第五話 迎えが来たよ


 ベビーシッターから半泣きと激怒のクレーム電話をもらったのはつい先頃。娘を家に一人残したまま帰るという彼女をなんとか宥めようとするも、通話は途中で切れてしまった。すぐに家の電話にかけてみるが、いくら鳴らしても娘が出ない。嫌な予感が様々浮かび、ウィリアムは上司に事情を説明して早退する事を告げると、取って返して転げ落ちる勢いで慌てて会社から飛び出した。

 会社から出た所でもう一度家に電話するも、相変わらず誰も出ない。こんな時ほど、頼れる身内がいない自分の境遇を呪う事はない。道路を挟んだ通りの向こうに家方面へ向かうバスを見つけ、慌てて通りを渡ろうとしたその時、目の前すれすれを巨大なトラックが横切った。きゅうと心臓が凍りつく。轟音と共に巨体が通り過ぎていき、その後どっと脂汗が吹きだしてきた。


「あぁ、くそっ!」


 娘の前では絶対に口にしない悪態が口をついて出る。オフィス街のバス停横にある大きな通りだ。ちんたら走るバスに先に行かれたくないのか、運転の粗い運送業者が多い。さらに最悪な事に、目の前でバスが行ってしまった。

 仕方なしに走っているタクシーを、進路を塞ぐように半ば強引に止める。後続車にクラクションを鳴らされるが、気にしている余裕などない。扉が閉まりきるのも待たず、ウィリアムは運転手を怒鳴りつけた。


「俺の小さな娘が家で一人で待ってるんだ! 急いでくれ!」


 ウィリアムは自宅のアパートに帰ってくると、三階までの階段を一気に駆け上がった。三十半ばも過ぎると、これしきの事でこんなにも息が上がる。切れ切れになった息も落ちつけぬまま、急いで家の玄関を開けた。


「ローズ!」


 おかえりなさい!と笑顔の天使が迎えてくれるのを期待するが、部屋はしんと静まり返って人の気配がない。部屋を見てまわりながら娘の名前を呼び続けるが、何の返事もない。トイレや風呂場も覗くが、小さな姿はどこにもなかった。


「あぁ、ローズ……!」


 ウィリアムはへなへなとその場に頽れる。かくれんぼしてたの!と物陰から現れてはくれないかと淡い期待を抱くが、四方から迫ってくる静寂という不安が、そんな楽観的な幻想を見続けさせてはくれなかった。

 一体どこに。いつからいないんだ? どうしたら。数十分前まではいたんだ、きっと。ベビーシッターを追って外に出たのか? また電話をかけるべきか? それとも家に一人になって、俺の会社に来ようとした可能性は? 仕事場にも電話を。いや、それよりもまずは警察に。

 急いで携帯を取り出し、110を入力。通話ボタンを押そうとしたその時、天井から物音がした。次いで聞こえた、壁を隔ててくぐもった小さな悲鳴。その声を聞くや、ウィリアムは弾かれたように玄関へ走りだした。


「ローズ!!」


 上階へと駆け上がれば、身に覚えのない部屋の扉があった。確かここは倉庫だったはず。大家はいつの間に改装を? 疑問は一瞬だけで、体が先にインターホンを押していた。


「すみません! 娘がそこにいませんか!?」


 また中からどたんばたんと音がして、聞き覚えのある少女の声がする。ウィリアムは気が気じゃなく、家主の返答も待たずにドアノブを捻った。

 見えたのは深紅の廊下。その先に黒いスーツの男が立っていて、娘の腕を掴んでいた。それを目にした瞬間、カッと目の前が真っ白になった。


「おい、俺の娘に何してる!!」


 肩をいからせてウィリアムが廊下を進んでいく。黒スーツの男、イーサンはちらと視線を寄越すと、手近の扉をノックした。


「エリシャ、迎えが来たよ。

「娘に触るな!!」


 ウィリアムが声を荒げると、イーサンはぱっと手を離し、笑顔を作って彼に向き直った。解放されたローズが駆け出し、ウィリアムの足へとすがりついてくる。その小さな体をしっかと抱きとめた。


「やぁ、こんばんは。ローズのパパだね。君は何か誤解しているようだ」

「娘の悲鳴を聞いた! この子に一体何をした!?」

「ただ遊んでいて、それがヒートアップしてしまっただけだよ。一人でアパートの前に座りこんでいたものだから、心配で声をかけた。パパが迎えに来るまで面倒を見ていただけだよ」

「本当か? ローズ」


 ウィリアムは足にすがりつく娘に尋ねるが、しかしローズは口をしっかと引き結んで黙りこんでいる。


「どうした、黙ってちゃ分からないだろう? この男に何か怖い事をされたんじゃないのか!?」


 ローズは必死な目でウィリアムを見上げているが、しかし、やはり何も言わなかった。そうこうしている間に、先ほどイーサンがノックをした扉から銀髪の男が出てきた。目つきの鋭い男で、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。


「子どもの金切り声に、それから怒声。お前が連れてくるのはやかましい奴らばかりだな、イーサン。おいギル、お客人だ。


 銀髪の男、エリシャは廊下に向かってそう声を上げた。その声に反応するように、廊下の扉の一つから返事だけが返ってくる。ウィリアムはぎゅっとローズの肩を抱くと、視線の先にいる男二人を睨みつけた。


「いいや、これで失礼する! 娘に話を聞いて、それから事情を説明してもらう。悪いが警察も呼ばせてもらうぞ」

「いや、今説明しよう」


 イーサンは一歩を踏み出し二人に近付くが、ウィリアムは娘の体ごと、玄関の方へと一歩をさがる。


「娘の話を聞くのが先だ。やましい所がないなら、あとで釈明すればいいだろう」


 イーサンはそれ以上進むのをやめ、ビロードの絨毯が敷かれた床を見つめた。何度か小さく頷くと、納得したというようにウィリアムに笑顔を向ける。


「分かった。あとで説明させてもらうとしよう」


 じゃあ、とイーサンは姿勢を正すと、ウィリアムへと丁寧なお辞儀をした。


「身元だけでも証明しておこうか。僕はイーサン・ハート。最近ここに越してきた、君らのご近所さんだ。そしてこっちが、」


 イーサンは傍らに立つ銀髪の青年を指さした。


「エリシャ・ソロウ。目の色がちょっと変わってるが、これは生まれつきでね」


 言われるまま、ウィリアムがエリシャの目を見たその時だった。

 おかしな感覚がした。まるで胸倉を掴まれて引き寄せられたようだった。しかしエリシャとの距離は十分に取っていたし、実際には誰もウィリアムの胸倉を掴んでなどいない。赤黒の瞳は確かに珍しい色だが、不躾にじろじろと見てしまうほど好奇心を抑えられない人間でもない。なのに何故か、その赤黒の瞳から目が離せないのだ。

 気付いた時には体も動かせなかった。ただ赤黒の瞳に意識が吸い寄せられ、それ以外の感覚が希薄になってしまう。なんだ、何が起きてる? ウィリアムの頭は混乱で爆発寸前だった。

 いつでも警察にかけられるようポケットの中で握りしめていた携帯も、あともう一押しするだけの、その指が動かない。かろうじて動かせたのは、唇だけだ。


「ローズ、逃げろ……。助けを呼ぶんだ……!」


 しかしローズはウィリアムの足にしがみついたままだった。その場を動けないウィリアムは気付いていなかったが、もう深紅の廊下に逃げだせる扉など存在しなかったのだ。

 手前の扉が開き、誰かがそこから出てくる気配だけをウィリアムは感じた。近付いてくる足音を、エリシャが一声で制止する。


「まだだ、これは俺が頂く。取ってからにしろ」


 エリシャはポケットに手を突っ込むと、そのままゆっくりと廊下を進んでくる。足元でズボンを握り締めているローズの手に、力がこめられるのが分かった。エリシャがポケットから手を出して、そのまま持ち上げる。赤黒の瞳から逸らせない視界の隅にも、その手に何か光る物が握られているのが分かった。


「やめろ、来るな……!」


 制止するための腕さえも上がらない。だんだんと粗くなる呼吸。ばくばくと血が逆流し、毛穴から汗が吹き出してくる。


「何するつもりだ!? やめろ! やめろ……!!」


 ふいに足下にあった感覚が消え失せた。同時に娘が嫌がる声が聞こえ、視界の外にいる人物がローズを自分から引き剥がしたのだと理解し、ウィリアムは怒りに震える。


「やめろ! 娘を離せ! 何する気だ!? やめてくれ!!」

「やめて! パパに何するの!?」


 ローズ、ちゃんと喋れたのか、と一瞬の安堵も束の間、視界を埋める男が眼前に迫っていた。奴の持つ光る何かは視界の端に消えていき、頭の横に添えられる。ウィリアムはナイフを突きつけられているものと思い、ばくばくとうるさい自分の心臓の音を聞いた。


「頼む……娘だけは、助けてくれ……!」


 震える口で、そう懇願する。こちらを見下ろす赤黒の瞳はひたりと冷たく、そしてどこか満足そうだった。


「いい具合だ」


 かちり、と音がした。

 その後にくる衝撃を覚悟したが、しかしエリシャはそのまま腕を下ろし、またゆっくりと後退していく。助かったのか?と安堵するも、いまだ体は動かない。ふいに背中をポンと叩かれ、またウィリアムの心臓がうるさく跳ねた。


「まぁまぁ、パパさん。ここはひとつ落ち着いて。誰もパパさんや大事な娘ちゃんを傷つける気なんてありませんよ? ただちょーっと誤解があっただけで」


 背後からそう陽気な声がする。同時に甘い草の香りも。花束の中に顔を突っこんだような強い芳香だ。でも街中では嗅いだことのない、不思議な香り。


「行き違いを正さないとね。ほら、肩の力を抜いて。そうガチガチに緊張してちゃ、体が固まって動けないでしょう?」

「これが、緊張のせいだと……!?」

「そうですよ。ローズがはしゃいで大声を上げたのを、パパさんが悲鳴だと勘違いしたんです。ローズは進んでこの家に来たんですよ。イーサンに懐いて、ただ遊んでいただけだ」

「俺が聞いたのは確かにあの子の悲鳴で……!」


 背後の男がぐっと身を寄せてくる。甘い香りがむせかえりそうなほど強くなり、同時に、ぐらりと視界が揺れた。漂ってくる甘い匂いを嗅いでいると、頭がぼんやりとしてくる。


「ただ遊んでいたんですよ。ローズは楽しくなって騒いでいただけ」

「そんなはずは……! いや、そう、だったか……?」

「えぇ、この家を大層気に入って。ここには目新しい物が多いですからね」

「ただ騒いでいただけ……」

「そう。アパートの前に一人で座っていたのを心配して、イーサンが声をかけた。パパさんが帰ってくるまでお茶して、話して、遊んでいただけだ」

「遊んでいただけ……」


 視界はもやがかかったように白くかすんで、思考はふやけたシリアルみたいになっていく。耳元で囁かれる言葉が脳を揺らし、甘い香りにウィリアムはだんだんと気持ちが良くなってきた。だらりと表情が弛緩して、夢見心地な気分でふわふわと体が弾む。良い香りだな、これは何という植物だろうか?


「わたしは――!!」


 ローズが何かを言おうとしたが、しかし途中でぴたりとその言葉は途切れてしまった。娘の方へと目をやると、口を引き結んだローズが金髪の男の腕に抱き留められている。あぁ、いつの間にか緊張もほぐれたようだ。動くようになった体をゆらりと揺らし、ウィリアムは金髪の男、ギルバートの方へと向き直った。男の手には小瓶も握られていて、中に樹脂が固められたような物が入っている。


「あぁ、娘を、預かって……? 助かりました。ご迷惑をおかけしませんでしたか?」

「いやいや、全然。楽しい時間を過ごせましたよ」

「パパ!?」


 ローズが驚きの表情でウィリアムを見上げた。それに首を傾げつつも、ローズが一人で過ごしていた訳ではなかったようだと分かり、ウィリアムはほっと胸をなでおろす。ふと自分が深紅の廊下に突っ立っている事実に気付き、ウィリアムは自分の頭を掻いた。


「あれ? 俺、いつの間に人様の家の中に……? えぇっと、どうもすみません」


 恐縮した様子で頭を掻く男に、イーサンが歩み寄ってきてまた笑顔を浮かべる。


「娘さんが一人だと思って、慌てて会社から帰ってきたんでしょう? 無我夢中だったでしょうから、無理もない」

「いや、本当に申し訳ない」

「いえいえ、ご近所なんですから。どうぞ気にしないで」


 気付けば廊下に居合わせた三人の男の顔は、どれもこれも美形ぞろい。ピシッとしたスーツや手触りの良さそうなブラウスを着こなし、背筋もまっすぐ伸びて堂々とした佇まいだ。長い髪もよく手入れされており、粗雑な自分ではこんな綺麗な状態をキープできないだろう。対して自分はというと、育児と仕事のダブルワークで肌はかさつき、数年前に買ったスーツは着潰してよれよれで、最近白髪を発見する事が増えてきたダークブラウンの髪は、今朝寝ぐせを直すために付けた整髪剤の効力も消え失せ、今は鳥の巣のような有様になっている。同じ男でもここまで違うのか、とウィリアムは半ば呆然と男達を見つめた。

 ギルバートの腕から抜けでたローズが、ウィリアムの袖を引く。


「パパ!」

「あ? あぁ、ローズ……」


 そうだ。それより何より、こっちの方がずっと大事なことじゃないか。ローズの肩をつかまえ、ウィリアムは娘に問いただした。


「ローズ、どうして家にいないんだ? 電話で、ラウラはかんかんだったぞ。ベビーシッターの言う事をちゃんと聞かないとダメじゃないか!」


 そう言うと、ローズは途端にむにゃむにゃと口を動かし、何やら聞き取りずらい言葉を並べたて始める。


「言い訳してもダメだぞ。イタズラで済むような事じゃない。ちゃんと分かってるのか?」

「ちょっといいかな。えーと……」


 ふいにイーサンが割って入り、話が中断された。ウィリアムは屈めていた腰を戻し、男の方へと向き直る。


「ウィリアムだ。ウィリアム・ハット」

「ハットさん、ベビーシッターの話ならさっき僕が聞きましたよ。もう十分に反省しているようだし、ローズにもわけがあってやった事みたいだから、あまり怒らないであげてください」

「わけ?」

「えぇ、ローズはご両親を侮辱されたと感じたようで。あなたの用意した食事が拙い物だと言われたのが悲しかったようです。あとは、ベビーシッターが母親に見間違われるのが嫌だったようですよ」

「……そう、だったのか」


 途端、ウィリアムは荒げていた声音を落ち着け、娘を見下ろす。そう言われてしまっては、どうにも叱りづらい。


「そろそろ夕飯の時間だし、またゆっくりと話をする機会を作っては?」

「……そうですね。本当に、今日はお世話をかけました。このお礼はまた後日、きちんとさせてください」

「いえいえ、本当に気にしないで」


 ウィリアムは三方にそれぞれ礼を言うと、ローズの背中を押して玄関へと向かった。廊下にいた三人の内、イーサンだけが玄関まで付いてきて見送りをしてくれる。


「ハットさん」

「ウィリアムだ。ご近所だし、ウィルでいいよ」

「じゃあ、ウィル。こんな自己紹介で申し訳なかったけど、どうぞこれからよろしく。また何かあれば、いつでも言ってくれ。僕らにできる事があるなら力になるから」

「心強いよ。なにぶん、頼れる身内がいなくてね。こちらこそ、何か要望があれば気兼ねなく言ってくれ」

「そうさせてもらうよ」


 イーサンはにっこりと嬉しそうに笑い、次いでローズの方へと視線を向ける。ウィリアムは、今日のお礼を言うよう娘をせっつくが、ローズは口を引き結んでじっとイーサンを見つめるだけだった。


「ローズ、また遊びにおいで」


 イーサンは扉の影から手を振ると、ウィリアムに意味深な視線を投げ、そうして扉の向こうへと消えていった。

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