四章―鬼― 5

 軟禁状態のまま、二日が過ぎた。


 一日に一度、簡素な食事が運ばれてくるだけ。見張りがいるせいで、紫檀も紫苑も外に出られず、何も外のことが分からない。紹子のことを知りたくても、どうにも出来なかった。

 菫子は、食事を全く取っていない。このまま食べずにいれば、儚くなっていける。紫檀も紫苑も心配そうに見てくるが、何も言っては来ない。


 昼過ぎになって、窓から入る日差しが暖かくて、外は心地いいのだろうな、とぼんやり考えていた。ふいに、何やら外が賑やかになった。不穏な雰囲気ではなかったが、菫子はそっと戸を薄く開けて外の様子を窺った。賑やかな空気の中心には、一人の女房がいた。大きめの籠を抱えて、役人たちを集めている。花橘の着物の後ろ姿は紹子に見える。


「差し入れやよー、皆さんどうぞ」

「いや、でも今は任務中で」

「お仕事を頑張っている人たちにって、中宮様から預かってきたんよ。ちゃんと配って来るようにって言われてるんよ。ほら、どうぞ」

「じゃあ、頂きます」

「そこの人も! 杏子あんずどうぞ」


 顔隠しを付けて、顔は見えないが、声まで紹子にそっくりだった。なんと都合のいい目と耳をしているのだろう。菫子は自嘲した。


 その女房は、戸の近くにいる役人に呼びかけて、杏子を渡していた。中宮からの差し入れ、と言っていたから、中宮からも菫子が犯人と思われているのだ。宮中全体に、毒小町が犯人と広まっていると考えていい。


「ちょっとこの籠持っててくれん? まだもう一つあるから、持ってくる」

「え、あのこれ、渡されても」

「配って! 食べててええよー」


 女房は強引に籠を役人に押し付けて、駆けていった。籠いっぱいに入った杏子に、役人たちは初め顔を見合わせていたが、やがて我先にと食べ出した。果物は、基本的に高価なもので、中流の位の者たちが、こんなにたくさん一度に食べられることはあまりない。


「そういえば、橘侍従さんは来ないのか?」

「少し前から休暇を取ってるって聞いたぞ。来ないだろ」

「え? でもこの件取り仕切っているのが橘侍従さんだって」

「そんなわけないだろ。さすがに休暇中に指示出せないって。聞き間違いだろ」

「そうか」


 役人たちの会話が聞こえてきた。葵祭が近いというのに、俊元が休暇を取るのは不自然だし、何より調査中にあり得ない。何かあったのかと思ったが、菫子に会う資格などない。会うとしたら、紹子を殺めてしまった、その処罰の時だろうか。


「よいしょっと」

「え、わっ」

 呑気な声と共に戸が開いたと思ったら、誰かが入って来た。咄嗟に菫子は身を引いたが、紫檀と紫苑が入って来た人物とぶつかっていた。


「いてて」

「ちょっと、なんなの――え、あんた、なんで」

 入って来たのは、紹子だった。


 顔隠しを取って、あー、緊張したーなんて言っている女房は、どこからどう見ても、紹子だった。


「え、右近さん……? どうして。……ああ、霊になってわたしを殺めに来たのね。ごめんなさい、わたし――」

「待って待って! 勝手に殺さんで! うち、ちゃんと生きてるって」

「…………え、嘘」

「嘘やない」

「本当に、本当に右近さん? なんで、毒っ、は……っ」


 言い終わるより先に、涙と嗚咽が溢れてきてしまった。紹子が、目の前にいる。生きている。びっくりして、嬉しくて、もう何がなんだか分からなくなってしまった。


「あー、ぎゅーって抱きしめたいけど、うちには無理なんよね。二人とも! うちの代わりに藤小町をぎゅーっとして!」

「任せなさい!」

「分かった」


 紫檀と紫苑が、泣きじゃくっている菫子を、両側からぎゅーっと抱きしめてくれた。二人を通して、紹子の温かさが伝わってくるような気がした。紹子に聞かなきゃいけない。菫子は、ぐっと涙を飲み込んで、紹子に向き直った。


「右近さん。毒は、平気だったの……?」

「一日半くらい高熱は出たけど、その後、この通り回復したんよ」

「本当に、今しんどくはないの? 息苦しいとか」

「全然」

 紹子は、にっこりと笑ってその場でくるりと一回転した。本当に、体調は問題ないらしい。


「ありがとう、生きていて、くれて」

「体は丈夫やって言うたもん。あんな熱くらい、平気平気」

「本当に、良かった……。もしかして、右近さんも毒が効かない体質だったの?」

「いや、そういうことやないと思う、実際、熱は出たし。実はそのことで、話しておきたいことがあってな」


 少し小声になって、紹子は語り出した。その顔が真剣そのもので、菫子は少し怖く思いながらも耳を傾ける。


「藤小町の髪に触れた部分の、黒い痣、あれを見たことがあるって人がいたんよ」

「痣を? 一体どこで」

「十年くらい前に、その人、弁の命婦みょうぶの友人が体調を崩して、見舞いに行った時やって。会いに行った時にはもう熱は下がってて、大丈夫って笑っていたのに、その後急死してしまったって。なんか不自然やったって」


「そのご友人の名前は……?」

藤内侍とうのないしって言うてた。食い下がって、名前聞き出したんよ。季子としこさんやって。聞いたことある?」

「……!」


 藤原季子、菫子の母の名である。母の見舞いに来ていた人がいたらしい。見舞客と話が出来るほど、元気になっていた? 菫子の記憶では、母はずっと臥せっていた。いや、それは一体何日間の記憶なのだろう、数時間だったような気もしてくる。あの頃の記憶は、母の言葉以外、あやふやだ。


「藤小町の毒って、ほんまに人が死んでしまうような毒なん?」

「それは、だって」

「うちは生きてるよ」


 菫子の髪に触れたせいで、母と侍女は死んでしまった。それは紛れもない事実。でも、同じように痣が出た紹子は、生きている。何が違うというのか。


「中宮様に詳しく調べてもらえるか、頼んでみる」

「え、今わたしは宮中で毒事件の犯人にされているんじゃないの? 中宮様もご存じよね」

「中宮様は、信じていらっしゃらない。当然うちも。中宮様が果物を用意してくださって、何とかして会いに行っておいでって、おっしゃったんよ」

「そう、だったの」


 念誦堂の外は全て、菫子を犯人とする人しかいないと思っていたが、そうではなかったらしい。信じてくれている人がいるのは、嬉しい。


「第一、橘侍従様が行方不明になってるんやから、おかしいに決まってる」

「行方不明!?」

 つい、大きな声を出してしまいそうになって、自分の手で口を塞いで、言葉を押し込めた。思っていたよりも事態は深刻そうだ。


「三日くらい前から、どこにもいないんやって。主上が探させているけど、見つからん。橘侍従様がいらっしゃらないから、この軟禁も、うやむやにされてしまってるんよ。さすがに中宮様でも役人を動かすのは難しいって」

「三日前……じゃあやっぱり」


 この軟禁の処置を下したのは、俊元ではない。指示が出せるはずがない。俊元の名前を騙った別の誰かの仕業だ。まさか、東宮派が動き出したのか。菫子を軟禁状態にして、紹子を毒に触れさせ、俊元を行方不明にした。帝が危険に晒される状況になっている。強硬手段に出るかもしれない。


「どうしよう……」

「毒を盛った、ほんまの犯人が、悪いんよね」

「ええ。でも、えっと」

「話せんこと、公になってないことがあるんよね。主上が関わっておられることなら、仕方ないことやよ。うちに出来ることない?」

「橘侍従様から、何か聞いていない?」

「うちは何も。中宮様も調査のことはほとんど聞いていらっしゃらないって」

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