妖花の魔女より、もうどこにもいない君へ

染井由乃

序章 12歳の聖女

「お前のその聖女の力、わたくしが代わりに使ってあげるわ」

 

 王女さまと出会った日のことは、今もよく覚えている。あれは、私が12歳になった直後のことだった。


 この王国ファーロスには、いつでもたったひとりだけ聖女が存在する。聖女は祈りの歌を歌うことで王国の加護を強め、歌声で聖花を咲かせる奇跡の存在だ。


 先代の聖女が病を得たこのころ、誰もが次代の聖女が現れるのを心待ちにしていた。


 私が聖女の力を持っていることに気づいたのは、十二歳の誕生日の朝だ。いつものように、伯爵邸に併設されている礼拝堂で祈りの歌を捧げているときに、それは起こった。


「――え?」


 祭壇の上に敷き詰められていた花たちが、突然に煌めき始めたのだ。よく見れば、白く淡い光が花びらにまとわりついているようにも見える。蕾は瞬く間に満開の花を咲かせ、礼拝堂の中は甘い花の香りでいっぱいになった。


「ジ、ゼル……?」


 遅れて入ってきたお義兄さまとお父さまの声が、ほとんど同時に投げかけられた。花を咲かせる場面を、二人は目撃したのだろう。


「お父さま、お義兄さま……これ、なに……?」

 

 得体の知れぬ現象を前に、思わず涙目になってしまう。お父さまは私のもとへかけよると、何も言わずに抱きしめてくれた。お義兄さまは少し離れたところから、ただ呆然と私のことを眺めていた。


 私が祈りの歌で聖花を咲かせたその日、国じゅうの民から慕われていた心優しい聖女が亡くなった。


 それとほとんど時を同じくして、私が祈りの歌で花を咲かせた事実は、伯爵であるお父さまから王室付きの神官に速やかに伝えられ、その三日後には王宮へ召集がかかったのだ。


「ジゼル・メルエーレ。お前は聖女の力を発現したそうだな」


 国王陛下からの直々のお言葉に、当時十二歳の私は今にも倒れそうなほど緊張していた。お父さまに促されて、ぎこちなく頭を下げたまま受け応える。


「恐れながら国王陛下、その通りでございます」


 神官とお父さまに言われた通りの言葉を返せば、国王ははっ、と鼻で笑った。


「このような控えめな令嬢が聖女とはな。すこしばかり華が足りん。我が姫の方がよほどふさわしい。そう思わんかね? 伯爵」


 お父さまは頭を下げたまま、一瞬だけ視線を泳がせて、すぐに返答した。


「おっしゃる通り、ジゼルはまだ幼く、至らぬ部分が目立つでしょう。聖女の名にふさわしい、優雅な令嬢に育て上げなければなりません」


「いや、その必要はない」


 王は、きっぱりと言い切ると、そばに控えていた従者に何やら耳打ちをした。


「面をあげよ」


 王の言葉に、ようやく私たちは顔を上げた。視線は伏せたままなので王の表情はよくわからなかったが、あまり好意的な感情を向けられていないことだけはわかる。


「ところで伯爵、これが何かわかるかな」


 笑うような王の声とともに、従者がどこからか大きな麻袋を運び込んできて、私たちの前に乱雑に投げ出した。ゆるく閉じられた袋の口から、柔らかなすみれ色の花が覗く。


「っ――これ、は」


 お父さまは一目でこれが何かわかったようだった。私も同様だ。


 それは、病弱な妹フローラの治療薬に使われる貴重な薬草だった。王国では自生しておらず、遠く離れた異国の地から長い旅路を経てようやく王国に輸入されるものだった。


 妹は、この薬草がないと生きていけない。薬を飲まなければ、一週間ほどで体が動かなくなってしまう恐ろしい病にかかっているのだ。お母様も、フローラと同じ病で亡くなった。


 この病気に苦しんでいる人は、王国中にいる。貴重な薬草は大変高価で、貴族でなければまず手に入らない代物だった。


 お父さまは、欠かさずこの薬草を入手していた。幸い、我がメルエーレ伯爵家の懐には余裕がある。お金に物を言わせて、と言ってしまえば聞こえが悪いが、お母さまを救えなかった分を取り戻すかのように、お父さまは愛するフローラのために薬草を買い続けていた。


 その薬草が、麻袋ひとつぶん集まっているところなんて初めて見た。小さな子供ならば覆い隠せてしまいそうなほどの麻袋に詰まったこの薬草は、売れば王都に大きな屋敷が立つだろう。


 しかし、王国に一度に輸入される量は、せいぜいこのくらいが関の山だと聞いている。こんなふうにひとところに集めてしまっては、フローラと同じ病に苦しむ人々が困ってしまうのではないだろうか。


 お父さまも同じ懸念を覚えたのか、戸惑うように王に視線を向ける。それを待っていたと言わんばかりに、王は口角を釣り上げた。


「伯爵、余は国内にあるこの薬草をすべて買い占めたのだ。姫がこの花が美しいと褒めておったのでな」


「っ恐れながら陛下、そのようなことをなさっては、例の病に苦しむ人々が――」


「――確か、体が動かなくなってまもなく絶命してしまうのだったか? 哀れなことよ」


 言葉とは裏腹に、人の命を微塵も気にかけていない冷え切った声に、ぞわりと寒気が肌を這う。けれど有無を言わせないような威圧感も確かに伴っていて、十二歳の私にはとても言葉が出てこない。


「陛下、どうか……どうかご慈悲を。病に苦しむ者たちを、お見捨てなさらないでください」


「必死なものよ。……無理もない。娘の命がかかっているのだからな」


 王はくつくつと笑い、そうして濁った目で私を見据えた。


「建国以来王家に仕え続けてきた忠臣メルエーレ伯爵の嘆願だ。この薬草を譲ってやってもいい。他の者たちに配っても構わないぞ。もっとも――」


 王は、ここで初めて玉座からわずかに身を乗り出して、当然のように言い放った。


「――そなたの娘が授かった聖女の名誉を、我が娘に譲る気があれば、の話だが」


「――っ!」


 お父さまが息を呑むと同時に、背後で重たい扉が開く音がする。従者らしき男性の声が「王女クラウディアさまのお越しです」と高らかに知らせた。


「お父さま、お呼びですか?」


 背後から、鈴を転がすような可憐な声が近づいてくる。


「おお、来たか、クラウディアよ。こちらへ来い」


 上機嫌な王の声に従って、ぱたぱたと可愛らしい足音が駆け寄ってきた。


 まもなく、伏せた視界の中に華やかな桃色のドレスの裾が映り込んだ。金糸がびっしりと縫い込まれた、見るからに豪奢な衣装だ。王の掌中の珠、クラウディア王女がいらしたのだ。


「お父さま、この者たちは?」


「お前に、誕生日の贈り物を献上したいそうだ。お前ももうすぐ十二歳だろう? 何か特別なものが欲しいと言っていたな」


「まあ、何かしら?」


 ころころと鈴を転がすような声で、王女ははしゃいでいた。隣に並び立ったお父さまが、耐えきれないと言わんばかりに顔を上げ、直訴する。


「陛下、まさか、そのような――」


「――もうひとりの娘の命が惜しくないのか? 見かけによらず冷酷な父親よ。……おい、そこの者、火は持ってきたか」


「は、ご用意してございます」


 豪奢な衣装を纏った王の臣下が、昼間だというのにランタンを掲げて麻袋のそばに近づいてきた。ランタンを落とせば、たちまち麻袋の中身に火がついてしまいそうな距離だ。


「だ、だめ――!」


 気づいたときには声をあげていた。謁見室にいるすべての人の視線が注がれるのがわかったが、それに怯んでいる場合ではない。


 慌てて麻袋に駆け寄って、庇うように薬草を抱きしめる。


 王は国内にある薬草をすべて買い占めたと言っていた。この薬草を輸入するには、どんなに早くても一月はかかる。これが燃えてしまったら、病に苦しむ人々は――フローラは、助からなくなってしまうのだ。


「おお、おお。メルエーレ伯爵令嬢は床に這いつくばる趣味があるようだの」


「ジゼル! 危ないから離れなさい」


 お父さまの声に、ふるふると首を横に振った。ここで袋を手放してしまったら、本当に燃やされてしまいそうな気がする。それは、フローラの命を手放すのと同義だ。そんなのは絶対に嫌だ。


「お父さま、なんですか、あの子。変なの」


 クラウディア王女が奇怪な虫でも見たような目で私を見下ろしていた。わずかながらに育っていた伯爵令嬢としての誇りにひびが入るのがわかったが、そんなことには構っていられない。


 ――王さまは、この薬草をお譲りくださるとおっしゃっていたわ。……私に、聖女の名誉を手放す気があるのなら。


 うずくまったまま、ぐ、と覚悟を決める。張り詰めた沈黙が、私の言葉を待っていた。


 ふらふらと立ち上がり、家庭教師から習ったばかりの淑女の礼をする。王の前でこの礼を披露するときは、どんなに気持ちが昂るだろうと期待していたのに、現実はこんなにも残酷だ。


「……クラウディア王女さま。私は、メルエーレ伯爵家の長女、ジゼルと申します。この度、女神メルより聖女の力を授かりましたので、この力を王女さまのお役に立てていただければ光栄でございます」


「ジゼル……!」


 寄り添うように並び立ったお父さまの肩は僅かに震えていた。怒りか、屈辱か、はっきりしたところはわからないが愉快な気持ちでないことは確かだ。


 それだけ、私のことを思いやってくれたのだろう。聖女として皆に慕われるはずだった私の未来を、王女に譲り渡すことに躊躇いを覚えてくれているのだろう。その心配りが申し訳なくて、俯いたまま曖昧な笑みを浮かべた。


「そうこなくてはな」


 王が、勝ち誇ったようにふっと頬を緩めるのがわかった。当の王女さまは、状況が理解できていないのか甘えるように王の腕にまとわりついている。


「……どういうことー? お父さま」


 王女は、愛らしい声で父王に問いかける。


「この者はな、お前を聖女にしたいと申しておるのだ。民や神殿には、お前が聖女だと公表しよう。聖女の面倒な仕事や祈りはこの者に任せ、お前はただ、皆から大切に崇められているだけでいいのだよ」


 王は、聞いたこともないほど上機嫌な声音で告げた。溺愛する姫の喜ぶ顔が見たくてたまらないのだろう。


「ふうん? なんだかよくわからないけれど、わたくしが次の聖女さまになれるってこと?」


「その通りだ、クラウディア。お前が姿を見せるだけで、皆がお前を賞賛するぞ」


「そこの……えっと、ジル? だったかしら、顔を上げなさい」


 普段穏やかなお父さまの纏う空気がいっそう厳しくなったのを感じたが、素直に顔を上げた。


 そこには、王と同じ黄金色の髪をゆったりと下ろした、まるでお人形のように可愛らしいお姫さまがいた。


 王女は、しばし私を値踏みするように見つめた後、ぷっと吹き出すように笑った。


「確かに、お前って聖女さまって柄じゃないわね。ぜんぜん綺麗じゃないもの。これなら確かに、私が聖女さまになったほうがみんな喜ぶわ。聖女さまってやっぱり、綺麗じゃなくちゃ」


 王女はくすくすと笑うと、王族特有の空色の瞳で私を射抜いた。


「お前のその聖女の力、わたくしが代わりに使ってあげるわ。光栄に思いなさい」


 一瞬だけ、胸に去来した虚しさをなんと表現すればいいだろう。そのすべてを飲み込んで、私は微笑みを浮かべて膝を折った。


「はい。王女さま。……私には、身に余る光栄にございます」


「物分かりのいい娘だ。……伯爵、その薬草は好きに使うといい」


 ランタンを持っていた従者が、薬草の詰まった麻袋をお父さまの前に投げつけた。お父さまは震える手でそれを拾い上げ、今にも泣き出しそうな目で私を見る。


 それに応えるように、私は首を小さく振りながら微笑みを浮かべた。これで、フローラや彼女と同じ病に苦しむ人々の命を繋げるなら構わない。


「……ふん、聖女の力を発現しただけはある。ずいぶん慈悲深いらしいな」


 王は、そのやりとりを見ていたのだろう。どこか苛立ったように息をついて、終わったかと思われた会話を再開させた。


「……この娘を、このまま野放しにしておくのは厄介かもしれぬな」


「っ陛下、ジゼルには、よく言い聞かせますから、どうかこれ以上は――」


 その瞬間、王は玉座から立ち上がり、名案を思いついたとばかりに顔を輝かせた。


 そして、大きな宝石のはめ込まれた杖の先で、私を指して宣言する。


「そうだ、この娘を『妖花の魔女』として公表しよう。さすればだれも、この者が聖女だとは思うまい」


 妖花の魔女。それは、毒を帯びた妖花を咲かせる娘に与えられる忌まわしき蔑称だった。妖花を咲かせる者は魔女の生まれ変わりとも言われ、人々を惑わせて死に誘う大罪人だと伝えられている。聖女とは正反対の、恐ろしい存在だ。


「私が、妖花の魔女……?」


 伝承を深く知らない私でも、恐ろしいことを言われているのだとわかった。聖女として公に立つ資格を奪われただけでなく、まさか、魔女と呼ばれるようになるなんて。


「お前はこれから、黒いドレスだけを纏い、魔女として暮らすのだ。そしてクラウディアの代わりに、巡礼の森で祈りの歌を歌い続けろ。言いつけを破れば、国中の薬草を燃やすぞ」


「黙って聞いていれば、先ほどから何を――!」


 ついに声を荒げたお父さまに、控えていた従者たちが掴みかかる。瞬く間に床に取り押さえられたお父さまは、すぐに身動きが取れなくなってしまった。


「お父さま――」


 駆けつける暇もなく、謁見室に、ぼきり、と鈍い音が響いた。


「っああああああ!」


「お父さま……!?」


 慌ててお父さまの元へ駆け寄れば、お父さまは左足を押さえてうずくまっていた。長い足が、妙な方向に曲がっている。従者は私が駆けつけたことで一旦お父さまから離れ、王の次の命令を待っていた。


「あははは! お父さま! お聞きになって? とっても変な音がしたわ!」


「老年に片足を突っ込んでいる伯爵の足だから大した音ではなかっただろう。健康な青年の足を折るときはもっと軽快だぞ」


「そうなの? 聞いてみたい!」


 残酷な王と王女の会話を聞き流しながら、私はお父さまに縋りついた。お父さまのこめかみには脂汗が浮かんでおり、よく見れば小刻みに肩が震えている。


 叫んだのは骨が折れた瞬間の一度きりで、今は私を怯えさせまいとするかのように唇をかみしめて耐えていた。


 その姿に、ぼろぼろと涙が溢れてくる。悲しいとか悔しいとか、明確な理由はわからないままにただ涙だけがこぼれ落ちる。


「伯爵、そなたほど賢い人間が余に口ごたえするとはな。……さて、今一度命じよう。そなたの娘、ジゼル・メルエーレを妖花の魔女として公表する。いいな?」


「っ――!」


「承知、いたしました……! 承知いたしましたから、陛下、どうか……お父さまをお許しください。お願いです……!」


 涙でぐしゃぐしゃになりながら、私は叫んだ。お父さまがわずかに身じろぎをしたが、それを封じるようにぎゅっと抱きつけば、お父さまが震える手で私を抱き寄せてくれた。


「つくづく、物分かりのいい娘だ。扱いやすくて助かるぞ」


 王は満足げに笑うと、丁重な仕草で姫を抱き上げ、謁見室から出ていった。はしゃぐような姫の笑い声だけが高らかに響く。従者たちも、ふたりのすぐ後ろを黙ってついていった。


 後に残されたのは、中身が飛び出た薬草の麻袋と、足の折れたお父さま、そして妖花の魔女の烙印を押された私だけ。


「お父さま……!」


「ジゼル、すまない……こんな、不甲斐ない父で」


 そんなことは絶対にない。おかしいのは、王のほうだとわかっていた。


 それでも、これからのことを思えば身がすくむ。伯爵令嬢として何不自由なく生きてきた私の日常は、がらりと変わってしまうのではないだろうか。


 ……私は、これからどうなるの? お友だちは? フローラは? 婚約を結んだばかりのあのひとは? お義兄様は? 今まで通り、私と仲良くしてくれるの?


 その答えは、まもなく残酷な現実となって目の前に突きつけられることを、このときの私はまだわかっていなかった。

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