第三十八話 流れ入ってくるもの

 眠ってしまったローズを部屋へと運ぶと、ベッドにはヤギのぬいぐるみがちょこんと乗っていた。それを枕横へと追いやり、ローズの靴を脱がして横たえると、そっと毛布をかけてやった。顔にかかった髪をさらりと掻きわけ、イーサンはその寝顔にぼそりと呟きを落とす。


「君との約束、半分だけでも守らないとね」


 そうして踵を返し、彼は自室を後にした。

 深紅の廊下を進み、そのまま真っすぐ階段へと向かう。砕けたカップも染みたコーヒーも未だそのまま、しかしイーサンはそれを無視して、上階へと足を進めた。ぎいぎいと階段の軋む音がする。その一段一段を見つめながら、ゆっくりと上っていった。マーリンの部屋の前まで来ると、そのドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。扉を開けると、背中を向けているマーリンの頭が、わずかにこちらを向いた。そのまましばらく対峙して、イーサンはぽつりと、相手に問いを投げかける。


「満足か? 僕から奪って」


 一歩を部屋へと踏みだし、掴んでいたドアノブを離す。後ろでバタン、と扉が閉じた。


「君はこう考えた事はないのかな? 他人から好き放題奪っていたら、いつか誰かから恨みを買うかもしれないとか、報復されるかもしれない、とかさ」

「……あなたがそれかしら?」


 イーサンは相手を睨みつける。足下の影が、怒りにゆらゆらと揺れ動き、持ち上がっていく。


「あなたはあの親子に随分と入れこんでいたものね」


 マーリンは机の上に置かれたジュエリーボックスの中にある、蝶の翅のピアスを一つ取り出した。翅は部屋の灯りにキラキラと反射して、彼女はそれを手の中で弄ぶ。ふわりと微笑んだ魔女が、こちらを振り返った。


「実に失いがいがあったでしょう?」


 部屋の一角を埋めていた影がぐんと持ち上がり、マーリンに掴みかかろうと手を伸ばした。しかし次の瞬間、部屋の灯りが煌々と光り始め、影が押し戻される。


「ウィルは僕のものじゃない。ローズの父親だったんだ……!」


 影は引かなかった。部屋全体を収縮させるような、壁の軋む音がする。マーリンの青い瞳がきらりと煌くと、部屋の灯りが一段と光を増し、ばちばちと火花を散らした。部屋の中に置かれた灯りという灯りが、眩しいくらいに一斉に輝きだす。

 しかしそれでも、イーサンの影はじりじりと部屋の床や、壁や、天井を覆っていった。牙と爪の付いた化け物の形に姿を変え、魔女の喉笛を狙って迫っていく。鋭く巨大な鉤爪が、何度も壁を引っ掻き、時に傷を付けた。影の化け物の爪の切っ先が天井の灯りに触れたその瞬間、電球が弾け飛んだ。

 途端、部屋の色が一瞬にして塗り替わり、影はその大きな手で魔女の体を捕まえた。体の形が変形するほどの力で、影はぎりぎりとマーリンの体を締めあげていく。骨が軋むほどめいっぱいの力で締め上げているというのに、それでも魔女は、笑っていた。

 イーサンはゆっくりと、魔女の方へと歩み寄っていく。そのあどけない少女の顔を見下ろした。

 この魔女が貶めてきたものは、なにもウィリアムだけではない。今見下ろしている少女の顔は、イーサンの見慣れた魔女のものではなかった。ただ気まぐれに、次はこれがいいと指さした体が、この少女のものだったに過ぎないのだ。見知らぬ子どもの小さな体を痛めつけながら、それでも彼は力を緩めなかった。


「……命乞いしないのか?」


 抵抗する様子もない相手の様子に、イーサンは問いを投げる。マーリンはただ笑って、彼を見返すだけだった。


「……この世で最も強い力の源、それを差し出せ。お前は僕らにそう言った。僕らは色んな心を集めてきた。愛も、悦楽も、悲哀も。でもそのどれもがお前の望むものではなかった」


 何故なんだ、とイーサンは問いかける。


「何故、お前は僕らを弟子にしたんだ? 可愛がるでもなく、まして恨まれるような事を進んでやった。優秀な魔法使いとして育てたくせに、その実、ギルやエリシャを手にかけて、今は二人とも安否も分からず行方不明だ」


 何故? 問いながら、イーサンはその魔女の首に手をかける。


「ウィルまで殺して、一体、何の意味があったんだ……?」

「私は、必要な事しかしていないわ」


 イーサンは魔女の目を見つめる。そこには一凪の動揺も見て取れなかった。

 それを見て、不愉快そうに眉を歪める。


「……が狙いなのか?」


 そう問うと、魔女はにっこりと笑った。


「お前の狙いは、最初から僕らだったのか? 自分の弟子達の心が、欲しかったのか? 優秀な魔法使いにして、自らを超えてくれるのを待ってた?」


 こんな絶望を味あわせてまで。感情を昂らせて、無理やりにでも魔力を増強させてまで。それを望んだ。


「お前が欲しかったのは、希望だ……」


 でも何故。イーサンはそれでも分からなかった。

 何故、それが希望になる?

 ふいに頰に指が触れて、イーサンははっと身を引いた。知らぬ間に力を緩めてしまったのか、マーリンの右腕が自由になっていて、魔女はこちらに向かって手を伸ばしていた。ぎゅっと力を籠めると、少女の肩が外れる鈍い音がする。それでも、マーリンは笑顔のままだった。


「イーサン、正解よ。約束のご褒美をあげなきゃね」


 マーリンの腕が首に回って、引き寄せようとしてくる。戸惑いに動けないイーサンに向かって、マーリンはお菓子をちらつかせるように言った。


「私の力が欲しくないの? 全部あなたのものよ。あなたの記憶も、返してあげるわよ」


 さぁ、とマーリンの顔が近づく。イーサンは警戒してさらに影の腕に力を籠めると、ゆっくり、ゆっくりと、魔女の腕の動きに従った。


「……どうして、僕だったんだ?」


 鼻が触れ合うほど顔を寄せた時、イーサンはそう呟いていた。

 道端で拾っただけの、ただの子どもだったはず。本当は自分でなくても良かったはずだ。一緒にいらっしゃいと声をかけたのも、魔法使いにしたのも、その後の修行も全部、他の誰かでも良かったはずだ。ギルバートでも、エリシャでも。

 なのに、何故?

 少しして、魔女はいつもの軽い調子ではない、静かな表情と声で言った。


「あなたは絶対に、私を許さないから」


 そのまま顔が近づいて、唇が触れる。口内に小さな舌が入り込んできて、表面を撫ぜた。ぬるりと這った舌とは違う、何かが自分を犯していくのが分かった。頭の中に、眩しい光が入りこんでくる。魔女の首にかけた指に力を籠めるが、脳を侵食するその輝きは止まろうとしなかった。

 僕の体を奪うつもりか!?

 どす黒い怒りの感情が湧き上がる。ぎり、と少女の首にかけた指に力を籠めた。

 これは、僕のものだ!!

 頭の中に広がる光に、影の化け物が覆い被さり、牙を立てる。同時に重ねた親指を、少女の喉へと突き立てた。

 その時、イーサンの目には見えなかったが、唇の感触で分かった。彼女がいつものように、意地の悪い魔女の顔で笑うのが。

 がしゃりと、少女の体が崩れ落ちる。魂の抜けた人形のように、少女の死体が足下に転がっていた。

 イーサンは足下を見下ろし、しかしその視線の先とは違う景色が、走馬灯のように目の前を駆け巡っていくのを見た。自分の知らない記憶の奔流が、脳を流れていく。


 見えたのは、色と、匂いと、音だ。

 黄金色の小麦畑。暗い洞窟に湿った匂い。

 男が見え、女が見え、大人と子どもと老人と、エリシャとギルバートが現れて、それから知らない人。人。人。

 咲き乱れる花と、それが枯れて腐る様が何度も繰り返され、目が回る。

 グラスに入ったワインが見えたかと思えば、次の瞬間にはゴミの浮く泥水に変わり、店の軒先で膝を抱える子どもが見えた。

 デスクの上に本が山のように積み上がっていき、減って、そしてまた積み上がっていく。

 クローゼットにかけられた青のドレス、黒のドレス、赤のドレス。

 赤い血。赤い血。赤い血――。


 あぁ、とイーサンは頭を抱え、膝を付いた。

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