Soyez les bienvenus露の都の慈姑姫

水原麻以

ヴァンパイア・デストロイア

■少年狙撃兵カシマ




見上げると、原色に濃く染まった高空に乳白色の引っ掻き傷が出来ていた。

重哲学軍の少年情報将校、加島遼平(かしまりょうへい)は重いボース=アインシュタイン凝縮砲を傍らに置いて、乱れた呼吸を整えた。


ここまで登ってくれば、少しは攻撃準備に十分な時間が稼げる。何しろ奴らは吸血鬼の癖にまともに空を飛べないのだから。


ずしりとした肩の荷を降ろすと、いぶし銀の量子観測砲弾が地面にごろんと転がった。


つま先で弾頭をけると、グリーンのランプが心細げに点滅する。この中には、ミクロの量子力学の世界を直径一ミリという肉眼で見えるレベルにまで拡張するボース=アインシュタイン凝縮されたナトリウムが封入されている。


この宇宙には客観的な事実など何一つなくて、すべての現象は確率で論じることしか出来ない。


そして、結果は観測した者の解釈によってどうにでも左右される不確定性原理によって支配されているという。幸いなことにこのトンでもない不文律も量子のレベルに限って顕著になるから、我々の実社会が覆ることはない。


だが、ボース=アインシュタイン凝縮弾はこれをマクロの世界にまで拡張したのだ。


遼平には、この馬鹿げたルールが心底憎らしかった。認識が力を持ち、宇宙を支配するならば、なぜ自分の意思で妹を救うことが出来なかったのか。自分の認識力が足りなかったばかりに彼女を喪ってしまったというのか。


あれから1週間がたつ。

ユズハは養護学校から帰宅する途中だった。

濃紺のセーラー服が全身から青白く輝く初々しさを放つ、車椅子に乗っているという点を除けば非の打ち所の無い女子高生だった。



ゴーゴニック症候群は生まれつきの遺伝病で、成長とともに身体の自由を奪う難病だ。彼女はいつも病床で量子論の教科書を片手に笑顔を振りまいていた。この世には確率100%ということはありえない。


だから、自分の病気は必ず治らないということは無い、と明るくほほえんでみせたのだ。その不確定だが希望を含んだ未来を、吸血鬼どもが決定付けた。



あろうことか、車椅子を押していたボランティアの女が突然、ユズハの喉元に齧り付いた。観測ライフルで武装した衛生兵が手厚くガードしていたのに。


確率変数が荒れ狂うこの世界で、一般の女性がとつぜん吸血鬼になる確率は三千万分の一以下と見積もられていた。



厳格にそういった可能性を考慮した上の人選だった。



それにも関わらず、確率の波はユズハを三途の川に押し流した。死因は突発的外傷性ショックによる心停止。即死だった。


衛生兵が量子手榴弾を女に投げつけて、処置している前にユズハは逝ってしまった。


享年16歳。



その頃、吸血鬼と化した暴徒が自宅付近に放火した。火はたちまち街中に燃え広がり、何百人もの命が奪われた。遼平は確率論に負けた。健康な人間が牙を生やし、何の根拠もなく他人の血を吸うというあまりに突飛な可能性に。ゼロでは無い。


ありえないと一笑に付すことが出来るほどに小さいだけなのだ。


日ごろ、侮蔑され、虐げられていた虚構が日常に反逆したのだ。常識とは何だろう。安定したルールが未来永劫に存在すること自体が虚構ではないのか。冗談が支配権を確立すれば、それが既存の常識に取って代わる。


だったら、ユズハの人生もまた虚構だったのだろうか。


しかし、遼平の背嚢には、彼女の唯一の遺品である着衣が大切にしまってあった。


ユズハのセーラー服、車椅子に乗り降りする際の覗き見防止のためにスカートの下に履いていたブルーマーと純白の体操着、プールでリハビリするためと洗濯物を減らすために、下着代わりにいつもつけていたビキニのブラとショーツ。



クロッチの部分がかすかに変色したアンダースイムショーツ。その一つ一つに染み付いた汚れがユズハが生存した証だった。


虚構への復讐。その一心で遼平は重哲学軍の即応部隊に志願した。


いま、量子レベルの確率論をマクロのレベルへ拡大する恐るべきボース=ノヴァ爆弾が砲弾の中で暴れだす時を待っている。


遼平は丘の麓をぐるりと取り巻いた吸血鬼の群れに狙いを定めた。


彼らのコウモリに似た翼は未熟なゆえに、急斜面をびっしりと覆う潅木を越えてくることは出来ない。



あえてこちらへ侵攻しようものなら、小枝で肌を傷つけたり、害虫に刺されたりする恐れがある。


そうなれば傷口から漏れるわずかな血潮が引き金となって、たちまち共食いが始まるのだ。だから、彼らは慎重に様子を伺っている。こちらが力尽きるまで持久戦の構えだ。だが、遼平には事態を大きく打開する可能性を手にしている。


はっとして遼平は我に返る。物思いや一瞬の躊躇が命取りになる。虚構の中の難敵たちは、せっかく主人公を追い詰めておきながら、雄大に弁舌をふるって、自滅していくではないか。


精密な照準を確定せずに、一気にトリガーを引く。敵の頭上に広がる巨大な確率の波紋は、些細な誤差など飲み込んでしまう。吸血鬼がこの星に君臨するなどというイカレた可能性を瞬時にリセットしてくれる。


みあげると、また白い引っ掻き傷が今度は孤を描いていた。遼平の攻撃を合図に、戦略創造軍のプラネットボンバーによる大規模な量子空爆がスタートする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る