『…しかし』

『いいか、これは勅命である。違えることこそ、お前の忠誠心に反すること。僕が死ぬその時まで、僕の信頼する忠臣でいてくれ』

『……… 畏まりました、確かに承ります』

『…すまないな。赫夜たちを、頼む』 



 そう。朔夜は一番の信頼を寄せる巴に最期、手紙を託していたのだ。自身の最期の願いを綴ったその文章がもし赫夜たちの手に渡っていたのならば、こんな悲劇が起こるはずはなかった。赫夜だけでなく、父様たちも女房たちも今頃無事にどこか静かに生きていたかもしれなかった。しかし朔夜が託した手紙は過去に消失してしまった。


 なら何故?


 ならば——、


「―――?」


 朔夜の手紙を手にして消息の絶った忠臣のことを思い浮かべた、その時。

 すぐ真横から感じた鋭い殺気に振り返れば、朔夜の目の前に光る覚えのない切っ先が迫り今にもその目に突き刺さろうとしていた。それを寸でのところで弾き飛ばしたのは、朔夜の窮地に飛び出した水虬みずち氷月ひょうげつ。しかしホッとしたのも束の間、朔夜が落ちた刃が小太刀だったこと、そしてその見た目は見覚えのあるものだったことに気を取られ、首を狙って伸びてきた腕に反応できずに細い首を常人ではない力で掴まれ、赫夜から引き剝がされてその軽い身体を持ち上げた。気道を圧迫されて苦しみながらも、ぼやけた視界で腕の先の人物の姿を捉えた朔夜は、その碧眼を絶望の色に染めた。


「っ――と、


 朔夜の首を掴み上げていたのは、過去の面影をわずかに残したトモエだった。しかし朔夜の目の前に現れた巴は常人ではない様子なのは明らかで、ボロボロになった狩衣かりぎぬに傷だらけの裸足を晒し、その肌は土色で生気はない。人語を介さない白目を剥いた獣のような巴の姿に、朔夜は困惑するばかりだった。そんな朔夜を更に絶望させたのは瓊音だった。


「――いい気味ね。自分で置いていってに苦しめられるなんて」

「……後追い?」

「えぇ。巴は貴方の死んだ後、貴方の後を追って自害したそうよ」

「え………」


 自身の死後のことを聞かされた朔夜は、巴が自分の後を追ったことに絶望したのと同時に、巴に託した手紙の行方を案じるのだった。



 ❖ ❖



 同時刻


 北・執明領しつみょうりょう 首都『斗都とうと』 領主居城『玄武城げんぶじょう



 聖地の最北に位置する玄武一族の治める領地『執明領しつみょうりょう』は稲熟月いねあがりのつき《九月》を過ぎれば厳しい雪の日が続くようになる。毎年のように領民たちを苦しめる大雪の時期が来る前に、皆一斉に“雪支度ゆきじたく”を始め、例え民家が雪で覆われてしまったとしても暮らせるだけの食糧を確保するのが常。

 既に雪がちらつく斗都とうとでは領民たちが息を白く染めながら忙しなく暮らしを営む中、白い景色を背にして堂々と佇む真っ黒な天守はこの地を治める『玄武一族』の居城『玄武城』である。玄武城は例え猛吹雪の中でもその存在を知らしめるために壁も屋根もすべてを黒塗りにしてあり、その圧倒的な存在感は領民たちでさえ萎縮するほど。そして真っ黒で不気味な城には生来、“怪物の巣”と陰で囁かれていた。


 天守から西側の二の丸に建てられた御殿は玄武一族の身内が暮らす居所であり、玄武に仕える家臣たちも頻繁に出入りしている。その屋敷の廊下の真ん中を堂々と歩く権利を持ちながらも、傍目にはひそひそと陰口を叩かれてしまうとある人物が一人いた。


「――あれは…、紅鏡コウキョウ殿か」

「どこの馬の骨かも知れない若造が。玄冬様の息子気取りか」

「姫様に見初められただけだというのに、偉そうに」

「やはり“幽玄ユウゲン様”と“真冬マフユ様”の死因は奴が…」


 屋敷を堂々とした態度で歩くのは、玄武の当主である“玄冬ゲントウ”の娘婿であり、今や玄武の次期当主候補筆頭格の青年“紅鏡コウキョウ”である。将来有望な美丈夫に屋敷の女中たちは色めき立っていたが、古参の家臣たちは彼の存在を疎ましく思っていた。

 実は紅鏡が玄冬の跡取りに選ばれた経緯には様々な噂が飛び交っていた。来年には八十歳になる玄冬ゲントウには五人の息子と一人の娘がいたが、内の次男の“冬牙トウガ”と三男の“樹雨キサメ”は陰陽国の関係者として十年前に亡くなった。そして残った長男の“幽玄ユウゲン”が父の跡を継ぐはずだったが、彼は反乱後から三年後に流行った『水死病すいしびょう』によって亡くなり、後継の座は当時十二歳の四男“真冬マフユ”に渡ったが、その真冬も一年後に風邪をこじらせて急死。度重なる息子たちの死に一時は『冬牙の祟り』などと噂されたものの、残った娘婿の紅鏡の優秀さに目を付け、玄冬は当主の座を後々彼に譲ることを宣言したのがつい最近のこと。ちなみにまだ五男の“ヒイラギ”がいたが、今年十二歳の柊の母親は身分が低く側室にもなれなかった女であったため、生まれてしまった柊の存在を玄冬は疎ましく思っていた。その疎外扱いは玄冬だけでなく、他の家臣や一族にも広がっていた。


「おい! まだ茶の一杯も用意できないのか!?」


 周囲からの嫉妬混じりの陰口を囁かれても一切動じる様子なく目的地に向かう紅鏡の耳に、聞き慣れた怒号が飛び込んできた。横の襖の向こうから聞こえてくる怒声と騒音に嫌な気配を察した紅鏡が溜め息をつきながら一歩後ろに下がると案の定、襖が中からの強い衝撃で廊下に倒され、同時に小さな子供の身体が廊下の真ん中に転がった。転がって倒れた栗毛の少年は細く痩せた二本の腕で起き上がると、その場で頭を下げて部屋の主に謝罪した。


「…っ申し訳ございませんでした、款冬カントウ様。すぐにご用意いたします」

「グズグズするな、この妾腹が。お前なぞ手違いで生まれただけで一族の者ではないのだから、この屋敷に置いてもらっているだけ有難く思え!」

「…はい、申し訳ありません」


 一方的に罵倒されながら言い返すことすらしない少年はトボトボとした足取りでその場を去って行き、その背中を見送りながら紅鏡は未だ鼻息の荒い老人に声を掛けた。


「…相変わらずですね、款冬カントウ殿」

「これはこれは、紅鏡殿。御見苦しいところを失礼いたしました」

「えぇ本当に、


 特に款冬あなたが、というのは心の中だけで付け足しながら紅鏡はにこやかに告げた。それを肯定と受け取った款冬は嬉しそうに笑った。

 この老人――款冬カントウは玄武一族の人間であり、当主・玄冬の異母弟おとうとである。母親は亡き父親が晩年寵愛した側室であり、年老いた父に溺愛されて育ったせいで怠け者の我が儘男である。そのため玄冬からは煙たがられている。


「そうでしょう。異母兄兄上の失態とはいえ、あんな下賤の血が混じった者を一族の者として迎えなければならないとは、まったく面倒な」

「…まぁそれはさておき。は考えていただけましたか?」

「…そ、そうだな。うまくいけば俺が一族の…」

「前向きに検討していただいているようで何よりです。詳しいことはまた後日」

「そうだな。良い酒でも用意して待っているからな!」

「ありがとうございます」


 社交辞令も甚だしい嘘くさい笑みを浮かべてその場を去った紅鏡は、目的の客間として使われている一室だった。一族の居室から近い場所にある客間を今使っているのは、この一年程玄武城に身を寄せている“青龍からの賓客”だった。


「今よろしいですか、弓月ユヅキ殿」

「どうぞ」


 紅鏡の訪問を快く迎え入れたのは、青龍一族に長年仕えている謎の法術者であり『予言者』である弓月ユヅキ。表に出る際には常に黒い覆面で顔全体を隠している弓月の初見の感想は『怪しい』の一言だが、その理由をよく知っている紅鏡の前で弓月は覆面を外していた。

 襖を開けるとそこに凛と座っていたのは、肩までの真っ白な髪と真紅の瞳が特徴的な美青年。弓月は紅鏡の姿を見るや、懐から一通の手紙を取り出して彼の前に見せた。それを見た紅鏡は少し驚いた様子で眉尻を上げた。


「…どこでそれを?」

「この一年、玄武城の書庫を使わせてもらっていた際に古い文献の間から見つけました。まさか、が玄武にあるとは。玄冬殿も中々どうして酷い御人だ」


 そう言って勝手に開封した手紙の内容を読んだ弓月は、それが予想通り“朔夜から赫夜たちに宛てた遺言書”であった。それがここにある経緯について詳細を知っている紅鏡は気まずそうに視線を逸らした。


「…さて、なんのことかな」

「まさかとは思ってたけど、陰陽国滅亡の裏で動いてたのが外祖父の玄冬殿とは。これなら若君たちが次々に亡くなったのが“祟り”っていうのも強ち間違いでもなさそうだ」

「…まぁ、どうなんでしょうね」


 はぐらかすように素っ気なく返事をする紅鏡に少し意地悪を楽しんで満足した弓月は、手紙への興味を失ったようでそれを部屋の隅に投げ捨てると、紅鏡とだけ話せる話題に切り替えた。


「――そういえば、次の合議の準備には君も陰陽国に出向くんでしょ?」

「まぁね。これを機にに接触する」

「あぁ、例の“常夜衆とこよしゅう”ね。本当に使えるの?」

「勿論だ。俺の目的の為に、精々利用させてもらうさ」


 そう言って普段見せない本心からの笑みを浮かべた紅鏡は、先程弓月が放った手紙を拾い上げて中身に目を通すとそれを火鉢の中に放り込んで呟いた。


「――

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