序章―毒― 5

 俊元に先導され、菫子は念誦堂へと向かう。かろうじて渡殿で繋がっているようで、着物を引きずる女房装束のまま歩くことが出来る。


「橘侍従様」

「ああ、一通り掃除はさせたから、大丈夫だと思うけど、何かあったら俺に――あっ」


 考え込んでいたところに、話しかけてしまったからか、俊元は丁寧な言葉ではなく、さっきの役人と話していたような、素に近い口調だった。振り向いて菫子と目が合ったところで、しまった、という表情になって止まった。


「すみません、つい……念誦堂のことでしたら、大丈夫かと思います。何かあれば、言ってください」

 わざわざ言い直しているのが、何だかおかしくて、菫子はそっと口元を緩めた。


「ありがとうございます。あの、お願いがありまして。毒小町が鈍色の着物を身に付けていると、噂を流していただきたいのです」

「どうしてです?」

「知っていれば、皆がわたしを避けることが出来ます。誰も、殺めたくはありませんので」

「分かりました。あなたは優しいですね」


 また、優しいと言った。俊元の考えていることが分からず、菫子は少し怖くなった。


「どうして、そのようなことを言うのですか。わたしは毒小町です。人を殺めてしまう者です。優しくなどありません」

「そうせぬように、動いているではないですか。それは、優しさに通ずると思いますよ」


 こちらを安心させるように、柔らかな笑みを向けてくる。余計に力が入っていた肩から、ふっと力が抜ける。菫子は、こくんと俯くように頷いた。


「あ、褒美のこと、考えておいてください。主上はあのように、おっしゃっていましたけど、本気ではないと思いますので。何か望みを教えてください」

「望み……」

 菫子は、立ち止まってその言葉を反芻した。



「……幸せに……なり、たい」



「今、何と言いましたか?」

 俊元に聞き返されて、声に出ていたことを知った。菫子は慌てて首を左右に振り、何でもないと主張した。


 ここだと示された念誦堂は、思っていたよりも大きいものだった。人の手を離れて時間が経った建物らしく、柱や壁は劣化や亀裂があったが、それでも六角形のそれはそこにしっかりと建っている。内部も俊元の言う通り、掃除されており、住むに困らないようになっていた。元あった位牌や仏は以前からなかったのか、掃除の際に回収したのか、室内にはなかった。


「少々不便かと思いますが、こちらでお過ごしください」

「いえ、充分でございます。ありがとうございます」

「ではまた明日に。主上からお話しがあると思うので、また時間になりましたら、迎えに来ます」

「はい」

 一礼をして去っていく俊元の背に、菫子は控えめに声をかけた。


「あの……」

「はい」

「あの、えっと、敬語じゃなくて構いません。橘侍従様の方が年上でございますし、気を遣わずとも、先ほどのようにお話しいただいて、構いません、ので」


 言いながら、菫子は、自分がもっと俊元と話がしてみたいと、そう思っていることに気が付いた。今まで人と話すのは、気が重いだけのことだったのに。菫子を怖がらない者が、珍しいから、だろうか。

 俊元は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑みを浮かべた。友人に言うように言い直した。


「ん、分かった。また明日」





 その日の夜、菫子はなかなか寝付けなかった。頂点に向かって収束していく天井を見つめながら、長く息を吐いた。

 こうして眠れない夜は、母のことを思い出す。床に伏して、息を吸うことも吐くことも苦しい中で、母は菫子に言った。


『菫子、幸せになりなさい』

『母はあなたに出会えて、幸せよ』


 毒に侵された母の手は、黒い花のような痣があった。菫子の頭を撫でようと伸びてきた手を、菫子は避けた。触れたかった。撫でて欲しかった。でも、これ以上、毒に触れさせてはならない。


「――――おかあさま、幸せが何かも分からないのに、どうやって幸せになればいいのかしら」


 菫子の小さな声は、春の風に掻き消えた。

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